逆行図書館:2

 夕宮市立中央図書館は、いくつかに分かれた区画によって置いてある資料の性質が異なります。絵本や、マンガ伝記などが占める児童書エリア。

 学術資料や官報、百科事典や地元の歴史などをまとめた資料が置かれている参考図書エリア。そしてジャンルを問わない資料を多種取りそろえた、もっとも規模の大きい成人図書エリア。他にもいろいろ細分化できるのですが、とりあえずおおざっぱにはこんなところです。

 その日の私は、もっとも暇で、─私の所見ですが─もっとも重要度の高いエリアである、参考図書エリアでのシフトを組まれておりました。

 この区画はそこまで蔵書が多くなく、比較的利用者自身で探すことが容易なため本の場所を尋ねる申し出はほぼなく、貸出、返却の業務と書庫の資料の閲覧申し込みを処理するぐらいであります。その貸出返却も、隣接した成人図書で済ませる利用者がほとんどであるため、参考図書エリアでの勤務は返却された資料の汚損、破損を探すふりをして気になる本をゆとりを持って読むだけで時給がいただけるたいへん“オイシイ”職場なのです。他にもいろいろあるようですが難しいことは司書さんに任せています。私はしょせんアルバイトなので……


御鉈辺みなたべさん。そろそろ書庫への返却をお願いしていいですか?」


 とはいえバイトはバイト。やることはやらないと、お金はいただけても勤めさせてもらえません。

 参考図書エリアは書庫に隣接しておりまして、書庫の本をお求めの方はこちらのカウンターに来て手続きを踏むという段取りなんでございます。

 そしてまあ書庫の本とやらは、どれもこれもでっかい。あるいは古い。

 なので、書庫から出してもらったはいいが重すぎて持ち帰れなかったり、斜め読みしたら思った内容と違ったりしてすぐカウンターに突っ返すなど、諸々の理由ですぐ戻って来るんでございます。そのたんびに書庫への重い扉を開いて薄暗い本棚の森に分け入って、一冊だけ本を戻してまた出ていくのはあまりにも効率が悪いことは、みなさんご理解をいただけると思います。

 なので、ある程度本が溜まってから、私みたいな雑用係がでっかい本をいくつも抱えてしばらく書庫にこもるわけです。いやまったく、女の細腕には堪えます。


 ……はい、なんでしょう。え?名前?

 ああ、はい。そうです。ええ。このお話にはまったく関係ございませんが、御鉈辺来子みなたべくるこというのが私の名前です。別になんでもいいんですよ。紫式部でも阿部定でもなんでもけっこうです。どうせ家族と、数少ない友人以外から名前で呼ばれることはありません。ただの御鉈辺ですよ。


「はい。行ってきます」


 その日も、こんな木っ端大学生が責任を持って正しい場所に戻すにはずいぶん高価な本を何冊も抱えて、カウンターを抜け出して書庫に向かいました。自重で閉まろうとする入り口の扉を膝で食い止め、ドアの隙間を猫のように縫いながら……。


 扉の向こうに脈々と連なる、果たして何ジュールに上ろうかという“情報”の山脈は、陽の光のひとすじも差し込まない屋内にありながら、薄い白色灯で、しーーーん。と照らされていました。

 近くの返却ラックに抱えている本を寝かせたあと、一息つきました。バイトというのは一分一秒が貴重な勤務時間です。精一杯、丁寧という名の皮をかぶった緩慢な動作で食いつぶすようにしています。この量なら10分は稼げそうですね。

 ハンドル付きの移動棚をえっちらおっちら動かしながら、浅学の身ではどう興味を惹かれるのかイマイチ理解しかねる本の数々を書棚に納めていくと、ちょうど壁際の棚に配架していた頃です。棚の向こうに扉を見つけました。書庫に入って右奥の壁に面した、白ペンキで塗られたものです。

 どことなくオシャレで、ミステリアスな気配の漂う妖魔的存在が道楽で経営していそうな喫茶店の扉のよう……ではなく、無機質な書庫の雰囲気と似合いの、そこそこ丈夫そうで、一見すると掃除用具入れのような、鉄製のつまらない扉でした。

 一見すると掃除用具入れのような扉。と表したぐらいですから、私も掃除用具入れだと思いました。ですが、いささか場所がおかしい。


 壁際の書棚に配架していた時に、棚の向こうに見つけたのです。おわかりでしょうか。言い換えれば『移動棚のもっとも端が面する壁』に謎の扉があるのです。もっとあけすけに言えば、そこから掃除用具を取り出そうとしているときに不慮の事故で移動棚をドア側に寄せられたら、棚と壁に挟み潰されて死にます。仮にインディジョーンズかハムナプトラかのように、迫りくる本棚から逃れんと機転を利かせて咄嗟に掃除用具入れの中へ逃げ込めば命は助かりますが、今度は本棚が文字通りの壁になって用具入れから出ることが叶わなくなります。

 もしこの謎のドアが外開きであったなら、ドアが壁に対して垂直になるように開け放した状態にしておくことで人が一人通るぐらいの空間を確保して棚を食い止めることが出来たかもしれませんが、ドアのヒンジを見たところ、このドアは内開き。つまり、外からだと押し開ける格好になります。

 ハッキリ言ってこれは構造上の欠陥と言わざるを得ず、私は公共施設での業務に従事することで給金をいただく身として、この設計の危険性を直ちに深刻に受け止め、義務感と使命感と責任感に奮い駆られながら意気揚々と館長の元へ向かい、このヒヤリハット案件の是正を提言し、未然のうちに職員の身の危険を排した功をおおっぴらに取り上げられ、『御鉈辺さんはえらいね』『御鉈辺さんは信用がおけます』『御鉈辺さんはスタイルが良くてかっこいい』などと、あれもこれもと褒められる内に時給を200円ほど上げてもらうべきなのですが、まだもう一つ、気になる点がございました。



「……これ、何のドア?」


 つい口に出した疑問の独白は、物々しくも広大な書庫ではよく響きました。─これだけぎゅうぎゅうに本がひしめいているのだから、積もった雪みたいに私の声を吸い込んでくれても良さそうなものですが、パンパンに情報が詰まった彼らに私の声を吸い込む余地は無いみたいです。─

 もし私の推察通り、掃除用具入れなのだとしたらその旨がドアに書いていてもおかくないはずです。というか、それなら何のドアだとしても奇妙です。ドアには

 配管室や分電盤室であればその旨を明記し、立ち入りを禁ずることを明確に示しているでしょう。そうです。この扉にはのです。ついでに鍵もありません。言い換えれば、がこんな危なっかしいところにある……


 これは、なんというか得体が知れません。



 ―――――――――――


 愛書家が愛書家たりえる必須条件とはなんでしょう?

 内容を理解するための読解力。退屈な活字の羅列に飽きない我慢強さ。迂遠で冗長な言い回しにしびれを切らしてすぐに要約と結論を求めない心の余裕。候補はいろいろあげられますが、私はひとえに“知に対する興味”であると考えます。

 知らないことを聞いても、知っていることを聞いても喜びを感じる心。既知も未知もまとめて愛せる。そうした素養を備えていることが愛書家の必須条件であり、共通点ではないでしょうか。何も字を読むことだけが読書ではありません。写真集や画集もれっきとした書物。その内奥に秘められた世界を知るためにページをめくることは、たとえタイトルにさえ目を通さなかったとしても紛れもなく読書です。

 そして私もわざわざ図書館の求人に応募をして面接を通るぐらいですから、当然“知”への興味は強いほうであると自負しています。その証拠に、制服として貸与されたエプロンのポケットは勤務中に気になった本のタイトルを書き留めたメモでいつもパンパンです。

 私はさほどためらうことなく、パンパンに膨らんだエプロンのポケットをそっと撫でて、その扉を開きました。

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