第3話-3 追憶の夢を見た日のこと

 私は深夜の高速道路で車を走らせていた。幌のついた軽トラはその古さからか、はたまた積荷の重量からか、路面の少しの凹凸でも車内にその振動が伝わってくる。率直に言って、乗り心地が悪い。

 しかし、乗り心地が良し悪しとは別の観点で、私は今のこの状況に理不尽を感じざるを得ない。


 茶屋町さんが企画会社との話し合いで奮闘した結果、納期を必ず守る事を条件に印刷物の扱い責任を全て引き受けてきた。これは問題ない。


 次いで、既に印刷用紙の搬入を終えていた件の印刷会社から、二県跨いだ印刷会社まであの木の材質のような紙束を運ぶことになった。期限は明日の朝一番。これも問題ない。


 大和田君が手配してくれたレンタカーの乗り心地が悪いこと。これは仕方がない。そして会社でミッション車を運転でき、且つ他の業務に影響が少ない人間が私だけであること。「僕、オートマ限定なんすよ」と言ってのけた大和田君に少し恨みはあるが、これも許容範囲である。


 不可解で理不尽なのは、助手席に三鍋が乗っているこの現実に他ならない。


「カタコ。次のパーキングで少し休むといい。そこを過ぎてしまうとしばらくは休めん」


 ついこの間買ってきたスマートフォンを操作し、的確にナビをしている三鍋。確かにこの軽トラにナビはついていないので有難い。有難いけれども。足元に置いてあるリュックが振動でガチャガチャと賑やかだ。何を持ってきたんだこいつ。


「色々と言いたい事があるんだけど」

「出立のときに散々喚いたではないか」

「そりゃあ、三鍋が付いてくる理由なんかどこにもないと思ったし」


 こいつは自分も付いていくといって聞かなかった。私の仕事なのだから三鍋の出る幕はないと思うのだけれど。それに、三鍋と二人で深夜のドライブというのがのが何だか嫌だ。帰宅した時にシャワーも浴びたし化粧も落とした。別に三鍋相手にノーメイクの顔を見せるのは苦でもなんでもないけれども、そこを一切配慮しないのは逆にどうなんだ。少しくらいは私を女として見てくれてもいいんだぞ。


 そんな私の複雑な胸中にはまるで興味がないといった素振りで、三鍋はやれやれと首を横に振った。


「俺は鍋師となるためにカタコの健康を任された身分だ。そして食を支えるということは、命を支えるということだ。しからば夜食の一つも作って共に行動するのは当然だろう」

「なんぞ、その屁理屈は。じゃあ代わりにあんたが運転してよ」

「それが出来ればなお良いのだろうが、それは出来ない。日本での運転免許は失効してしまったのだ」

「考えなしに海外になんか行くから……」


 とはいえ、たとえ三鍋が免許を持っていたとしても運転させるつもりはない。と、いうか連れてくるつもりも毛頭なかった。これは私の仕事(いわゆる時間外勤務というやつだが)であって、三鍋の仕事では決してない。そこを譲るつもりは無かった。仕事に関して筋を通せというのも、社長からの教えの一つだ。最終的に私が折れたのは、「とびきりの夜食を用意する」と言う台詞に心動かされてしまったからだ。悔しいが、私は三鍋の作るものに胃袋を掴まれていることを認めなければいけない。だって理不尽に美味しいんだもの。


 しかし私はふと気になった。三鍋は海外に出てどのように過ごしていたのだろう。鍋の師匠とやらに言われて諸国を巡ったというのは再会した日に聞いた。チベットだかギアナ高地だかに行っていたと言うのも、おそらく嘘ではないだろう。

 何を目的にこいつは海を渡ったというのだろうか。道中の暇つぶしにくらいはなるかも知れない。無理やり乗り込んできたのだから、それくらいは聞いてもいいだろう。


「ねえ、三鍋。あんた、何しに海外に行ったの?」

「何をいまさら。鍋師になるために決まっているだろう」

「いや、そうじゃなくて。こうさ、師匠に何かノルマを達成してこいと言われた、とかないの?」


 三鍋が「おお」と納得したように携帯から視線を上げた。真っ直ぐ前を向いたその目は夜に沈んだ高速道路ではなく、どこか遠くを見ているような気がした。あれ、これ長くなるヤツかしら。程ほどの暇つぶしでいいんだけどな。具体的には次のパーキングエリアまでくらいの話であって欲しい。


「色々あったものだ。行く先々で師から指令が出た。時にはメール、時には現地の人からの伝言。居候していた家に電話がかかってきたこともあった」

「あんたの師匠ってストーカーか何か? 普通じゃないでしょう、それ」

「何を言う。師は一流の鍋師なのだ。ならば弟子の動向の把握などできて当然だろう」


 それをどんな方法でやっているにせよ、三鍋の師匠はかなりの変人と見た。いや三鍋がこうなのだから師匠からして変人に違いない。いや、待てよ。三鍋は大学時代からこんな感じだった。とすれば、類が友を呼んだ結果なのかも知れない。上には上がいるのだろう。世の中は不可解なことだらけだから、これはまあ、想定範囲内だ。

 私は師匠とやらの変人ぶりを意図的に話題にしない事に決めて、三鍋が海外で何をしてきたのかを聞くために口を開いた。


「で、具体体には何をしてたの? 次のパーキングまでの暇つぶしに聞かせてよ」

「そうだな、世界各地の料理を食べることが主だったが、他にも色々とやったものだ……手軽な所ではイースター島か。“モアイと対話しろ”と言われてな。成し遂げるまでに二週間ほどかかったのだ」

「なんだそりゃあ」

「モアイと差し向かいに座って、ひたすらに待った。起きては宿を出て像の前に座る。日が沈む頃に宿に戻って寝る。そんな生活を十日程続けた頃合いでモアイの声が聞こえてくるようになったのだ」

「いやあんたそれ幻聴だわ。やめてよね、夜中にそんなオカルトじみた話。だいたい、イースター島って人住んでるの?」

「何を言うか。れっきとした事実だ。そしてイースター島は無人島ではないぞ」


 私は知らなかったのだが、三鍋がそこから滔々とイースター島について述べ立てたおかげで、人口数千人の島であることやテレビ局、ラジオ局が存在することなど、意外に文明的な暮らしぶりなのだと知ることができた。

 三鍋の胡散臭い鍋修行の話より、そっちの方が興味深い。そもそも、モアイとただにらめっこしていた事と鍋を究めることに何の関連性があるというのか。いや、ない。少なくとも私は無いと断言する。


 私は次のエピソードを要求した。もっとこう、ハートフルなものを。訳の分からんものではなくて、何だかイイハナシ風のものを。

 三鍋はこめかみをトントンとやってしばらく考えた後、ぽむんと手を打った。愉快そうな顔をしている。


「鍋修行とはまた違ってくるが、つい先日、面白いことがあったのだ」

「世間話じゃないの。まあ、この際許すわ」

「うむ。修行中にギアナ高地にも行ったことは前にも話したな。その時に出会った日本人と再会したのだ」

「へえ! すごい偶然じゃない。それでそれで?」


 世の中は理不尽が八割、不可解が二割だ。思ってもみないことが突然起こる事も十分にあり得る。それは時に奇跡と呼ばれることもあるだろう。


「また飲もうと連絡先は交換した。前に買って帰った水羊羹があっただろう。あれはその者に勧めてもらったのだ」


 そう言って頷く三鍋は楽しそうだった。なるほど、あの水羊羹は鍋師とやらの嗅覚で見つけた訳ではなかったのか。


「あれは良い男だ。カタコと違って、鍋道をまったく否定しないのだからな」

「見たことないもの。私はその人とは違うの。見ていないものは存在しないのと同じ。私は見た物を信じるわ」

「頭の堅いヤツだ。まあ、カタコであるから仕方あるまい」

「あんたそれ他の人に言ったらダメだからね」


 しかしよくよく考えてみれば、私は三鍋の現在の交友関係を知らない。携帯を失くして日本に帰ってきたのだから、今は連絡を取れる相手もいないはずだ。私と、さきほど話に出てきた人くらいだろう。

 それに、修行のルールに、私の元で修行していることを知られてはいけないという妙なルールがあった事を思い出す。何のためにそんなルールがあるのかは分からないが、ともかくおかげで私は大学時代の苦い渾名を見ず知らずの人物に知られることは無いわけだ。それはそれで良い事である。




   ○   ○   ○




 パーキングエリアに到着し、用を足しに行って車に戻ってみれば、三鍋の姿はなかった。現在時刻は深夜の三時。当然のようにパーキングエリアの売店も閉まっている。自動販売機と照明だけが寒々しく光っているだけだ。春とはいえ、まだ夜中は寒い。外の風にあたる事で、運転で疲れていた頭が少しすっきりした気がした。

 三鍋もトイレだろうかと辺りを見回してみれば、敷地の隅のベンチに座っていた。そして足元が妙に明るい。不思議に思って近づいてみれば三鍋は火を起こしていた。


「ちょっと、怒られない? これ」

「まあ、あまり褒められたことではないだろうな。日本はそういった所が多少不自由だ」


 キャンプなどで使われる小さめのガスバーナーで小鍋を沸かしているようだ。なるほど、荷物の中身はこれだったのか。ゆっくりとお玉で鍋をかきまわしている。覗き込んでみるが具材などは見えず、辺りが明るくない事もあって中身の色も分からない。ただ、微かに漂ってくる匂いは料亭を思わせるような和風の出汁のようなものだった。

 

「確かにパーキングエリアでキャンプの真似事ってのは見かけないわね。で、これが、とびきりの夜食ってヤツ?」

「うむ。カタコの好みに合わせて作ったつもりだ。家で仕込みをしてあるので、あとは仕上げを御覧じるがいい」


 そう言って三鍋は懐から調味料の容器を取り出した。火を止めて、それを軽く一振りしてから鍋をかき混ぜ、紙コップに中身を注いで私の方へと差し出した。

 私は少し吹き冷ましてから口へと運ぶ。何かの香辛料だろうか。出汁の香りとは違う、独特な香りが微かにした。わずかにとろみのついたそのスープは喉元を過ぎても暖かく、お腹の底でじわりと熱を持っていた。ううむ。おいしい。

 三鍋自身も紙コップにそれを入れて飲んでいたが、飲む前に手持ちの調味料をさらに加えてから飲んでいた。


「あったまるわねえ。それ、何かの香辛料?」

「漢方薬だ。多少刺激が強いので量は抑えた」

「もうちょっと入れようかな。大丈夫?」

「うむ。味としては美味いものではないが、効能はある。具体的には、明日の肌の張りを楽しみにしておけ」

「それは嬉しいけど……」


 なに? 暗に普段はお肌のハリが無いって言いたいの? そりゃあ、もうすぐ三十路ですもの。仕事にかまけ過ぎて浮いた噂の一つもない堅物女ですもの。日に日にお肌の衰えは感じるけれど、それを三鍋に気にされてしまうのもなんだか落ち着かない気持ちになってくる。


「どうした?」

「なんでもないわよっ」


 複雑な胸中を押し隠すように私は三鍋から調味料の入った瓶を奪い取り、スープに振って飲んだ。なるほど漢方薬だけあって独特の味わいが増したが、辛味とも苦味ともとれないこの味は今の私の気分にそれなりに合っていた。


 車に乗り込み、しばらくの間仮眠をとることにした。所要時間だけで考えれば明け方に出発しても先方の営業時間には間に合うが、朝になれば道路が込む。それ故、私は深夜の移動を選択したのだ。

 現地に着く前に24時間営業の銭湯に立ち寄ることにしたので、今のうちに睡眠を取っておくのだ。


「スープ、ごちそうさま。おいしかった」

「うむ、お粗末様であった。六時に起こせばよかろう。ゆっくり休め」

「ん、三鍋も少しは寝るのよ」


 運転席のシートを後ろに傾けながら、隣で三鍋が寝ることに何の疑問も感じていなかった。そして特に気にしてもいなかった。

 三鍋は、隣で眠るのが当然といった様子で腕を組んで目を閉じていた。


 ――本当に、昔と変わらない。


 どうして私はこいつと付き合っていたんだっけ。もう、何年も前のことに思える。別れた時のことも、今となっては記憶にない。いつの間にかいなくなっていた三鍋に対して、帰りを待つような乙女心も持ち合わせておらず、かといって新しい彼氏を探すのもどこか気が引けると思いながら過ごしてきた。あれ? 私が結婚できないのって、もしかしてこいつのせいかしら?

 まあ、今となっては恨みも何もない。私はしっかりと働いているし、それに対して充実感もある。三鍋のような変人の相手をしていたせいか、琴科さんや社長のような癖が強い人物ともそれなりに渡りあってやっていると思う。

 そして三鍋のような変人の相手をしていたせいで世間一般の女性が手にするような幸せは掴めず、この年になっても浮いた噂の一つもないままに社長の奥方になにくれと気を回される羽目になったのだろう。


 禍福はあざなえる三鍋の如し。


 そう、小さな声でぽつりと呟いたが、三鍋は変わらずに腕を組んで目を閉じていた。


 大学時代の事を少し思い出したせいか、私は当時の夢を見た。

 それは私と三鍋がまだ付き合っていたころの夢で、後輩たちと共に過ごしていた懐かしい夢だった。

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