魔性


「はぁ、何か疲れたなぁ今日は」

 その日の夜、倭国の使節に与えられた屋敷で大和は独り言を吐いた。長い廊下は薄暗いものの、しっかりとした造りをしている。さすがは大国というべきか。大和が自室を目指していると、前から一人の男が歩いてくる。大和はその顔を見るとピタリと足を止めた。

「おかえり。もう大丈夫なん?」

「何がですか?」

「怪我や怪我。ちゃんと手当してもらった?」

「ああ······ええ、大丈夫ですよ。丁寧に手当して頂きました」

 それは怪我の手当を終えて帰ってきた妹子であった。彼は愛想の良い顔で微笑むと、「もうお休みに?」と首を傾げる。

「うん、もう寝ようかと」

「そうですか。今日は色々ありましたからね。ごゆっくりお休みください」

 そう言って会釈をすると妹子は大和の脇を通り抜けた。もうすっかり日は落ちたが、相変わらず忙しいらしい。首の傷も塞がっていないだろうに、そんなに働いて大丈夫なのだろうか。妹子を心配しつつ、大和はそのまま歩みを進めようとした。しかし、突如カランという音が聞こえて振り返る。

「あ、何か落としたで妹子」

 それは一枚の木簡だった。どうやら妹子の袖から滑り落ちたらしい。全く、やはり彼も疲れているのではないか。しかし、大和が木簡に手を伸ばした瞬間、その小さな手首を妹子の手が掴んだ。鷹のような素早い動きと力強さ。大和は思わずきょとんとした。白く細い妹子の指は、大和の動きを止めるやいなやスルリと解けて木簡を拾い上げる。それは鷹が突然白鳥へと変わったかのような滑らかさで、大和は狐に包まれたかのような顔をした。そのまま呆然としていると、妹子は「すみません」と笑みを浮かべる。

「書類を落とすなど大使失格ですね。以後気をつけます」

 大和は恐る恐る顔を上げる。そこには優しげな笑みを浮かべる妹子がいた。しかしその顔に何か違和感を感じる。どこか今までとは違う。何かが違う。

「妹子······」

「何です?」

 思わず漏れた呼びかけに、彼は変わらぬ笑顔で首を傾げた。廊下に灯された灯火が彼の顔を朧気に照らす。その切れ長の瞳も形の良い眉もいつもと変わらずそこにある。しかし、暗い廊下に浮かび上がる彼の顔がやけに人間離れして見えた。整った顔立ちは無機質で、その妖艶さは人というより妖のよう。大和はそんな妹子に恐ろしい空気を感じた。今までとは違う不気味な笑み。それに気がついた途端、思わず背筋を凍らせる。

「な、何でもないで。おやすみ妹子」

 大和は引きつった笑みを浮かべて逃げるかのように踵を返した。背中に視線を感じたが、それもしばらくするとするりと消える。それに大和が振り向けば、遠ざかっていく妹子の背中が見えた。

 一体何なのだろう。大和は混乱していた。健気で優しいはずの彼があんなに恐ろしく見えるなんて。それがあまりにも不気味に思えて大和はその場に立ちつくす。

 しかし、だからこそ大和は気になった。彼はこんな時間にどこへ行くのか。そしてあの木簡はなんなのか。思わず引き返してしまったが、今になって彼の背中を追いたくなった。

「······」

 大和はそっと拳を握ると、音を立てずに身体の向きを変えた。そして妹子の背中が消えゆく方へとそろりそろりと歩き始める。

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