第44話 終話 新しい世界の匂い(1)

 夏休みの残りが片手で数えられるようになったころ、泉はキョー助が白い車に轢かれた事故現場にむかって住宅街の坂道を降っていた。セミは鳴かず、天頂からの日差しがすべての影を消していた。


 泉は白い花束を手にしていた。事故以来、現場には何度も足を運んだが、花を持ってきたのは今日が初めてだった。


 泉は春日が作った異世界に潜り込むのに力を使い果たし仮死状態になっていた。大灯台が折れたあたりから現実世界が再び動き出すまでの間、何があったのか泉は知らない。目を覚ましたとき、キョー助は白い車に押しつぶされていた。


 泉は現実世界を守るためにキョー助に死んでくれと頼み、願い通りキョー助は死んだ。だからせめて花ぐらい持ってくるべきだ。これからもずっとそうしようと思っている。


 だがさっきから、花束の包み紙が照り返すギラギラとした日光が煩しい。そう感じるのは泉がキョー助の死を受け入れられていないからだ。


 泉はキョー助は死んだのだと自分に言い聞かせつづけている。しかしそのすぐあと別の自分がキョー助の遺体を確認していないじゃないかと反論してくる。あの事件以来ずっとその繰り返しだった。


 確かに泉はキョー助の遺体を見ていない。警察も、泉が所属する秘密組織も、だれもキョー助の死亡を確認できていない。


 なぜなら事故の直後、キョー助の体が消えたからだ。




 キョー助が消えたとの報告を受けたとき、泉は自分がまだ異世界にいるのではと混乱した。


 事故現場に駆けつけると、そこには十数の野次馬と、警察車両と救急車と、破壊された壁と前半分が潰れた白い車と、大量の血痕と鉄臭さと生臭さがあった。少し離れたところに春日涼水もいた。


 壁の向こうはマンションの敷地で、その共用部の庭に引きずったような血の跡が残っており、通用口のあたりで途切れていた。そこにキョー助の遺体はなかった。


 予想外の事態に泉は大いに慌てた。組織も大混乱となり、上層部から全力をもってキョー助の行方を追うよう指令が飛んだ。


 まもなくネット上に事故直後に撮影された動画がアップされているのが見つかった。たまたま居合わせた通行人がスマートフォンで撮影したものだ。


 動画にはけたたましく鳴るクラクションの音と、亀裂が走った壁とストローの袋のように潰れた白い車の間から赤い血が音もなく広がっていく様子が写っていた。


 撮影者が興奮していたため画面は終始大きくぶれていたが、キョー助が壁と白い車の間で潰されているのが確認できた。画面の奥から春日涼水が駆け寄ってくる姿も写っていた。


 春日が近づいた時、キョー助を挟んでいた壁が大きく崩れ落ちた。


 同時に悲鳴が起こり画面は現場と反対方向に向けられた。撮影者が驚いて逃げたのだろう。再びカメラが現場に向けられたとき、すでにキョー助の体はなくなっていた。


 動画の詳細な解析の結果、崩れていく壁から何者かの右腕が伸びているのがわかった。腕は20歳前後の女のもので、その腕の持ち主が壁を破壊し、キョー助の体を引きずっていったのだろうと推測された。


 泉はすぐにこの動画には写っていなければならない人物が写っていないことに気がついた。それは泉が現場についた時、そこにいなければならない人物でもあった。


 その後、泉たちは拡散された動画の消去や、白い車の運転手や目撃者の口封じ、官公庁などへの根回しなど、この事故を消すために夏休みのほとんどを費やした。キョー助を連れ去った犯人の素性から組織の存在が露見するのを防ぐためだ。

 

いままで泉たちは多くの事実を隠蔽してきた。世界を改変する救世主を監視する組織は、世界で最も事実の隠蔽に長けた組織だというのは皮肉なものだと、泉はいまさらながらに自嘲する。



「連れ去った犯人の目星は付いてるん?」


 いつのまにか泉の横に、つばの広い麦わら帽子をかぶり青い氷菓をもった少女がいた。泉は無意識に少女から一歩離れて答えた。


「由木三星で間違いないと思います」


「へぇ、あの死体女がまた思いきったもんやなぁ」


「由木さんはどうしてこんなことを……」


「あれを生き返らせようとしてるんやろ」


「……まさか」


「どないしてぇ?」


「だって」


 なぜなら死者は蘇らない。それはこの世界の絶対のルールだから。泉はそう否定しようと少女に振り向く。


 少女はコーカソイドの白い顔に金髪縦ロールと赤い瞳で、さらに右目には眼帯という美少女で、フリルがフリフリの半袖の白いワンピースを陽炎の中に揺らして泉を見ていた。少女は青い氷菓の先をかじりると、泉の目を覗き込むようにしてニイっと笑う。


 この世の物に非ざる赤い瞳に飲み込まれるような気がして、息が詰まる極暑にもかかわらず泉は寒さに震えた。


 この少女は魔王と呼ばれていた異世界の存在で、大灯台の下敷きになって死んだはずだった。そもそもあの異世界は春日が作った仮初の世界で、街も住人もすべて崩壊してしまったはずだ。だが事故の日の夜、泉の目の前にこの魔王が現われた。


「なにがおもろいん?」


「え?」


「笑うてるでぇ、あんた」


 泉はとまどいながら顔に手を当てる。たしかに口元が妙に強張っている。これは笑っているというのか?どうして?だが泉はそれ以上自分の感情を探るのをやめた。探ろうとするのを僅かに残っていた世界を守る組織の一員としての職業意識が思いとどまらせた。


「キョー助くんは生き返るのでしょうか?」


 顔の筋肉をバラバラに引きつらせている泉を、魔王は気味悪そうにみながら答えた。


「たぶんそうなんちゃう。よう知らんけどぉ」


「なぜそう言えるのですか?」


 魔王は青い氷菓の残りをシャクシャクと食べてしまうと、冷たい余韻を楽しむように瞼をおろし、右目の眼帯の上に手をおいて言った。


「つながってる。そんな感じがあるからやぁ」


 泉は魔王と同じように右目に手をあててみたが、首を振って小さくため息をついた。 


「あなたならキョー助くんを生き返らせられますか?」


「そうやねぇ……」


 魔王が言葉の途中で不意に立ち止まった。


 どうしたのかと泉は恐る恐る麦わら帽子の下を覗き込むと、「ひっ」とおもわず魔王のそばから飛び退いた。魔王は左目に残った紅の瞳を火を吹きそうなほど赤く輝かせ前方を睨んでいた。


 魔王が睨む先、30メートルほどに事故現場が見えていた。


 事故から数週間たっているが、コンクリートの壁には大きな穴が開いたままで、コンクリートの割れ目やアスファルトの隙間には、まだ赤黒い血が染み込んで残っている。


 泉の立っている場所からは血の跡など見えないが、それらは泉の脳の襞にこびりついている。思い出すと鼻の奥に重い生臭さが蘇る。


 現場には淡い色の花が手向けられていた。その傍らで女がこちらを見ている。


 女は7分の丈の色の濃いデニムに、体にフィットした黒い長袖のブラウスを着ていた。遠目にそれは、白昼に黒く空間が裂けているように見えた。


 泉はその女をよく知っている。


 キョー助の幼馴染で、泉たち組織の監視対象で、世界を改変する力を持った人物、春日涼水だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る