仮面
しばらくして妹子が入ったのは小さな空き部屋だった。漏れる淡い光へ近づくと、中から二つの声が聞こえた。耳をすませた大和は、その声の主に気づいて眉を寄せる。それは妹子と福利の声であった。まあ、大使の妹子と通訳の福利が一緒にいること自体はおかしくない。しかし、こんな時間に二人だけで会話をしているのは妙に思えた。もっともっとと耳を近づけると、こんな会話が聞こえてくる。
「あの国書、やっぱり通すべきじゃなかったのでは? 妹子さんも確認なさったのでしょう?」
「ええ。ちゃんと読みましたよ。これは一歩間違えれば命はないなと思いましたけど」
「じゃあ何故承諾したんです? 厩戸皇子さまならこちらの意見にも耳を傾けてくださいましょう」
「ええ。皇子さまはこちらの意見をちゃんと反映してくださいました」
「それは······どういう」
「あのような国書を提案したのは私ですよ。まあ、皇子さまは思った以上に大胆なことしてくれましたが」
大和はそこで眉を寄せた。妹子が国書の内容を提案しただと? 彼は国書の内容を全く知らないのではなかったのか。かつて船の上で国書について聞かれた時、彼はその中身は読んでいないと言っていた。ならば今の話は矛盾するではないか。
「福利さん」
扉の向こうで妹子が言う。
「あなたは前回の遣隋使が失敗したのは何故だと思いますか?」
突拍子もない問いかけに、福利は困ったような声を上げた。彼は前回の遣隋使にも従っていたはずだ。妹子はだからこそそのような質問をしたのだろう。しかし大和からすれば、何故彼がそんな問いを投げかけたのか検討もつかない。それは福利も同じようだった。
「それは······」
福利はそこで口を閉ざす。それを見て妹子が「ふふっ」と笑ったのが分かった。
「全ては国書から始まるのですよ。あれは国の器を知る有形の資産です。その一文字一文字に国の知性と品が現れる。しかしそれは国書を書いた側だけではありません。程度を問われるのは国書を受け取る側とて同じこと」
一体何を言っているのか、大和にはてんで分からなかった。何も言わないところを見ると、やはり福利も理解できないのだろう。しかし妹子は構わず言葉を続けた。
「あの国書のおかげで分かったでしょう? この国の皇帝は腐りきっている」
大和はそれを聞いて目を見開く。今までの彼からは到底想像も出来ない台詞。しかし、その言葉は意図も簡単に彼の口からこぼれ落ちた。まるでせせらぐ小川のように、さらりと唇から流れ出る。
「見損ないましたね。この国はもっとマシだと思ってましたよ。聡明な皇太子なれど、天子の器では無い」
福利は何も答えない。大和も何も言えなかった。ただただ扉越しの妹子の言葉に驚きを隠せずにいる。彼は本当にあの妹子か。そんなことさえ考えた。あれほど謙虚で健気に見えた遣隋大使。そこから零れた言葉は、全く持って信じ難いものだった。彼がそんな台詞を吐くとは思えない。
──あれはとんでもない魔物だ。
ふと、
「ね、貴方もそう思うでしょう? 大和さん」
突然呼ばれた己の名にビクリと肩が震えた。福利が驚いたように扉へ目を向ける中、微笑んでいるのはただ一人······余裕の笑みを浮かべた妹子だけだった。
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