鍋奉行に必要な、たったひとつのこと
三衣 千月
第1話-1 再会した元彼が居候を申し出た日のこと
世の中は、理不尽が八割、不可解が二割で構成されている。
これは私の持論だ。だからといって別に世の中に対して悲観的になっているわけでも、うまくいかない人生を僻んでいるわけでもない。いわば、私なりの予防線だと言ってしまってもいい。世の中は理不尽なのだから、何か悪いことがあってもそれはしょうがない。世の中のせいなんだから。そう考えて、私はこれまでの人生を歩んできた。
何かのせいにしてしまえる生活は、存外楽なものだ。うまくいけば自分の頑張りだと認めればいいし、うまくいかなければ世の中のせいにしてしまえばいい。学生時代はよく「自分に都合よくポジティブだよね」と言われたものだ。私の人生は私の都合がいいように解釈する。誰かが異論を唱えてきたならば、それを聞くだけの懐の深さは持ち合わせているつもりだ。聞くだけでその通りにする気はさらさらないけれど。
そんな性格だからか、私はよく可愛げがないと言われる。そりゃあ男性側からしてみれば、私みたいなリアクションの少ない鉄女よりも(これは実際に職場の男性に言われた台詞で、今でも私は根に持っている)、ふわっとした見目華やかな乙女の方が良いのだろう。そこに文句を唱えるつもりも、否定するつもりもない。適材適所、適材適所。
二十代も後半に差し掛かり、三十路に片足突っ込んだような年齢なのだから、ありもしない可愛げなどは捨て去って、オトナの魅力とやらを磨いたほうがよほど前向き、かつ建設的だ。
問題は、影も形も見えぬオトナの魅力の見つけ方である。磨く前に、まず原石を見つけなければどうしようもない。部屋の隅にでも落ちてないかな。魅力。
しかしながら、魅力が備わっているかに関わらず、社会は勝手に動いていくのだ。実に理不尽である。イチ社会人として、健康で文化的な最低限度の生活を送るためには衣食住の安定が不可欠であり、つまりお金がないといけない。よって、仕事の対価として金銭を得る必要があるのだ。嗚呼、降って湧かないものか私の生涯年収。
新年度が始まって、入社してから幾度目かの春ではあるが、とりとめもない思考をつらつらと流しながら、こうして勤務終わりの電車に揺られる毎日は特に変わりがない。
特に不満もないが、大きな満足もない。けれど、それはそれで良い。安定から一歩踏み出せば、そこはきっと理不尽の荒野だろうから。そこそこのお金があって、ちゃんとご飯が食べられるなら、それで充分だと、私は思う。
たまに、面白い出来事でも起こらないものかと不意に考えることはあるが、非日常的な空想や妄想の多くはドラマでも見ていれば事足りる。事実は小説よりも奇なり、とはよく言ったもので、押し寄せてくる現実のあれこれには、伏線もなければオチもなく、ただいつでも理不尽と不可解の波状攻撃だ。そんなものが、エンターテイメントとして成り立つ道理がない。
自宅最寄りの駅で電車を降り、無意識のうちに改札を抜ける。いつICカードを取り出して、どんな角度で改札にタッチしたかなど、私の脳はいちいち覚えていないのだ。現実なんてのは、そんなものの積み重ねだ。
けれどその日は、改札を出た駅前の小さな広場の様子が普段と少しだけ違った。
ロータリーにタクシーが数台。これはいつも通りだ。歩道にぽつぽつと植えられている桜が咲いているのも、この時期には何らおかしくない。駅から吐き出されていく、私と同じ仕事終わりの人の群れも変わらない。
ただ、男が一人、立っていた。
いわゆるバックパッカーというやつだろうか。大きなリュックを背負い、さらには大きなキャリーケースを二つ。それらを横に携えた男がそこにいたのだ。
男は、私の名を呼んだ。
「カタコ! カタコではないか!」
正確には、私の学生時代のあだ名を呼んだ。ええ、ええ。どうせ私は堅物女のカタコですとも。香奈子だといくら訂正しても無駄なのでそのまま放っておいたのだ。
男は、声の主は、学生時代の知り合いだった。いや、知り合いと呼ぶには少しばかり距離を縮めすぎていた時期もないことはないので、より正確に表現するならば、そう、だな。
自然消滅したはずの元カレ、とするのが最も的確な表現だろうと思う。
「生きてたのね。
「これぞ僥倖! 我が天命、この場にありて他になし!」
三鍋が私に向かって歩み寄ってくる。うわ、服すごいボロボロ。
そして滑らかに姿勢を低くして、そのまま地面にぺたんと座り込み、三つ指ついてぐいと頭を下げた。
「頼む! 俺に毎日、お前の飯を作らせてくれ!」
「……は?」
額を地面にこすりつけたまま、三鍋が何か言った。よく聞こえなかった。今、何と言ったのだろう。毎日? 飯を?
三鍋は今なんと言ったのだろうか。おおよそプロポーズまがいの発言だったようにも思えるが、いやまさかそんなこともないだろう。もう一度、足元を見た。男が土下座の姿勢でそこにいる。おそらくこれは三鍋で、そしてあまり信じたくないがこれは現実の出来事だ。実に不可解。
「よく聞こえなかったのだけれど」
いつの間にか私の目の前から消えた元カレが、不意に現れて毎日飯を作ると述べ立てる。その前に謝罪の一つとか、寄りを戻す戻さないとかそういう話はないの? ねえ。
「お前の飯を、俺が、作りたいと言った。毎日だ! リクエストも極力受け付ける!」
「その前に三鍋、あんた消息を絶って五年もどこで何を――」
ここで、ようやっと周囲の視線に気が付いた。
夜とはいえ、そして都市圏からは少し離れた駅だとはいえども、仕事帰りの人たちはまだいる時間帯だ。何事かと足を止めてこちらを見ている人の姿もある。なんだ、一体なんだこれは。
見物客の大半は、よくある恋愛のワンシーンだとでも思っているだろうが冗談ではない。私と三鍋の間に、今現在そういった類のものは一切横たわっていない。影も形もない。だって五年ぶりに会ったのだから。
昔は確かに大学で同じサークルにいて、三鍋は好き勝手にサークル費を使いまくり、私がそれを淡々と責めあげたことがたびたびあった。こいつは驚くほど懲りなかった。それでも諦めなかった私を金庫女と罵ったのが他でもない。目の前で土下座している人物だ。
そうして行動を共にすることが多かったが故に、いつのまにか親密なお付き合いに発展していた。この、いつの間にかというのがまた憎らしい。
「三鍋、とりあえず頭上げてよ。どうせパフォーマンスでしょ、それ」
「さすがカタコであるな。相変わらず情に訴える作戦が効かぬ」
「それを分かっててやってんだから性質が悪いわね、相変わらず」
すっくと立ち上がり、三鍋はキャリーケースに荷物を乗せるよう無言でジェスチャーした。別に大したものも入っていないショルダーバッグひとつだが、好意には甘えることにする。別にいきなり走って逃げたりはしないだろうし。
修羅場になりそうもない気配を感じ取ったのか、野次馬たちはそろそろと引いていく。
そうそう、それでいい。別に面白いものでもないし。別に私は、三鍋が消えたことに怒りもなければ再会した事への喜びもない。消息を絶った時……は、どうだったかな。私は慌てふためいたりしたのだろうか。よく覚えていない。
ただその場に留まるのも気まずいものがあったので、駅前ロータリーから逃げるように歩きだす。がらごろとキャリーケース二つを引いて、三鍋も後をついてきた。
「それで、三鍋。どうしてまた私の所に? 寄りを戻す気にでもなった?」
「寄りを……?」
三鍋の歩みが止まる。どうしたどうした、図星か? ん? 図星なのか? ちなみに私に全くその気はないからね。
振り向くと、頭を少し掻いてから私の横へと三鍋は並んだ。
「いいや、先刻も述べたが、俺はカタコに飯を作りたいのだ」
「まったくもって訳が分からない。訳が分からなさ過ぎて判断もできない。ちょっと詳しく」
「変わることなく理論派で非常に好感が持てる。歩きながら話すとしよう」
そうして、私たちは二人並んで歩き出した。
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