第3話-5 追憶の夢を見た日のこと

 夢の中で私を呼ぶ三鍋の声と、現実での三鍋の声が重なる。

 まだ寝呆けていた私は、「次は絶対に落ち鮎だからね」と恨みがましい口調で現実の三鍋に言ってしまった。その後、現実であることに気が付いて少し頬が熱くなった。


「懐かしい夢でも見ていたか?」

「うん、寝呆けてた。ごめん」

「構わん構わん」

「大学時代の夢でさ。私が三鍋と一緒に無茶ばっかりしてた。変なの」

「……そうか」


 私は、三鍋のストッパー役だった。無理、無茶、無謀の体現者として飛び回る三鍋に対して、お金の大切さを説きに説いたのが私だ。逆に夢の中でくらい、周りを困らせてみるのもいい。


 私は一つ伸びをして車を発進させた。高速を降り、三鍋のリュックから当然のように出てきた握り飯を食べ、夜食のスープの残りを飲み、早朝からやっている銭湯で身支度をしようと道を急いだ。銭湯の検索、およびナビは当然のように三鍋の担当である。それなりにサービスの良さそうな所を選んだので、着替えから化粧まで身支度はしっかりとできそうだ。三鍋の案内でたどり着いたところは、期待を裏切らない設備を備えていた。


 やはり広い風呂は素晴らしい。家の浴槽を広くしたいとは特に思わないが、たまに足を伸ばしてのびのびと入るのは気持ちがいいものだ。三鍋には一時間後にロビーと伝えておいたが、もう少し長く見積もってもよかったかも知れない。いや、ダメだ。そこまでのんびりしていては印刷所に向かう時間に遅れてしまう。

 相手先の始業と同時に紙束を届けると決めているのだから。もちろん、相手先にもそう伝えてある。無理を通すのだから、こちらとしてもできる限りの誠意は見せなければ。


 それにしても今日は体調がいい。軽トラでの仮眠なんて久しぶりだったから体の節々が痛くなるかと思っていたが、むしろ軽い。

 顔を鼻の下まで湯船につけて、私はぽこぽこと今日の予定を呟いた。積み荷を印刷所に渡し、そのまま再び高速を使って、給油の後にレンタカーを返して会社まで戻る。朝の業務申し送りは竹内ちゃんにお願いしておいたから、帰ったら気になる所がなかったかどうか聞かせてもらおう。予定通りに事が進めば昼には戻れるはずだ。待てよ、印刷所に行く前に三鍋をどこかに落としておかなければ。うん、そこらの喫茶店で待っていてもらえばいいだろう。


 長風呂は気持ちが良いものだが、そう時間をかけてもいられない。身支度までするとなればなおさらだ。私は一度きつく目を閉じ、名残惜しさを振り払うように更衣室へと戻った。


「わお。……わーお」


 髪を乾かすために座った化粧台の鏡に映る自分の肌に驚く。

 そこには往年の頃の肌艶と張りが戻ってきていた。三鍋の言う通り、確かにこれには驚いた。そして驚くと同時に、これまで私が気を注いで行ってきたスキンケアを軽く否定されたような気にもなってくる。それなりにイイ化粧水使ってるんだけどな。

 これだけ急に効果が出るなんて、逆に大丈夫なのかと不安にもなるが、目の前のお肌をもう一度眺めて細かい事は不問にすると決めた。私は、見たものは信じることに決めているのだ。


 社長、および茶屋町さんにメールで現地についた事を連絡してからロビーに戻ると、三鍋がこちらを見つけて手を挙げた。軽トラに乗っていた時の服装と変わっていない。着替えを持ってきていなかったのかこいつ。聞けば、下着は替えたと自慢げな顔をされた。いや自慢するところじゃねぇ。


「お待たせ」

「うむ。どうだ、化粧の乗りの良さに驚いただろう」

「悔しいけど驚いたわ。漢方ってすごいのね」


 三鍋が得意満面といった風に「これが鍋師の実力だ」と言っていたが、例によってすごいのは漢方薬の効能であり、何ら鍋師とは関係が無いと私は思う。やれやれと首を振り、三鍋にどこかの喫茶店にでも待機しておいてくれと伝えようとした時に妙な音が聞こえてきた。


「……何の音? これ」


 何かを煮込んでいるようなぐつぐつとした音が三鍋から聞こえてくる。


「む、電話だ。すまない」

「着信音かい」


 鍋師だから着信音も鍋の音だとでも言うのか。そのセンスはどうなんだ三鍋。正直ちょっと引いたぞ。非難の目を向けておいたが、そんな事は気にも留めないといった感じで三鍋は電話に出た。

 唐突に三鍋の表情が硬くなった。二言三言やりとりをした後に「つかまつりました」と言って通話を終えた。


「カタコよ。済まないがここからは別行動だ」

「別にいいけど。こっちもそのつもりだったし。どうしたの?」

「師からの令が出た。ここいらの名産である和菓子をしこたま買ってこいとの事だ」


 相変わらず別次元に生きてるなあ。気にしたらもう何か色々と負けた気分になるから、そっとしておいてあげよう。どうして三鍋の携帯の番号を知っているのかとか、なぜ和菓子なのかとか。私はこれらの疑問を意識の隅に追いやる方法を知っている。鍋師だからしょうがない。うん、それでいいだろう。


「じゃあ、帰りは自力で帰ってくるの?」

「うむ。カタコよ。仕事、頑張るのだぞ」

「はいはい、あんたも頑張ってね」


 くるりと私に背を向けて歩き出す三鍋。私は、今朝の懐かしい夢のせいで少しおかしくなっていたのかも知れない。不意に三鍋の背中が遠く感じ、無意識のうちに三鍋の服の裾をつまんでいた。

 驚いたような顔をして三鍋が振り返るが、驚いたのはこちらも同様である。なんだ、私は今何をしたんだ。別に三鍋を引き留めようと思った訳ではないのに。そそくさと手を引っ込めたが、私はなんだか三鍋の顔をまともに見れなかった。

 昔のように、そのまま帰ってこないのではないかなどと女々しい考えがふと頭をよぎってしまった。別にそれはそれでいいのに。私と三鍋は、単なる家主と居候の関係だ。過去はどうあれ、今は三鍋の事などなんとも思っていない。そうとも、思っていないのだ。


「……晩御飯、きんぴらがいい」

「うむ。任せておけ」


 そっぽを向いたまま言い捨てるように呟いた台詞に、三鍋は事もなげに返事をして「では行ってくる」と歩いていった。

 ああもう、調子が狂う。仕事仕事! 私は仕事をするためにきたんだから。三鍋などに使ってやるパーソナルスペースは微塵もないのだ。両の掌で頬をぺちりとはたき、私は今日の仕事の事だけを考えるようにした。




   ○   ○   ○




 印刷所には、きっちり始業開始とほぼ同時に到着することができた。

 こちらが急に無理を言ってお願いしたにも関わらず、担当の人も所長も「なに、余裕ですよ、余裕」と気さくに笑ってくれた。印刷したものはうちの会社へと送ってもらえるように手配し、もう一度お礼を述べて私は帰路についた。


 帰りも振動の激しい軽トラである。荷物が色々となくなった分だけ、車体は軽い。

 私は帰りのサービスエリアで蕎麦をすすった。そういえば、三鍋のご飯ではない食事をするのは久しぶりだ。三鍋がうちに転がり込んできてから初めてではないだろうか。


 予定通りレンタカーを返し、社に戻ったのは三時頃だった。竹内ちゃんに変わったことはなかったかと聞けば、元気よく「異常ありません、香奈子センパイ!」と返してくれた。


「どうしたの? ずいぶん嬉しそうじゃない」

「えへへ、秘密です!」


 秘密、だと……? 竹内ちゃんの小悪魔的なスマイルは長距離移動で擦り減っていた私のメンタルを瞬時に癒してくれた。しかし何があったのだろう。気になる。気になるが、竹内ちゃんにとってのイイ先輩を目指す私には無粋に聞き出すような真似はできない。代わりに、ぽむんと頭を撫でておいた。


「朝の申し送り、代わりにやってくれてありがとう。少しでも気になる所があれば、何でも聞いてね」

「はい、頼りにしてますっ」


 うん、まぶしい。笑顔がまぶしい。社長の頭は光を反射して物理的に眩しいが、その姪っ子である竹内ちゃんは後光が射すレベルで輝かしい。私たちはぐっと親指を立てて笑みを交わした。

 それにしても、竹内ちゃんの上機嫌の理由はなんだろう。昨日は茶屋町さんと一緒に企画会社に謝りに行ったから、その時に何かあったのだろうか。それとも、私が帰ってきて嬉しいとか……。いや、そんな希望的観測はしないでおこう。期待しすぎると後で落ち込んだりするものだ。

 何にせよ、私は竹内ちゃんの笑顔で癒されるのだからそれでいい。充分である。


「あれ? 香奈子センパイ……」

「ん、どうしたのかしら」


 竹内ちゃんがまじまじと私の顔を見てくる。少しばかり恥ずかしい。


「今日は綺麗だなと思いまして。あ、いえっ、違って、いつもキレイですけどッ」


 ぱたぱたと手を振る竹内ちゃんもかわゆい。うんうん、大丈夫、同じセリフを男性社員諸君が吐いたら嫌味の一つや二つ返すけどね。


「化粧品、変えたんですか?」

「……んー、ひ・み・つ」


 先ほどの意趣返しに、漢方の力でお肌が若返ったことは内緒にしておこう。その話をするならば三鍋の話も同時にしなければならないからだ。口を尖らせて拗ねたふりをしている竹内ちゃんを見て、私は「仕事ができるようになれば分かるわ」と適当な嘘を吐いた。

 なぜか目を輝かせて「そうですねっ!」と嬉しそうに笑う竹内ちゃんの姿が不思議だった。




   ○   ○   ○




 終業の時間が近づいてくると、その日の業務内容や企画の進展具合をまとめた日報が私の元に集まり始める。外出先からメールで届くこともあれば、直接私の所に来る人もいる。

 おかげで、私は全員の現状を把握することができているのだ。竹内ちゃんが既に帰った後だからか、後藤さんがつまらなさそうに日報を持ってきた。


「営業成果ゼロ。新規アポが2件。次の営業の日までやること無くなっちまった」


 ああ、なるほど。仕事が無くなってしまったのが退屈なのか。その気持ちは良く分かる。


「あら、珍しい。今はどのチームも順調ですよ。新しいお仕事、頑張って取ってきてくださいね」

「言うほど順調か? 茶屋町さんのトコで大和田が燃えたろ」

「あれはなんとか消火に成功しました。茶屋町さんの交渉術はさすがです」


 仕事は、ミスをしないに越した事はない。しかし、どれほど準備をしても、どれだけ場数を踏んでも、決してなくならないのがミスだ。そして万が一ミスをしてしまったなら、迅速にリカバリしなければならない。茶屋町さんはその術に非常に長けているのだ。


「あれ、でも確か白井様が遠くの印刷所までブツを運んだんだろ?」

「怪しい運び屋みたいに言わないでください」

「悪い悪い。しかしほんとよくやるよ。どこかに任せてもよかったと思うぞ」

「確実性がありませんから。それに、無理を言うのですから筋は通さないと」


 後藤さんが笑いながら「そりゃまあ、もっともだわな」と頭を掻いた。

 その時、社の電話が鳴った。ディスプレイには “ツツイ”と表示されている。すぐさま受話器をとろうとした後藤さんを手で制して、私が応対することにした。おそらく、今日の営業報告だろうから。ええっと、ウェルネスリビングって会社だったかな。河内さんと一緒に向かった会社のはずだ。


 筒井さんからの連絡はシンプルだった。営業相手先との商談がまとまる目処がついたらしい。請ける仕事の内容は相手会社の倉庫にある書類をデータベース化するもので、資料の持ち出しができないので数日間の出向の許可を社長に取ってくれということだった。

 私は「分かりました」と短く答え、納期と必要日数の概算を聞いた。


『納期はゴールデンウィーク明けで、おそらく五日は掛かる仕事かな』

「……筒井さん。あなたは本当に空気が読めない人ですね」

『え、まずかった?』

「最長でも3日で終わらせて下さい。そうでないと竹内ちゃんの歓迎会に間に合いません」


 そうとも。4月の末、つまり今週末には待ちに待った竹内ちゃんの歓迎会があるのだ。もう予約も済ませてあるし、私個人としてとても楽しみにしているイベントなのである。欠員が出れば、竹内ちゃんが気にしてしまうではないか。


『そんな無茶な! 出向する形やから残業はできんて!』

「ご心配なく。援軍を送ります」


 筒井さんは焦ると素が出る。関西の人なのでたまに言っていることが分からなくなる時があるが、今はそれよりも竹内ちゃんの歓迎会を無事に開催することが最優先事項だ。

 社長には私から話しておくと伝えて電話を切った。


「と、いう訳ですので。お願いしますね後藤さん」

「話の流れからして、そうかなあと思ったけどよ。ま、いいか。白井様に頼まれちゃ断れねえや。さすが我が社の“縁の下の力任せ”だな」

「その呼び名は封印してください」

「カッコいいと思うがなあ」


 後藤さんは声を出して笑いながら(一緒に腹の肉も揺れていた)、筒井さんの出向先を確認して帰って行った。誰だ。変な呼び名を社に広めたのは。琴科さんだ。そうだ、ヤツだ。あの人はすぐに人の事を変な名前で呼びたがる。まったくもって理不尽だ。

 竹内ちゃんには秘密にしておきたい所である。縁の下の力持ち、の言葉は嫌いではないが、どことなくがっしりとした体格の筋骨隆々な人が舞台を支えているイメージが湧いてくる。その上、力任せなどと言われた日には支えている舞台を投げ飛ばさんが如しだ。非常に心外である。


 琴科さんに一言文句でもつけようかと思ったが、彼はメールで営業報告を送って寄越し、自身はそのまま出先から直帰するとのことだった。

 いつかの機会に必ず復讐することを心に誓って、私は帰る準備を始めた。しかしどうにも体が重たい。仮眠を取ったとは言えどもやはり三十路手前の体には長距離運転は堪えたのかも知れない。さっきまでは何ともなかったのにな。終業が近づいて気が緩んだのか。私も仕事人間としてまだまだらしい。家に帰りつくまでが仕事だというのに。


 歩みを進めるごとに私の体は重たくなっていった。これはおかしい。たかだか長距離運転と睡眠不足が重なった程度で、ここまでになるはずがない。ああ、頭が朦朧もうろうとしてきた。

 職場最寄りの駅に着いて、おぼつかない手つきで定期を取り出したものの、私はふらついて傍にいた人にぶつかってしまった。


「あ……すみません」

「気にするでない。迎えに来たぞ、カタコよ」


 私がぶつかったのは三鍋だったらしい。なんだ、それなら謝らなかったのに。あれ、どうして三鍋がいるの? 家できんぴらを作って待っているはずなのに。どうして、とそう声に出そうとするのと、三鍋が私の肩を支えるように手をかけたのは同時だった。


「ど、どうして……」


 私は今度こそはっきりとそう口にした。


「そろそろ効果が切れる頃かと思ってな。飲み慣れていたので忘れていた。あの漢方薬は慣れるまでは反動がキツイのだ」


 漢方薬……。あ、昨日の夜中のスープか。ううむ、お肌のハリは戻ったけれど、この倦怠感はなかなか辛い。


「大事なところを忘れるんだから……。どこか抜けてるのはあんたらしいわね」

「人間、完璧にはなれないものだ。なに、体に害はないので心配するな」


 そうして半ば三鍋にもたれかかるようにして私は電車に乗り、勧められるがままに座席に座った。正直、あまり文句をいう気力も残っていない。三鍋がいるならば乗り過ごしてしまうこともないだろう。コイツの事だ。私が意識を手放せばおぶってでも家につれて帰ってくれるだろう。だが、それだけは避ける。なぜかといえば。気恥ずかしいからだ。

 迎えに来てくれたことは、正直言ってありがたい。一人で帰ることが出来るかどうか不安だったのも認めよう。しかし私は三鍋に甘えてはいけないのだ。それは、その行動は、雇い主と家事手伝いの領域を越える。三鍋との関係は、過去のことなのだ。その一念が私の意識をどうにか繋ぎ留めていた。


「あの漢方薬、材料はなんなの?」


 眠りへと向かおうとする体に抗おうと私は口を開いた。


「いくつか混ぜてあるが、主な材料は蛤蚧ごうかいだ」

「ごうかい? 私は専門家じゃないの。素材名で言ってよ」

「トカゲだ。乾燥トカゲを粉末にしたものだ」

「んなっ!?」


 そこから家に帰るまでの事はあまり覚えていない。粉状のものとはいえ、私はトカゲを食した女になってしまった。その動揺は隠しきれなかったのだ。そういえば竹内ちゃんもトカゲを食べたと言っていたなあ。うん、私たちは同類ですよ。こんな妙な同類項は作りたくなかったけれども。週末の竹内ちゃんの歓迎会での話題が一つ増えた事を喜ぶべきか。そうしておこう。そうでもしておかなければ私の心の平穏が保たれない。


 世の中は理不尽が八割だ。自分の知らぬところでトカゲを食べていることも、そりゃあ、認めたくは無いがあるにはあるだろう。

 ただ、三鍋に対して「これからは出来るだけ使った食材を教えて欲しい」と要望を出したことだけは記憶の片隅に残っている。

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