第42話 溢れる死、零れる想い(8)
春日がまだ顔を膝に埋めているその隙に、キョー助は赤城から受け取った鈍い銀色の小箱を取り出し、そっと中に入っていた丸薬を3つ口に含んだ。
「おい、春日」
キョー助が春日の肩に優しく手を置く。ゆっくり顔を上げた春日は泣いていた。子供のようなボロボロの泣き顔だった。キョー助と目が合うと「エヘヘ……」と笑って、ゴシゴシと袖で涙を拭く。
「なぜ泣く?」
「嬉しいからよ。ごめんね、いままで美味しいもの作ってあげられなくて」
春日はすぐ触れられるほど近くにいるキョー助に、照れくさそうに笑った。可愛らしい純粋な好意の笑顔だった。
もっとはやく春日を可愛いと思えていれば、二人の関係も違っていただろう。これからだって新しい関係を作っていけるかもしれない。しかし、もうキョー助の胸には冷たい影がさしている。
「ありがとうな」
キョー助は春日の両の肩に手を置き、抱き寄せた。そしてゆっくりと唇を重ねた。
春日は何をされているのかわからず、いきなり風呂に入れられた子猫のように手を妙な方向に突っ張った格好で固まっていたが、ゆっくりと目を閉じ、また涙を溢れさせた。
「!」
だが春日はキョー助を突き飛ばした。キョー助が春日の口に何かをねじ込み、無理やり飲ませてしまったのだ。
「なに!?」
春日は立ち上がり、キョー助を睨む。キョー助はその場にあぐらを組んで、春日を見上げる。
「終わりだ」
「毒!?私を殺すの?!」
「いや、もうとっくに死んでいる」
キョー助が情けなく笑うと、春日は鬼の形相になり、そばにあったでかい出刃包丁を取る。だが、春日の動きが止まった。包丁を地面に落とし、両手で頭を抱え、地面に膝をついた。
「あ……あ……ああああっ!!!」
春日は獣の声で叫び、脂汗で髪を濡らして苦しみ始めた。キョー助は立ち上がり、激しく頭を振る春日を静かに見ている。
「来ないで……、嫌、いや!」
春日は両手を激しく振り回してキョー助を追い払おうとする。しかし大きく見開かれ血走った目は、そこに立っているキョー助を見ていない。
「穴から……、キョー助が、キョー助が!!」
高熱にうなされたように半狂乱の春日に向かって、キョー助は子守唄を聞かせるように言う。
「俺が飲ませたのは、赤城さんにもらった忘れた記憶を蘇らせる薬だ。世界を改変しててまで俺の死を忘れようとしたお前は、いま何を見ている?」
春日にキョー助の言葉は聞こえていない。いま春日の目に映るのは、そこだけ切り取られたような不自然に黒い穴と、そこから這い出してくるキョー助たちだった。ぞろぞろと這うキョー助たちの歳と格好はバラバラで、誰一人まともに生きている姿の者はいない。
あるキョー助は8歳ぐらいで、喉から数本の菜箸が突き出ていた。
10歳ぐらいキョー助は、顔が黒い紫に変色し首には小さな手で締められた跡がある。
高校の夏服を着たキョー助は、腕と足と上半身が針金のように折れ曲り、腹から出た臓物を引きずっている。
それら73人のキョー助の骸たちが、のそりと這うように、ずるずると引きずるように春日に迫りよる。
春日も逃れようとするが、脳内に蘇った躯たちに春日の心は為す術なく蹂躙されていく。
いつの間にか幼いキョー助が春日の足元に立っていた。そのキョー助は6歳ほどで喉が異様に膨らみ、顔も手も足も肌が青紫に変色していた。
春日は喉に筋を浮かせて声にならない悲鳴をあげた。落ちていた包丁を拾い遮二無二振り回し、異形となったキョー助を追い払おうとするが、足をもつれさせ倒れてしまう。
幼いキョー助が喉を頭よりも大きく膨らませ、口をぼんやりと大きく開け、ひたりひたり春日ににじり寄る。春日は恐怖のあまり体の動かし方を忘れ、倒れたままただその場で手足をばたつかせる。
青紫の小さな手が春日の脛に触れた。冷たくブニブニとした感触が脛から、腿、腰、腹と順々に近づき、ついには頬に触れた。
春日は手足をばたつかせることも忘れ、目を閉じることも忘れ、近寄る異形のキョー助をただ見ていた。
異形のキョー助は、両方の小さな手で春日の顔に触れると、ぼんやりと開いていた口でニカっと大きく笑った。口の中、喉の奥からぬいぐるみの白い足が覗いているのが見えた。
春日は一瞬気を失いかけた。強張りきっていた全身から力が消え、それが春日に声を取り戻させた。
「もういや!!消えて!!いなくなって!!」
春日は叫んだ。異形のキョー助たちに向かって、世界中のキョー助に向かって叫んだ。その叫びはいま目の前にいる、生きているキョー助にも届いた。
「おうさ」
キョー助は応えた。
すると突然、異世界に巨大な扉の開く重い音が響き渡り、二人の間に天地を貫く黒い裂け目が一直線に開いた。
春日に乗っていた6歳ほどの異形のキョー助が裂け目に吸い込まれ消えていった。ほかの72人のキョー助の骸たちも次々と黒い裂け目の中に消えていった。春日は消えていく異形のキョー助たちを見送りながら、次第に息を落ち着かせていく。悪夢が覚めていく。
だが春日の息が止まった。目の前の、いま生きているキョー助の体も、黒い裂け目の中に落ちていこうとしていたのだ。
「なに……してるの?」
悪夢が消える。春日にとってキョー助は悪夢だ。それが消えようとしている。
世界には春日とキョー助しかいないのに、ただ一つの夢なのに、キョー助は笑って消えようとしている。春日は一人になってしまう。もう悪夢すら見れなくなってしまう。
「いかないでっ」
春日はよろめきながら黒い裂け目に駆け寄り、手を伸ばした。歯を食いしばり、目を怒らせ、足の、腕の、指の、顔の、全身のあらゆる筋肉の限界を使ってキョー助の腕を掴もうとした。
手は届いた。春日はキョー助を捕まえた。手のひらに伝わるキョー助の腕の温かさに、涙が溢れそうになった。
だがゾッとした冷たさが春日の指先に触れた。それはキョー助に殺された時に飲み込まれた暗闇と同じ冷たさだった。
春日は一瞬で絶望的な恐怖に囚われ、反射的にキョー助を掴んでいた手を離してしまった。体は凍えたように動かず、もう手を伸ばすことができなかった。
笑っていたキョー助の口がなにか言った。しかし声は届かなかった。
春日はガタガタと震え、噛んだ唇から流れ出した血で顔を染め、泣き叫ぶこともできずに、ただキョー助が暗闇の底に消えていくのを見ているしかできなかった。
キョー助の頭、胴体、両手が飲み込まれ、最後、キョー助の全身が暗闇に消えようとしているときまで春日は動けなかった。
そのとき恐怖に囚われた春日の横を誰かが駆け抜けた。
制服の下にスパッツを履き左腕をうしなった女子高校生、由木三星だ。
由木は躊躇いなく黒い裂け目に飛び込み、キョー助とともに闇の中に消えていった。
春日はへたり込んだまま、呆然と裂け目の奥の暗闇を見ていた。震えは止まっていた。キョー助と由木を飲み込んだ黒い裂け目がゆっくり閉じ始める。
春日はまっすぐ駆けていった由木の後ろ姿を何度も思い返していた。
由木は暗闇を恐れずにキョー助を追った。
自分は何もできなかった。キョー助を手放してしまった。
自分はたった一人世界に取り残されたのに、あの女はキョー助と闇の中で一緒にいる。胸がマグマが渦を巻くように熱く焦がれる。口の中が乾いていく。また体が震えだした。それは凍えるような恐怖からではなく、焼かれるような悔しさからだった。
裂け目はもう閉じようとしている。
春日は立ち上がり二人を追って走り出す。しかし裂け目に近づくと、また暗闇の恐怖がこみ上げてきて、足が震えて動かなくなってしまう。春日は自分の足を何度も叩いて、引きずってキョー助を追おうとするが、震えは全身に広がり、春日はまたへたり込んでしまった。
「くそ」
春日は膝に拳を叩きつけた。
「くそっ……」
春日は地面に爪を立て、額を叩きつけて、嗚咽を噛み殺した。
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