憤怒


 鋭い光に皆が瞠目し、一様に身体を固める。しかし、楊広だけはずんずんと音が鳴るかのような足取りで広間を横切り始めた。

 皇帝が自ら玉座を降りるなど並大抵のことではない。側近達も言葉を失ったのか、目を見開いて楊広を見つめている。重たい布を引きずるかのように歩む楊広の先には、もちろん遣隋使の一行がいる。後方にいる書記官などはもはや泣きそうになっていた。いつも聡明な福利でさえ声を奪われている。しかし、楊広が目をつけたのは彼らではない。一行の最前列にいた、そして国書を託された本人である大使・小野妹子である。

 妹子の目の前まで来ると、楊広はその小さな身体を見下ろす。そしてあろうことか、手に持っていた宝剣を鞘から抜き、鋭く光る刃先を妹子の顔に突きつけた。

「誰が天子と?」

 低く唸るような声が響いた。大和の位置から妹子の顔は見えないが、その身体は一寸たりとも動かない。チラリと傾けられた刃先は、妹子の細い首元で恐ろしい程に光を放った。まるで血の色を知らない輝き。宝剣たるもの、一度も人を斬ったことがないのだろう。その無垢な刃先に、妹子が身に纏う緋色が映っていた。

「様子見と思っていたが、ここまで言うとは······」

 楊広は怒りに染めた顔で妹子を睨んだ。その表情の恐ろしさたるや、まるで龍のようであった。さらに傾けられた刃先が妹子の首筋に触れる。彼の身体がぴくりと動いて一筋の赤い線が垂れた。

「国書の書き方も分からぬお前らに一ついいことを教えてやる」

 楊広は鋭く顔をゆがめた。

「この世に天子はただ一人。この私だけだ」

 その瞬間、宝剣が天高く振り上げられた。隋の役人達が慌てて制止の声を上げたが、楊広の耳には入らない。突然訪れた焦りと喧騒が辺りの空気を狂わせた。一秒一秒が長く感じる。世界がゆっくりと動いて見える。

 しかし宝剣は動きを止めず、突如雷の如く空を引き裂く。今まで頭を下げていた妹子もこの時には顔を上げていた。振り下ろされる剣を見つめ、その目を大きく見開いている。

 ──動かなければ。

 大和は咄嗟にそう思った。この場で彼を見殺しにするのか。それはあまりにも情けない。

 自分は人間とは違うのだ。この身は大抵のことでは滅びない。それに気づいたのはいつだっただろうか。たとえ飢えようとも斬られようとも、決して冷たくなることは無かった。そんな己の身があるというのに、目の前の花を枯らすのか。

 そう思った瞬間、大和は妹子の前に飛び出していた。稚児のような小さな身体で精一杯に腕を広げる。楊広の顔が驚きに変わった。刃先が迷い、一瞬だけ動きをゆるめる。その一瞬を見逃さんとばかりに、事態に追いついた武官が己の剣で宝剣を受ける。それは大和と妹子の頭上でピタリと動きを止めると、キリキリと刃が重なり合う音だけを響かせた。

 汗ばむような静寂が辺りに満ちる。息を荒らげた武官が剣を下ろせば、上に乗った宝剣もゆっくりと項垂れる。

 大和は真っ直ぐに楊広を見つめていた。楊広もまた、大和を見つめていた。その目は焦点が定まっておらず、全ての力を使い果たしたかのような色が見える。あれだけ激高したからこその虚無なのだろう。

 すると、先程楊広の脇にいた側近の一人がいそいそと主人に近寄り、何やら彼に耳打ちをする。落ち着いたらしい楊広は、冷めた目で遣隋使たちを見下ろすと宝剣を投げ捨てた。

「まあいい、今回は見逃そう。しかし二度とこのような書を見せるでない」

 念を押すかのように吐き捨てると楊広は広間を去った。そこには静寂だけが残される。未だ治まらぬ胸の鼓動がやけに大きく耳に響いた。

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