第45話 終話 新しい世界の匂い(2)
泉は、キョー助がこの明るく人望のある美少女を異様に恐れることを不思議に思っていたが、いまなら理解できる。
事故現場に立っている女の姿形は春日涼水に間違いない。彼女の整った美しい顔はいままで何度も見てきた。
しかしこんな女のことなど泉は知らない。こんなモノ見たことがない。
春日の目を見ていると、自分が積み木を崩すようにばらばらになってしまうように思えた。横にいる魔王とは全く違った怖さだ。
「こんなところで突っ立って何してるん?」
魔王がスッと滑るように春日との間合いを詰めていく。
春日はしばらく魔王をみていたが、やがて崩れた塀を見下ろして答えた。
「まだここにいるような気がしたから」
「あんたもキョー助を生き返らせるつもりなん?」
「できないわ」
「どないして?」
「手、離しちゃったから」
瞳の奥をがらんどうにして現場にこびりついた血をみる春日。
魔王は紅の瞳に火を宿して春日を睨んだ。
すると魔王の美しい顔に薄く困惑の色が浮かんだ。魔王の瞳の炎は勢いを失い、代わりに月夜の湖面のように静かになった。急な魔王の変化に、横で息を呑んでいた泉はあっけにとられた。
「まるで世界に一人とりのこされたような顔やねぇ」
そう春日に語りかけた魔王の声は、どこか夏の線香の香りを思い出させた。
春日は魔王をじっと見ていた。そして魔王の紅の瞳に映る自分に向かうように言った。
「キョー助が死んで私はひとり。ずっとひとり」
「他にもぎょーさんおるやん」
魔王が泉を指差していうと、春日は無表情に首を横に振る。
「好きに作って、壊せて、どこからきて、どこにいくのかわかっているモノを人間とは言わないわ。だからこんな所、いっそのこと」
春日が半眼になり、瞳の奥の暗闇が大きく脈打った。静かだった住宅街が耳が痛くなるような無音に支配された。
泉は絶望した。神がこの現実世界を見捨てようとしていた。唐突に世界が終わろうとしていた。
「春日さん、それは早計です!」
泉は叫んだ。手遅れになる前に、必死に、遮二無二言葉をかき集めて春日にぶつけた。
「あなたはこの世界のすべてを知り自由にできる。それ故にキョー助くんを取り戻すことが不可能だと悟った。しかしです!いまこの世界にはあなたの理解と支配が及ばないものがあります。例えばいまそこにいる魔王もそうです!」
春日は半眼のまま瞳を魔王へと滑らせた。そして魔王の左の赤い瞳の向こうに自分の知らない光が揺らめいているのをみつけ、春日は半眼を見開いた。
「あんた、なぜここにいるの?」
「あれが死んだ場所を見ておこうと思ってなぁ」
「そうじゃない。あんたあっちで死んだんでしょ。なのにどうしてここにいるの?」
「うちは誰かに手を引かれてきただけやぁ」
「誰に?」
「一人しかおらんやろ」
魔王はそういって手向けられた淡色の花を見た。
春日の奥の暗闇の脈動が弱まったと見るや、泉は素早く言葉を割り込ませる。
「これはキョー助くんを生き返らせる手がかりです。春日さん、この世界を消してしまえば、その手がかりも消えてしまいます。それでもいいんですか?」
「……ここは私の知らない世界ということ?」
「そうです。いままでの死が絶対だった世界ではなく、誰も知らないまったく新しい世界です」
「……私はもう世界を作り変えられない?」
「キョー助くんを取り戻す手がかりを失いたくないのなら」
「ここは私の知らない世界……、悪夢はまだ消えてない……」
炎天下、春日は自分の肩を強く抱き、まるで冷気の中にいるように呟いた。
「これ、なにぃ?」
魔王が壊れた塀の向こう側にしゃがんで、なにかを拾い上げた。それは黄色く薄い箱で、強く握られたように大きく潰れ、茶色く変色した血の跡がべっとりとついていた。
泉が幽霊に出会ったような顔になった。
「キョー助くんが持っていた総合バランス栄養食の……。遺留品の捜索は徹底的に行われたはずなのにどうして……」
魔王は黙って血まみれの総合バランス栄養食を春日に渡した。
キョー助が学校では総合バランス栄養食しか食べていなかったことは春日も知っていた。だからあらゆる手段をつかってキョー助に自分の料理を食べさせようとしてきた。
幼い日、春日の作ったたこ焼きでキョー助が死んでからいままでずっとそうしてきた。だがそれは今まで一度も成功していない。
春日は自分の思うようにならないキョー助に苛立ち何度も殺してきたし、この世界ではどうしようもないのないのだと、ほとんど諦めていた。
しかしあの異世界でキョー助は春日の作ったたこ焼きをひとくち食べた。もう無理だと思っていたことが実現した。あのときの強烈な心の震えは忘れることなどできない。
キョー助は死んでしまった。そのかわり現実世界はかつて春日が失敗しつづけてきた世界とはもう別のものになった。
ここは未知の新しい世界だ。未知は恐ろしい。しかし春日はいまその闇に強烈に惹かれていく。未知の闇の中に光がある気がするのだ。
春日は顔を上げた。
そうだ、あんな不出来なたこ焼きなど食べさせたうちに入らない。春日自身が納得が行かない。 食べさせるなら完璧なたこ焼きを作り、完膚なきまでにうまいと言わせなければならない。春日はまだ願いを叶えていない。
「だからまだ終わっていない」
春日は血まみれの黄色い箱を寒そうにしながら抱くと、魔王と泉を見ていった。
「あなた達、手伝いなさい」
「はぁ?」
「なにを、です?」
きょとんとまばたきをする二人に春日は言った。
「キョー助にたこ焼きを食べさせるのよ」
「……」
「……」
二人はいきなり宇宙空間に放り出されたような顔になった。何の話か全くわからない。
泉がなんとか体制を立て直して声をあげた。
「ど、どういうことでしょうか?」
「キョー助は生き返る、もしくは生きている。だったらなにかを食べるはずでしょう?」
「はぁ」
「それなら食料の共有網を通じてキョー助を見つけることができるわ」
「はぁ……」
「なら今度こそあいつに私が作った料理で美味しいって言わせることができる。そうよ、これよ。これしかない。だからあなた達は私を手伝いなさい!」
「……」
泉がどうすればいいかわからず途方に暮れている横から魔王が声を上げた。
「なんかよう分からんけど、助力を求めるなら、まず名前ぐらい名乗りぃや」
「そういうあんたの名前は何なのよ?」
「名前?うちの?」
魔王は豆鉄砲を食らった鳩のように春日を見た。
次にゆっくりと横にいる泉を見て、空を見上げた。そして最後に事故現場に手向けられた花を見た。
魔王にとってもここは勇者も姫もおらず、105万1598人の仲間たちも魔王を恐れる人間もいないまったくの新しい世界だ。この新しい世界で失われた自分の名はどう響くのか。それに思い巡らすことは恐くもあり、心踊ることでもあった。魔王はすうと深く静かに息をすると春日と泉に向かって胸を張った。
「うちの名はメアル。……そうただのメアルや」
少し頬を紅潮させている異世界の魔王だった少女の名を聞いて、春日は寒さが和らいだ気がした。
「で、あんたは?」
「ええ?!」
春日に名を尋ねられ泉は悲鳴を上げた。
「知らなかったんですか?」
「キョー助以外どうでもよかったから」
傲然と言い放つ春日に泉は深くため息をつくと、姿勢を正して直立し、腰から10度前傾していった。
「泉純一です。よろこんで春日さんのお手伝いしましょう」
泉の名を聞いて、春日の身の寒さがまたすこし和らいだ。そんな自分の変化を不思議に心地よく感じながら、春日は二人に向き直る。
「はじめまして。私は春日涼水。これからよろしくねメアル、泉」
微笑む春日の体が分厚い暑気に包まれ、むせ返るような匂いが春日の口と鼻を埋め尽くした。
メアルの甘い汗の匂い。
泉の制汗剤の匂い。
茂る木々の匂い。
地面に転がる虫の死骸の匂い。
ブロック塀に染み込むキョー助の血の匂い。
新しい世界の匂いが春日の中でみずみずしい実感の塊を作っていく。
その中に真夏の日本ではありえないものが混じっていた。
冬の日の濡れたコンクリートの匂い。
春日の目がすうっと冷たくなる。左腕のないコンクリート色の肌をした女が、キョー助を追って駆けていく後ろ姿がありありと蘇ってくる。それは春日の中にできつつある塊に黒いマグマをまとわせた。
「また誰ぞ殺すんかぁ?」
メアルが春日の冷たく光る目を覗き込んでいた。春日はメアルの瞳の妖しい揺らめきに、ガラス細工のように冷たく美しく微笑むと、メアルの手をとって歩き出した。
「ついてきなさい。まずはあんたたちに究極のたこ焼きってのを教えてあげるわ」
春日はメアルと泉を引き連れて住宅街の坂道を下っていく。その目には未知の暗闇にいるキョー助の姿がはっきりと見えていた。
(終)
天敵の幼なじみからは、死んでも逃げられない 梅雨ノ木馬 @tichi1976
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