第1話-2 再会した元彼が居候を申し出た日のこと
所々まばらな街灯の明るさが、三鍋の顔を照らす。
髪も伸びて無精ひげも目立つが、まあ間違いなく三鍋だ。我ながら、よくすぐに三鍋だと分かったものだ。
見た目に反して不快な匂いがしないのも不思議だが、それより目的を確認することのほうが先だ。
「どこから話したものかな」
「要点だけでいい」
「なるほどしかし難しいな。しばしまとめる時間をくれ。その間、そうだな。世間話でもしよう」
「世間から外れた格好してるヤツの世間話ってのは、世間話と言えるのかしらね」
三鍋はからから笑った。三鍋が私のスーツ姿を見て言う。
「カタコは……その格好、立派に働いているようだな。やはり経理か何かか?」
「ん、事務職ね。経理もやるって感じ。ちっさい会社よ。広告代理業の。あんたは……って聞くまでもないか。働いてなさそうね」
それに対しての返答がない。不思議に思って横顔を覗き込むと、三鍋がいやに真剣な顔をしている。
実はしっかりと働いていたりするのだろうか。いやいや。三鍋がまともに社会人生活を送っていたとも思えない。こいつにあるのは無尽蔵の好奇心と底なしの行動力だけだ。社会性や協調性といった類のものは皆無だった。いや、商品開発の類ならその力を発揮できるかもしれない。常人では計り知れない人材は、うまくはまれば嘘のように輝く。
ただ、三鍋が嵌まりそうな形をした社会のくぼみとやらは、一切想像できないが。
ぽつりと、三鍋が言った。
「俺は、世界を巡って修行した末に、
よく聞こえなかった。今日はどうも耳の調子がおかしい。いや、私の脳が理解を拒んでいるのかもしれない。
「よく聞け、カタコよ。俺は鍋師になったのだ。お前にも話したことがあるだろう」
「本気で言ってるの? それ、大学時代のあんたの妄言でしょう」
私たちは、食歴研究会というサークルに所属していた。日本各地の食事の歴史を研究する傍ら、全国各地のうまいもんを食おう、という名目のサークルだった。
費用を無駄遣いしては日本各地の料理を食べ歩き、誰よりも貪欲に食への知識を求めていた男。それが三鍋だった。食に対する真摯な姿勢だけは確かに私が尊敬していたところでもある。本当に、そこだけ。そこだけね。そして三鍋は決まって言っていたものだ。「これも将来のため。鍋師の肥やしになるのだ」と。
サークル内の誰もがただの虚言妄言だとた高を括り、サークル費の無駄遣いの言い訳にあるはずもない職業をでっちあげていたのだと思っていた。いや、私は今でもそう思っている。
「しかし事実、俺は鍋師となった。正確には
「ごめん、こっちが知ってる前提で話をしないで。鍋師とやらの相対的な社会認知度を鑑みてちょうだい。それは、えっと、役職みたいなもん?」
「うむ、
それではコックで言うところの皿洗いではないか。会社でいえば新入社員といったところか。下っ端も下っ端。それでなぜこうも堂々としていられるのだろう。まあ、三鍋だからな。そうだな、うん。三鍋だからな。
「で、その新米鍋師さんとやら。本題に戻るけれど、どうしてあんたが私の食事を作ることになるのかしら」
「おお、鍋師の存在を認めてくれる気になったか」
「仮定を否定したら議論は始まらないもの。もちろん、全面的に鍋師とやらを信じたつもりはないけど」
「疑り深い……。だが実にカタコらしい。これはな、昇段のための試練なのだ」
歩きながらぽつりぽつりと三鍋は語りだした。鍋師として半人前である自分が一人前と認められるための試練。その内容が、他人の食事を賄うことであるのだと言う。
その試練を受けるに至った経緯もこと細かに説明されたが、チベットの山奥でマニ車を回しながら鍋の真理について考えたとか、ギアナ高地で太古の地球に思いを馳せながら石鍋をしただとか、至極どうでも良い話だったのでよく覚えていない。
大切なことはおよそ数点。
まず第一に、試練とやらの期間はおよそ三ヶ月であり、その期間中、三鍋は私と共に住むつもりなのだということ。
第二に、生活費、食費諸々は三鍋が負担するということ。
そして第三。これが一番厄介なのだが、第三者に私が三鍋の奉公対象であることを知られてはいけないこと、である。
私は随分と険しい顔をしていたことだろう。様々なパターンを考えてみたが、どう捉えてもこれは私と三鍋がそれなりの男女間のお付き合いをしているという状況を作り出すことになる。付き合ってないのに。元カレなのに。
傍から見れば完全に同棲生活。しかも、いや実はこれは鍋師の試験で……などと言おうものなら、私も仲良く妄言野郎の仲間入りだ。もし信じてくれる人がいるのだとしても、それを口外するなときた。
あまりに周到な決まりごとに、私はどこか粗がないかと考えをこねくりまわしてみたが、三鍋の提案を了承すれば、三鍋の試験失敗と引き換えにでもしない限り、私は客観的に三鍋と交際をしていると周囲には見られるだろう。
私の住むマンションの前まで歩いて、三鍋はキャリーケースに腰掛けるような姿勢をとった。私の返答を待っているのだろうか。
別に三鍋を捨て置いても、私の人生に何一つデメリットはないと思う。だって、別に、手助けする義理も何もないし。
「確認したいのだけれど」
「うむ」
「三鍋が私と復縁するためにでっち上げた話ではないのね?」
「恥ずかしげもなく言う辺り、相変わらずの理論派のようだな。答えは、否だ。断じよう。俺は鍋師であるのだから」
「それが何の根拠になるかまったく分からない。まあいいわ。その試練とやらに失敗したときはどうなるの? 破門?」
「それは俺にもわからん。師匠は多くを語らぬ人だ」
何の戸惑いも焦りもなく、三鍋はそう答えてみせた。本当に相変わらず、こちらの理解をやすやすと越えてくる男だと思う。しかも、よく分からない方向に。
「理不尽な……。契約において重要な点でしょう」
三鍋がやれやれといったように首を振り、おおげさに落胆したような仕草をする。ううむ。むかつく。
「そこいらの職業といっしょくたにしてくれるな。鍋師は由緒正しき日本の伝統芸道であるのだぞ。多少は古臭いかもしれんが、それも含めて鍋道だ。師がやれと言えば黙して行動すればよい」
「鍋師やら鍋道やら次から次へと分からない単語ばっかり……。あんた、ちょっと異次元にでも行ってきたんじゃないの?」
「己の知識の浅薄さを棚にあげてよく言ったものだ。室町の世から続く由緒正しいものであるのだ。かの太閤秀吉も、茶の湯と共に鍋道を――」
鼻息荒くキャリーケースから立ち上がろうとする三鍋を手で制して、私は言葉を続ける。まだ確認したいことは残っているのだ。
「三鍋、お金はあるの? さっき、生活費や食費は出すって言ってたけど」
「それでこそ俺が認めた金庫女だ。言うに及ばん。これを見ろ」
そう言って、三鍋はキャリーケースの一つをごとりと開けて見せた。中身には多種多様な紙幣が詰め込まれており、日本銀行券のほかにも様々なものがあるようだった。
「ざっくりと八百万。もちろん、日本円に換えねばならんので正確な額はわからん。試練期間中の生活費には困らんはずだ」
キャリーケースを閉じて三鍋は続ける。
「さらに、的確、適切な距離でのご近所づきあいをこなしてみせよう」
「今、特にご近所づきあいなんてしてないけどね。変な噂とか立たなければ別にいい」
「好青年を演じることにかけては一級品だぞ。俺のコミュニケーション能力を思い出すのだ。幾度となく希少食材を手に入れてきた実績、忘れたとは言わせん」
「忘れてたまるもんですか。当時、どれだけサークルの予算面で苦労したか。ちょっとは金に糸目をつけて欲しかったわね」
しかし確かに現地での情報収集能力の高さや人に取り入る巧さはよく見ていた。あながち、世界を回っていたというのも嘘ではないのかも知れない。
それに、私に追い出されればそれはつまり試練とやらの失敗なのだ。そんな状況を自ら作るほど阿呆ではないだろう。
ううむ。住み込みの家事手伝いが増えるようなもんかしらね。生活費出してくれるってんなら、金銭面はかなり楽になるなあ。
その家事手伝いが自然消滅した元カレだってだけの話か。今は何とも思ってない訳だから、おいしいご飯が出てくるなら一考の余地はあるか。
「オーケー。それじゃこちらからの条件を提示するわ」
世の中いつでも理不尽八割、不可解二割。そういった事態に遭遇した時の対処法はいくつかあるけれど、三鍋がかつて引き起こしてきた理不尽に対しては、私は理論で以って抗ってきた。
今回もそれにならうことにする。感情論でまくし立てても、この男には無駄なのだ。変な持論で煙に巻かれるだけに決まっている。
それに、三鍋は変なところで義理堅く、律儀な性格をしていることを私は知っている。けっして、約束を反故にはしなかった。そうだ、三鍋はそういう男だった。
「夜食、今から何か作ってよ。おいしいと思ったら前向きに考える」
「よかろう。鍋奉行抱えが鍋与力。三鍋
「じゃ、上がってちょうだい。お手並み拝見といくわ」
私はそう言ってマンションの入り口へと三鍋を案内した。
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