閑話 歓迎会後、Barで。思い出を待つ。
――なんだろう。仕事って。
あたしはカウンターに置かれているレッドアイのグラスを傾けた。このお店に来るのは、特別な時と決めている。お酒が飲める年齢になってからまだ数年しか経ってないけど、二十歳の誕生日に伯父が連れてきてくれたこのバー。今日は、会社で歓迎会があった。あたしの歓迎会。とても、とても楽しかった。その余韻にまだ浸っていたかった。それに、今日はなんとなく 、あの人に会えそうな気がする。
あたしは、会社を経営している伯父に勧められて、四月から伯父の会社で働きだした。
一般的な事務の仕事だと聞いてたけど、事務の仕事のイロハも知らないあたしにとっては、何が一般的なのかすらも分からない。
あたしが入った会社は、広告代理店だった。指を折りながら会社にいる人の数を数えてみれば、あたしを入れてちょうど10人。
何もかも分からなかったあたしに丁寧に仕事を教えてくれるのは、香奈子先輩。いつも何かと世話をしてくれるのは大和田さん。
毎日、みんなの仕事の様子を見るのはとても勉強になる。あたしが思っていたよりもずっと仕事の内容は色々で、何の仕事をしているのかと聞かれたらきっとあたしは困ってしまうに違いない。
広告代理店と言うからには、そういった広告だけを扱う会社だと思っていたのは間違いで、できる仕事は何でもやるような会社だった。
色んな会社に行って、仕事をもらって帰ってくる。たまに、相手の会社に一時的に派遣みたいな形で入る事もあるみたい。
筒井さんと後藤さんがまさにそうで、歓迎会の日まで数日間、あたしは二人の姿を見ていなかった。その筒井さんが歓迎会の途中から関西弁だったことには驚いた。関西の出身だということも初めて聞いたし、関西弁を聞くのも初めてだったから。
大和田さんと趣味が同じだったのも分かった。大和田さんはゲームが好きで、休みの日にはめったに家から出ないらしい。あたしも新作とか出たらハマるタイプだから分かる。ちょうど、二人が共通してやっているゲームの新作が出るので、「一緒に一狩りいきましょう!」と約束をしてもらった。
茶屋町さんは珍しがっていたけど、大学時代はあんまり一緒にゲームをする友人はいなくて、だから、同じ趣味の人がいたのは嬉しかったなあ。
それに、だいたいの人はあたしの事をライトユーザーだと決めてかかるのに大和田さんは違った。少し話をしただけであたしがヘビーゲーマーだと看破されてしまった。
専門用語飛び交う話を聞いて、「大和田君、仕事の時より真剣な顔してるわよ」とジト目になっていた香奈子先輩が可愛かった。
香奈子先輩は、とってもカッコイイ。一番最初の自己紹介の時に、「ここの連中は私のことを女性として見ていない」なんて言うから、何かコンプレックスでもあるのかと思った。だって、顔立ちは整っているし、清潔感もあったから。確かにいつも後ろでまとめただけの髪型で地味に見えないこともないけど。なんていうか、仕事に生きる、みたいな感じがする。ミスをしても丁寧に教えてくれるし、次に間違えないようにどうすればいいのかアドバイスもくれる。あたしだけにではなく、他の誰に対しても良く気配りができて、周りをすごく見ていると思う。
だから分かった。会社の人達は、香奈子先輩の事を女性として見てるんじゃなくて、頼れる人として認めているんだと。たまにあたしの事をじっと見てる時があるけど、きっと仕事で至らない所があるんだと思う。まだ言うタイミングじゃないと思ってるんだろうな。
「どうすればいいのかなあ……」
グラスの中身は半分ほどになっている。恥ずかしながら、あたしは周りの人たちに何かと頼って生きてきたみたい。いや、違うかな。押し付けて、と言った方がいいかも。
困った風に装えば、自然と周りの男の人たちが「代わりにやるよ」と申し出てくれていた。当時はそれで何も問題なかったし、楽だなー、くらいにしか思っていなかったけど、香奈子先輩を見てしまった今は、それがとても恥ずかしい。かといって、どうすれば先輩みたいになれるのか見当もつかない。
だから。
あたしがミスをして茶屋町さんに怒られた時、とっても悔しかったし、フォローに走ってくれたのがとっても嬉しかった。
香奈子先輩に近づくために、あたしは仕事ができるようになるんだ。そして、茶屋町さんに無理を言って連れて行ってもらった企画会社では茶屋町さんのカッコイイ一面も見れた。
あたしの連絡ミスで仕事を失敗したあの日。
茶屋町さんはあたしの代わりに相手の企画会社に謝りに行った。茶屋町さんは相手に会うとまず体を直角に曲げて「申し訳ありません! 我社の手違いです!」と言った。あたしもそれに倣っておじぎをした。結局、ミスをした張本人があたしだと伝える機会はなかった。その後、現状を伝えて対策を伝えると、相手の人は「納期がずれないならまあ。余計なコストがかかる分はうちでもいくらかフォローするからさ。茶屋町さんがそこまで言ってくれるんだし」と言っていた。
会社に戻る社用車で、助手席に乗っていたあたしは軽く頭を小突かれた。「お前、ミスをしたのは自分だと言おうとしただろう」と言われてしまった。
茶屋町さんは帰りの社内で仕事についての話をしてくれた。誰かのミスは、会社のミスなのだと。責任を取れないヤツの謝罪に、何の価値もないと。こんな見習い程度のあたしに、とても真剣に。それが嬉しくて、あたしはつい涙をこぼしてしまった。
それを見て慌てたように茶屋町さんは「あ、いや、その、言いすぎ、たよな、うん、すまん」と慌てて場を取り繕ってから、「白井の話をしよう」と話を切り出した。
ご機嫌取りに他人の話もどうかと思うけど、香奈子先輩の話なら聞いてみたかった。そしてその話はとても面白かった。きっと茶屋町さんはタメになると思って話してくれたんだろう。
香奈子先輩が入社して間もない頃は、今のように日報をまとめるようなやり方ではなく、個人がそれぞれ自分のとってきた仕事を管理していたらしい。自分で請けた仕事は自分でこなすのが通例だったそうだ。
そのままの状態でも業務に支障はあまりなく、忙しい時には誰かにヘルプを頼むこともあったようで、手が足りなくなる時期にみんながまとめて仕事を取ってくると会社全体で夜を徹して作業することもあったと聞いた。ほぼ全員が会社に残っているのに、一人一人が別の仕事をこなして、手が空いた人から他の人を手伝っていくスタイルだったそうだ。
これを大幅に改革したのが香奈子先輩だったのだと茶屋町さんは言った。
ある秋の事だったと言う。冬の商戦に向けて、様々な会社から集まってきた仕事達。それぞれの持つキャパシティに対して、仕事の量はその三倍はあったそうだ。
じゃあ、いくつかの仕事は締め切りを過ぎたのだろうかと思って聞いてみると、茶屋町さんは笑って首を振った。それぞれが目の前に積まれた仕事の量にたじろぎ、それでも気力を振り絞って例年のように己の健康的生活と引き換えにして仕事を片付けようと誰もが腹を括った時。香奈子先輩は言ったのだ。「これくらいなら、週二回の残業で何とかなりますよ」と。
茶屋町さんも他の人も、そんな馬鹿なと言ったらしい。すると香奈子先輩は全ての仕事の概要をまとめ、スケジュールを立ててみせた。いつまでに何をするのかが個人ごとに明確に記されたスケジュールは見事なものだったが、仕事の下準備に要する時間が計算に入っていなかった。それを指摘されると香奈子先輩は静かに頷いて深くお辞儀をしたと言うのだ。
――私には、皆さんのように仕事を取ってくることができません。皆さんが会社を背負って他社に出向く間、私にできることはわずかな準備だけです。故に、私が全ての下準備を引き受けます。こうすることでしか、私は社の利益に貢献できません。縁の下はどうか、任せてください。
その台詞の通り、香奈子先輩は全ての仕事の下準備をこなして見せたと言うのだ。その、地味でありながらも膨大な仕事量と、それを鬼気迫る表情で片付けていく香奈子先輩を見て、琴科さんが感心したようにぽつりと「縁の下の力持ち……いや、敬意が足りない。彼女は縁の下の力任せだね」と呟いたと言うのだ。
以来、香奈子先輩が仕事をすべて把握できる状態を作れるように日報を取りまとめるようになったのだと言う。茶屋町さんは話し終えた後に、「あいつはすげえよ。だから、あれだ、お前も頑張れ」と言ってくれた。
「くふふ、“縁の下の力任せ” かあ」
香奈子先輩とも、色々話ができた。茶屋町さんから聞いた話をして、やっぱり先輩はすごいと伝えたが、どうやら先輩はその呼ばれ方を秘密にしておきたかったらしく「知ってしまったのね……」と落ち込んでいた。あたしは一瞬まずかったかと思ったが、先輩はすぐさま立ち上がり、「私は来月、茶屋町さんのフォローをしないことをここに宣言します」と右手を高々と挙げて宣誓していた。「おう、来月は暇だから構わんぞ」とビール片手に笑う茶屋町さんを見て、香奈子先輩は「ちくしょうっ」と叫んだ。普段のクールな香奈子先輩とのギャップがとても魅力的だった。
○ ○ ○
あたしはさっきまでの歓迎会を思い出して愉快になった。ちょうどカクテルが空になったので、気分に任せて何か頼もうかと考えていると、バーのドアがゆっくりと開く音が聴こえる。入ってきた人物があたしの三つ隣のカウンターに座ってマスターと話し始めたので、そちらを見た。
瞬間、心臓の鼓動が速くなるのを感じた。あの人だ。会えるといいなあとは思っていたけど、本当に会えるとは思ってもみなかった。
伯父が最初にこの店に連れてきてくれた時に出会った人。伯父の知り合いでもあるその人はとっても優しい人だ。
「伊賀さん、お久しぶりです」
「おや、お嬢。久しぶりではないか」
あたしが挨拶すると、男性が少し驚いたような顔をした。彼は見た目三十半ばくらいの人で、伯父と並ぶとまるで親子のようにも見える。詳しいことは知らないけど、とても落ち着いていて素敵な人。密かにあたしが憧れている人でもある。
「何飲むんですか?」
「ふむ、ブラック・ルシアンを」
「じゃあ、あたしもそれで」
マスターが気を利かせてくれたのか、飴色をした二つのグラスがカウンターに並べて置かれた。自然とあたしは席を立って、伊賀さんの隣に座りなおすことができる。
伊賀さんはとっても不思議な雰囲気の人。あたしが悩んでいると、いつもお見通しといった感じで面白いアドバイスをくれる。
「お嬢は今、大学生だったかな」
「今年から社会人になりました。といっても、伯父の所にお世話になっているんですけど」
「もうそんな年か。ついこの間、成人のお祝いに来ていた気がするのに」
「ふふっ、年寄りみたいなこと言わないでください」
伊賀さんは照れくさそうに頭を掻いた。
「お話、聞いてもらえますか」
あたしは、社会人として認められていると思いたかった。いつまでも子どもじゃない。だから、会社での出来事を伊賀さんに話して、ちゃんと働いている事を知ってもらいたかったのだ。
何の話をしようか迷った上で、自身が失敗した話をした。以前までなら、きっと自分に都合の悪いそんな話は伏せていただろう。
「どうしたら、先輩方みたいになれるでしょうか」
「そうだな。お嬢、良い話をしてあげよう」
あ、伊賀さんの良い話をしようが出た。いつも、変な雑学に合わせてあたしの悩みを解決するヒントをくれるのだ。
「醤油をね、目指すがいい」
「醤油……ですか?」
今回の話もいまいち掴みどころがなさそうだ。面白くなって、あたしは少し伊賀さんとの距離を詰めた。そんなあたしを一度だけ見て、彼は再び前を向いて話しはじめる。
「ああ、そうとも。良い醤油の条件はいくつかある。マスター、頼む」
カウンターの隅でグラスを磨いていたマスターが頷き、小皿に入った醤油を二皿持ってきてカウンターに置いた。これこれ。こういう所がこのお店の面白い所。ここはバーじゃなかったのかしらといつも思ってしまう。前に伊賀さんの 『良い話』が出た時には、どらやきと虎焼きと三笠焼なるもの(これは名前が違うだけでほとんど同じものだった)が出てきて、その歴史と、名前や外見が多少違っても、根底にあるものは同じだというような話をしてくれた。
「さて、お嬢。左の小皿を持ってみるのだ。ワイングラスのようにくゆらせてみるといい」
すう、と醤油が筋を描く。何かで良い醤油の条件は鮮やかな色だって聞いたことがあるけど、バーのように薄暗い場所だと二つの違いはよく分からない。
「そして次は右の小皿だ」
あ、なんだろう、何か違う。なんだろう。
こっちのほうがなんだかゆっくりなような、滑らかなような。そう、滑らか。そんな感じだ。
「良い醤油は、粘りがあるのだ。刺身などは、そのまま食べても味気ないだろう。良い醤油は、素材の味を何倍にも引き立てるものだ」
「醤油、かあ」
「様々な料理に使われ、香り、色、味、様々に楽しませてくれる。なくてはならないものだ。しかし、醤油だけでは料理は完成しない」
「仕事も、料理と同じってことですね」
「そうとも。相手との調和は仕事においてとても大事なのだから」
伊賀さんはやっぱりいろんなことを知っている。いいなあ。あたしも、こうなれるだろうか。
いや、少しずつでも近づいていきたい。
だから、あたしは香奈子センパイや伊賀さんの考え方をまず参考にしていくんだ。まずは、真似から始めようと思う。最初は借り物でも、いずれあたしの中にしっかりと馴染んでいってくれるはず。
そうして、あたしは良い醤油になるんだ。
愉快な気持ちになって、つい「くふふ」と笑みがこぼれる。伊賀さんもそれを見て笑っていた。
〇 〇 〇
とても楽しい時間だった。伊賀さんは仕事の関係でよく海外に行っているので、そこで見たり聞いたりした話もよく教えてくれる。次はどこに行くのか尋ねてみると、しばらくは日本にいると言う。
これは、チャンスかも。
あたしだって、もう社会人なんだ。これを機に連絡が取れるようになるかも知れない。今までは立場が違うんだと何となく思ってたけど、今なら聞ける気がする。頑張れ、あたし。
「あのっ、伊賀さん。連絡先、交換しませんか」
言えた! 意外とすんなり言えたことにあたしは驚いた。これも社会人としての経験の賜物かな。伊賀さんは少しだけ目を丸くしてブラックルシアンを手に持ったまま固まっていた。
「師匠、いや、うん、支障がなければ」
「あ、伊賀さん照れてます?」
「そりゃあ、お嬢は可愛いから。慌てない男の方が珍しかろう」
お茶目な一面もあるんだな。今まで、ずっと伊賀さんは捉えどころがないクールな人だと思っていた。伊賀さんの新しい一面を知れたようで、嬉しくなって残っているカクテルを一気に煽った。じんとする熱さの中に、まろやかに甘い香りがした。
「しかしなあ。伯父上がいい顔をしないのではないかな」
「伊賀さんは、あたしと連絡先交換したくないですか?」
確かに、仕事の付き合いもあるだろうから、気が引けてしまう気持ちも分かる。だけど今日のあたしはなんだか無敵。ちょっとずるい気もするけど、ちょっとくらい強引に行く方がイイって雑誌にも書いてあったし。
「職場の先輩が言ってたんです」
「ふむ」
「見ていないものは存在しないのと同じだって。だから、内緒にしておきましょう。ねっ」
伊賀さんはあたしの方を見て目を丸くして、それから愉快そうに笑いだした。
「随分と良い先輩に恵まれたようだ。なかなか言うようになったじゃないか」
「あたしも社会人ですから」
伊賀さんはするりと携帯を取り出してカウンターに置いた。そこには、番号とアドレスが表示されている。ありがとう、香奈子先輩! あたしは心の中で、名言を教えてくれた先輩に感謝した。
「ブラック・ルシアンを飲み干すまでの間に」
そう言って、ゆっくりと伊賀さんはカクテルグラスを手に取った。
「ふとカウンターに置いた携帯に、たまたま番号が表示されていた。そしてお嬢はたまたまそれを見た」
カクテルの入ったグラスを傾けて、視線をカウンターの内側に向ける。
「それくらいの偶然は、世の中にいくつも転がっているものだ。マスターも、そう思わんか」
ちょうどマスターは拭き終わったグラスをスタンドに戻すためにカウンターに背を向けていて、伊賀さんの質問には答えなかった。
「マスターが真面目に仕事をしていて、ふと客から目を離してしまう。これもまた、よくあることだろうな」
くすくすと伊賀さんは笑っている。台詞と一連の動作の意図を少し遅れて理解したあたしは、慌てて伊賀さんの連絡先が記されている画面を自分の携帯で撮った。
「伊賀さんの携帯、最新機種なんですね。ちょっと意外かも」
「スリランカに仕事に行った時に失くしたのだ。日本に帰ってきて先日買ったばかりだ」
「なるほど、道理で」
そう言い終わるのと、伊賀さんがカクテルを飲み終わるのが同時だった。もっと色々と話がしたい気持ちはあるけど、今日は連絡先を交換できたことが一番幸せなことだ。
「久しぶりに話せて楽しかった。頑張るのだぞ、社会人」
伊賀さんが「それじゃあ、お先に」と席を立った。まだ少し物足りない。けど、今日はもうじゅうぶん。少し酔いが回ってきたのかもしれない。ふわふわした気持ちに包まれて、あたしはなんだか立ち上がることができなかった。
「はい、ありがとうございますっ」
ひらひらと手を振って、伊賀さんは去った。
酔いが醒めるまで少し休んで、お会計をしようとすると、マスターは首を横に振った。就職祝いだと、伊賀さんが払っていってくれたらしい。申し訳ないやら、嬉しいやらであたしの心は複雑だった。
明日からの仕事もとっても楽しみ。
伯父の会社は、とてもいい会社だと思う。
週明けに会社に行ったら、まずは香奈子先輩にお礼を言おう。そう決めて、あたしはバーを後にした。
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