逆行図書館:3

 扉の向こうは一畳半ほどの、向かって縦長い空間でした。

 リノリウムの床はほどほど薄汚れていて、白いペンキ塗りの壁に電灯のスイッチや排煙装置の類は見受けられません。そもそも天井には電灯もありません。私の背後から差し込む蔵書室の灯が移動式本棚の隙間を縫って、どうにか差し込むばかりです。

 その一畳間の最奥の壁面には、先ほどお小言を受けるハメになった原因であるダムウェーダーが設置されています。

 暗がりの中で恐らくは運転中を示していると思しき操作パネルの緑色のランプは、昔の信号機のような、飴玉めいてくすんだ輝きで、茫々とこの一畳間における唯一の光源としての役割を担っていたようです。その稀な光も、私の後光めいてわずかに差し込む蔵書室の白いLED灯の光が少し差し込んだだけで、彼のはたらきはおおいに霞むことになりました。



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 後日であります。いかに私が好奇の徒であろうとも、どこに繋がっているのかはっきりしないダムウェーダーを業務の只中で考えなしにいじくって仕事をほっぽらかすほどアレではありません。あの部屋のことは誰にも言わず、聞かず、教えず、そっと胸の内にしまっておいて、考えを立てて日を改めてからいじくることにしました。

 もしここにいるのが私ではなく、我が恥多き知人、ヨシダくんであれば迷いなく就業中の探索に手を染めるでしょうが、そもそも彼にはアルバイトなど到底務まりそうにありません。

 さて、前回の勤務から三日後です。私は再度参考図書エリアでの配置に預かり、あのダムウェーダーについて探りを入れる機会を虎視眈々と窺い、ある布石を打ちました。児童書エリアの担当者に、暇を見て折り紙で飾り用の鶴やら金魚やらを折ると申し出たところ、担当のハザマダ氏は大喜びで私に3ダースほどの折り紙を預けました。


 ……『カウンター業務中、貸出返却の合間にひたすら折り紙をこさえ続ける→そのせいで書庫返却の資料を“うっかり”溜めてしまう→貯まった資料を書庫に戻しに行く→書庫配架の作業は多少時間がかかっても正確さを求められるため、15分は稼げる!』……


 私の組んだ段取りは、このように簡単かつ悪質なものでした。時給の四分の一を不当に持っていくのですから、これはもうヨシダくんを笑えません。ましてや市立図書館ですので、市の財政は私という吸血蛭に張り付かれたことに気づくことなくその血税から成る予算を捧げるハメを見るのです。ヨシダくんにこのことを懺悔すれば「へえそうなんだ」としょうもないリアクションで遇されること請け合いです。

 哀れかな、夕宮市。


 まあそれはそれとして、組んでしまった段取りはもはや動き出す他ありません。並べたドミノは倒すしかなく、倒したドミノは不備が無ければ止まらないのです。目論見通りというかなんというか、みるみる内に返架ラックには大仰な書物がずんずんと積もっていきました。


「ああっ、すみません。私、書庫に戻すのを、すっかり忘れてました。すぐに、急いで、戻してきますねっ」


 いささか演技力に一抹の不安を抱える私ですが、精一杯の熱演で、多少は悪びれていることをチラつかせて書庫に向かう旨を同じカウンターに座って、私よりも難しく責任のある業務を担っている嘱託職員のナントカさんに伝えると、「ゆっくりでいいですよ」とおっしゃってくれました。

 …言質、ここに取ったり!お言葉に甘えてゆっくり戻すことにしましょう。私はカウンターを立ち、先日運んだぶんを上回る目方の資料が積載されたラックをゴロゴロいわせながら、図書館という場所の特性上どうしても移動音が目立ってしまうことに若干の後ろめたさを感じつつもラックを書庫に押し込みました。

 利用者の皆様の静謐を汚した咎につきましては、慙愧に堪えぬことをこの上なく思い知るばかりでありますが、勤務時間の一端を知的好奇心を満たすことに費やして給金を不当に掠め取るこの所業においては、不思議となんとも思いませんでした。学生などそんなものです。


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 壁際の扉を開けた先には、先日覗いたダムウェーダー室が、恐らくは何も変わらず、願わくば誰も踏み入ることのない仄暗い闇の中で、その未知と謎を擁していました。

 きっと、この部屋も、あのダムウェーダーも、その先にある空間も、私のことなど待ってはおらず、さりとて嫌ってもいなく、ただそこに泰然自若として存在する謎という、なんの意志も介在していない無機質さに少し惹かれてきました。

 鍵の施錠さえされていないということは、少なくともこの書庫に立ち入れる人間であれば入っても咎められる道理はないということです。にもかかわらず、胸のあたりがずっとバクバクいってます。


 この図書館の立地を考慮すれば、二階の参考図書エリアに隣接する書庫にあるこのダムウェーダーは一階の児童図書エリアの書庫に繋がっているはずです。ですが、以前立ち入ったときの記憶では一階の書庫の壁際には扉も何もなく、もちろんダムウェーダーなどありませんでした。一応ここと繋がっている運搬機もあるにはあるのですが、あるのは書庫に入ってすぐ右のあたりです。座標が違います。そして、この図書館は二階建てで、このエリアは二階にあるので、運搬機が上に行くこともありません。よもや屋上に続く小荷物専用昇降機などあるはずもなく……いや、まあ、日本のどこかにはあるのかもしれませんが、図書館にそんなものを設置する理由が考えられません。

 であれば……これの行先は“地下”ということになりますが、この中央図書館に隠された地下書庫があるだなんてロマンたっぷりな話は聞いたことがありませんし、図書館の公式ホームページでもアルバイトの新人研修でも地下室など見たことがありません。


 私が心臓をバクンバクンいわせながら、操作パネルの開閉スイッチを震える指先でプチリと押下すると、ダムウェーダーの自動扉は間髪を入れず上に開きました。扉の向こうは縦横の幅は一メートルにひとまわり足りないくらいで、奥行きも同じ程度。中には虫やネズミの死骸もなければ血と臓物に塗れていることもない、普通の小荷物専用昇降機のそれでした。小学生の時分に見た給食運搬用のそれとは異なり、棚の役割を果たす仕切りが無いことを除けばおおよそ普遍的なダムウェーダーのはずです。

 このダムウェーダー以外には何もないくせに、異様な物々しさで満ちているこの空間に気圧されたあまり、開扉の瞬間に「ひっ」と声を漏らし、腰を抜かしてへたり込んだというのに、拍子抜けもいいとこでした。

 ……何度も日を跨いで申し訳ないのですが、ついでにあなたにも拍子抜けしていただきたいため申し上げますと、本節でもダムウェーダーに乗り込んで謎の地下室に立ち入る予定はありません。


 私はポケットからそっとスマートフォンを取り出し、カメラアプリを起動してから動画撮影モードに切り替え、ライトを点灯させる工程をガタガタと震える手つきで行い、スマホカバーを器用に変形させてカメラスタンドの役割を果たせるようにした後、カメラレンズが手前を向くようにダムウェーダーの内部にそっと置きました。

 ライトがダムウェーダーの中から煌々と部屋を照らす中、私は白光に目を細めつつ、震えが少し収まった手で、ポン。と画面をタップすると録画が開始されました。


 そうです。向かうのは私ではありません。このスマートフォンを斥候として地下に送り込みます。もちろん私のスマートフォンには手足が生えて歩き出すような機能は無いので、撮影が出来るのはあくまでもダムウェーダーが地階に到着したのち扉が開いた先の景色のみですが、とりあえず今はこれだけ。無いとは思いますが、何かの間違いで生ゴミの廃棄所などに繋がっていたら私に臭いが移ってしまいます。あと普通に何があるかわからないので怖いです。


 もう一度開閉スイッチを押下すると、ダムウェーダーはその扉を、開くときに比べるとやや緩慢に閉じました。扉の隙間が小さくなるのに合わせて、室内を照らす光は徐々に阻まれてゆき、完全に閉扉を果たすと同時に部屋の中は再びランプの光と書庫の電灯を除いてその光源を失いました。機械の動作中のサインなのか、ランプの光はぺかぺかと明滅を繰り返しています。今、このダムウェーダーは私のスマートフォンと共に、恐らく地階へと潜っているのでしょう。


 ……もし戻ってきた運搬機の中からスマホが無くなっていたり、あるいはここと同じような、特に面白みのない部屋が映し出されていたらどうしましょうか。これだけドキドキさせておいてそんなオチは勘弁してほしいものですが。前者は前者で刺激的ではあるのですけれど、それはただ単に困るだけというか、怖い以上に迷惑です。


 ────果たして、一分は経ったのでしょうか。たかだか二階下の地下へ降りるだけでこんなに時間がかかるものなのか。と不安になるほど長い体感時間でしたが、この時間が業務中のサボりであることと、この部屋に時計が無いことに加え、スマホも手放したことで時間を確認する術を失ったこととで、時間の感覚がシビアになっているのかもしれません。なぜ私はたかだか時給900円と少しのアルバイトの中でこんなに気を揉まねばならないのでしょうか。好奇心は蚤の心臓を殺します。

 この数分間で発生した時給と十秒あたりの私の脈拍回数のどちらの値が上なのかについて、皮肉やおふざけなしで互角を疑い始めた頃。ようやくランプの明滅は止みました。下の階へ到達したのでしょう。私は間髪を入れることも惜しい気持ちをぐっと抑えて10秒ほど待ってから、もう一度開閉スイッチを押下しました。ランプは再度明滅し、昇降機が下階から昇ってきます。昇っているはずです。


 先ほどよりは短く感じたけれど、先ほどよりも心臓が猛り狂う待ち時間を経てまたランプの明滅は止みました。


(どうか、中から化け物が飛び出したりしてきませんように)


 あまりにも鼓動が早まりすぎて『ドーーーー』という音を発しているとしか思えない心臓を無視して、私はクラクラと歪む視界の中で、(こんなにドキドキするならやるんじゃなかった)とよくわからない後悔をしつつトンボの目でも回そうとしているかのように照準の定まらない指先を、開閉スイッチに押し込みました。



 ────────ああ。ダムウェーダーの中で私のスマートフォンが、何の様子も変わることなく。ライトの点灯もそのままで同じ位置にいてくれたこの感動を、どう伝えれば共有できるでしょう!





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夕宮市奇聞録 @TANABUTTON

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