第43話 溢れる死、零れる想い(9)
キョー助は闇の中を落ちていた。
何も見えないほど暗く、氷に閉じ込められたように冷たく、自分という実感がひたひたと消えていく。
何度も繰り返すそのたびに、たった一人消えていくことが怖くて泣きたくなる。
しかし今回は怖くなかった。というかそれどころではなかった。暗くて何も見えないが、胸に誰かがいる感触があるのだ。
それは片手でキョー助のシャツをしっかりと掴み、小さな顔を強く押し付けている。触れているところは柔らかく、冷たい闇の中でほんの少し温かった。
キョー助がその温もりに向かって声をかけた。
「なぜお前がここにいる?」
「一人じゃ寂しいと思って」
由木の無機質な声と共に、胸に当たる感触が強くなった。
「いや寂しくないし」
「うそ」
「嘘じゃねー。だいたいこれは俺のだぞ」
「これって?」
「この暗闇だよ。これは俺の死だ」
「死ぬのに自分のとか他人のとかってあるの?」
「あるに決まってるだろ。帰れ」
「いや」
「帰れよ」
「いやよ」
シャツが強く握りしめられるとキョー助は盛大に溜息をついた。
「お前は俺を殺したかったんじゃないのか?」
「ええ。そしてもうすぐあなたは完全に死ぬ」
「お前もな」
「そうね」
由木の吐息と声が胸をくすぐる。キョー助はあんぐりと開いた口を塞ぐことができない。
「そうねって……、お前が死んだら意味ないだろ」
「そうでもないわ。あなたと一緒なら」
「……もしかして、はじめからこれが狙いだったのか?」
光も音もない暗闇で、由木の鼓動がはっきりと伝わってくる。
「あなたと一緒に春日の手の届かない所へ行きたかった」
「はい?」
「私は春日に作られ、用が済んだら消えるはずだった。でもあなたが手を引いてくれた。あなたがいたから、私は春日が書き換えつづける世界で生きてこれた」
「それ、俺を殺す理由にもお前が死ぬ理由にもなってないぞ?」
「……鈍い」
「はあっ?」
キョー助がバカにされ声を荒げると、由木はキョー助の首に右腕の回し、キョー助の耳元に口を寄せた。
「あなたを独り占めしたかった。それだけよ」
由木の吐息は耳を焦がしそうだった。キョー助はドキリとして息が止まり、そしてゆっくりため息をつく。
「まんまとしてやられたということか」
「……」
由木は何も言わず暗闇で顔も見えない。しかしほのかに温かい肌や吐息はどこか満足そうだった。
キョー助はもうだいぶ闇の中を落ちた。感覚は由木が触れている所以外もうまったくない。もうじきキョー助は消える。そのことに後悔はなかった。キョー助が消えることを願った春日は世界の改変をやめ、一人きりで生きていかなくても良くなる。それで十分だった。
どのみちキョー助はとっくの昔に死んでいる。もともとわけも分からず殺され、生かされていたのが、自分で死に方を、生き方を選べたのだ。文句があるわけがなかった。
しかし……。キョー助は由木の肩に手をおいた。初めて触れたときには冬の日の濡れたコンクリートのように冷たく感じたのに、この闇の中では少し温かい。死の闇の中で怖くないのはこの温かさのおかげだ。いまこの温かさを手放すなんて考えられない。
でもやはり、キョー助はこれは違うと思うのだ。
由木は目をつむり、肩に置かれたキョー助の手に頬を寄せた。もうじき二人は消えてしまう。しかしこの手は離さない。由木はこのぬくもりはずっと自分だけのものだという満足感に浮かれていた。
そのキョー助の手が強ばった。ただならぬ緊張感が伝わってくる。
「そう甘くはないということか」
「どうしたの?」
「来た」
由木の顔色が変わる。
来た?何が?春日が!?まさかこんなところにまで!?
怒りと独占欲で由木の眦が釣り上がる。渡さない。キョー助は私と一緒に死ぬのだから。
由木はキョー助のシャツを離し、背後を振り返り、ナイフを構えた。
だがそこに春日はいなかった。誰もいないし、何も見えない。ただ暗闇が広がっているだけだった。由木は何が起きたのかと目眩するように混乱した。
「じゃあな」
後ろでキョー助の明るい声がした。そしてゾッとした冷たさが由木の肩を撫でた。肩にあった温もりがなくなった。もう離さないと誓ったキョー助の手がなくなった。
由木は慌てて振り返った。だがそこにはただ目が痛くなるほどの闇があるだけで、ついさっきまで一緒にいたキョー助の姿も気配も消えていた。
由木は我を忘れ、遮二無二片方だけ残された腕を伸ばすが、キョー助の温もりが触れることはなかった。
キョー助を飲み込んだ暗闇が遠ざかり、だんだんと由木の周りが明るくなり始めた。金色の光が由木をもと来た場所へと押し返していく。
由木はまたあの暗闇に帰えろうと、もがき手を振り回す。だが闇は彼方へ去っていき、小さくなり、静かに光の中に消えてしまった。キョー助を由木も春日も届かない場所へと連れて行ってしまった。
由木が呆然としているとどこからか地響きが聞こえてきた。多くの建造物が崩れる音や数多の悲鳴が聞こえてくる。
由木はかつてこれと同じ音を聞いたことがある。異世界が崩壊していく音だ。春日の作った世界は、主人公の役割を果たす人間が死ぬか、もしくはキョー助が完全に死ぬと崩壊する。この音はキョー助がもう戻ってこないことを意味していた。
「いやよ……」
それでも由木は手を伸ばし続けた。キョー助のいない世界でどうすればいいのかなんてわからない。キョー助がいなければ自分の存在なんてありえない。だから由木は必死に手を伸ばす。決して諦めたくなかった。
「いやーーー!!!!!」
金色の光の中で崩れていく異世界で、少女の絶叫がこだまし続けた。
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