第18話

 神社のすぐ近くに、子どもでも泳いで渡れそうなくらい狭い川が流れている。反面、神社と地続きになっている側の河川敷は広大で、毎年八月下旬、夏祭りに合わせて行われる花火の打ち上げのさいには、絶好の観覧席になった。

 打ち上げ花火が始まるまで半時間。場所とりをしている人もすでに何人かいたが、観覧に好都合な場所を選ぶ余地はまだまだ残されている。

 ナツキとチグサは、地面が芝生になっている場所を選んで腰を下ろした。人口密度が低くなり、体感温度も心なしか下がったようで、人心地がついた。

「今年も夏が終わるね」

 ひとり言のようなナツキのつぶやきが、夜八時の闇にそっと放たれた。

 時期が時期なので、花火を見るためにこの場所に来ると、決まってそんな実感を抱く。ナツキに限った話ではない。去年いっしょに見に来たときは、チグサも同じ感想を漏らしていた。見知らぬ他人が口にしているのを耳に挟んだこともある。大げさな言いかたをするなら、T市花火大会になんらかの形で関わる人間共通の感覚だ。

 しかし、今年の二人は違う。

「……ピラミッド」

 先ほどのナツキのつぶやき以上のかすかさで、今夏何度つぶやいたか分からない単語をチグサは口にした。

「まだ数回、ピラミッドの正体を自力で知るチャンスがある。笹沢さんの返答次第では、その確率を高められる」

 お盆にカイリとのあいだであったやりとりは、チグサには全て報告してある。ナツキは深く頷き、

「いい返事がもらえるといいよね。わたし的には手ごたえを感じたけど、なにせ相手はカイリだからね。どう転ぶかは、そのときが来てみないと分からないよ」

 カイリから承諾を得られなかった場合のこと。夏休みももう残り少なく、ピラミッドを目指して歩くチャンス自体が少ないこと。

 話し合っておきたい議題はいくつかあったが、会話は思いがけない形で中断を余儀なくされた。

「木島! 相内!」

 声に振り向くと、十メートルほど離れた場所に後藤くんがいた。空はすでに暗くなっていたが、一目で後藤くんだと分かった。ナツキが手を振ると、駆け寄ってきた。

「もしかしてと思ったら、本当に二人だったからびっくりした。まさか会えるとはね」

「わたしもびっくりした。友だちといっしょ? それとも一人?」

「いや、どっちでもない。というか、どっちでもなかった」

 ナツキはチグサを見た。なんで私を見るの、という顔をチグサはする。

「さっきまで母さんといて、母さんだけさっき帰った」

「あっ、そうだったんだ。屋台の味のリサーチ? お店の商品の参考にする、みたいな」

「いや、まったく関係ない。いっしょに行こうってしつこく誘うから、しょうがなく付き合っただけ。親といっしょだと、友だちに会ったときに冷やかされるから嫌なんだけど、けっきょく毎年こうなるんだよね」

「お母さん思いなんだね。いいなー、親子で仲よしなの」

「離婚して父さんが出て行って以来、母さんを助けてあげないとっていう思いがあるから、どうしても負けちゃうんだよね。じいちゃんは仕事人間だから、構ってあげられるのは俺くらい――」

 後藤くんははっとした表情を見せて、口を噤んだ。

 ナツキは息を呑んだ。後藤くんはついうっかり、本人にとって重大な、できれば隠しておきたかった事実を漏らしてしまったのだ。

 沈黙が降り、気まずい空気が三人を包んだ。夏祭りの賑わいから離れた場所にいるため、沈黙も気まずさも、実質以上に深刻なものに感じられる。ナツキは半ば無理矢理笑顔を作った。

「とりあえず、後藤くんも座って。他に誰かと約束しているわけじゃないんだよね。花火までもう少し時間あるし、三人で話をしようよ」

「あ、うん」

 横にずれて、チグサとのあいだに一人ぶんが座れるスペースを作り、手振りで勧める。後藤くんは躊躇ったが、チグサに「どうぞ」と促されて言われたとおりにした。

 親が離婚。

 そういう境遇の子どもが世の中に一定数存在することは、ナツキはもちろん知っている。実際に、その条件に該当する人間がナツキの身近にいる。だから、心に受けた衝撃は人よりも小さかったはずだ。

 ただ、いきなりその事実を突きつけられると、驚きと戸惑いは隠せない。親が離婚したという事実を、意味を、本人がどう捉えているのか。それが不明である以上は、下手なことは言えないな、と緊張してしまう。後藤くんは赤の他人ではないが、友だちと呼ぶには一歩足りない親しさだから、なおさら。

「親が離婚する前、俺がまだ子どもだったころは、夏祭りは毎年家族で行くイベントだったんだ」

 すぐ目の前の地面に視線を落としながら、後藤くんは語り始めた。

「母さんは毎年かき氷を必ず食べるんだ。二杯とか、三杯とか。そのためにわざわざ夕食を抜いたりとかして、ほんとに子どもなんだよ。子どもの俺から見ても。甘いものが好きだから後藤家に嫁いだって、冗談めかしてよく言うんだけど、親父と離婚した今となっては、あながち冗談ではなかったのかなって思う」

 家業は本来、後藤くんのお父さんが継ぐことになっていたのだろう。しかし、眉子と離婚し、後藤家から去った。

 後藤くんのお父さんになにがあったのだろう。家業を継ぐのが嫌だった? 眉子さん以外に好きな女性ができた?

 思い浮かぶ理由はいくつかあるが、想像を巡らせるナツキは、真相の所在地を遥か遠くに感じている。大人にしか真の意味で理解することができない、複雑怪奇な事情が横たわっているのだろう、と思う。

 真相を確実にものにする唯一の方法は、後藤くんに訊いてみることだが、とてもそんな勇気は持てない。真相を知ること自体ではなく、「大人の事情」に触れるのが恐ろしかった。

「じいちゃんによく言われるんだよね。お母さんを助けてあげられるのはユウジしかいないんだから、困っているときはもちろん、困っていないときでもお母さんを助けてあげなさいって。俺が家業に無関心でも文句一つ言わないじいちゃんが、そのことだけは口酸っぱく言うんだ。だから、父さんがいなくなったのは母さんのせいじゃないし、母さんを助けるのは正しいことなんだと思って、言われたとおりにしてるんだけど」

 喋る後藤くんの顔つきからは、一貫して真剣さが感じられる。家族のことを話すのが照れくさくてついはにかんでしまう、ということは一切ない。

 沈黙が再び三人を包んだ。ただし、前回のそれとは質が少し異なっている。言語化するのは難しいが、少なくとも息苦しさは感じない。

 後藤くんはなぜ、わたしたちに両親の離婚のことを話したのだろう?

 それだけは知っておきたい気がして、後藤くんの顔を見つめると、たちまち目が合った。瞬間、後藤くんが浮かべたほほ笑みからは、彼がこの場に来てから初めて、羞恥の念が観測できた。

「木島と相内ってさ、なんていうか、良識ある感じじゃん。人を傷つけるようなことは簡単には言わないんだろうなっていう、そういう安心感があるっていうか。実際、母さんといっしょだったって言ったときも、マザコンだとか、そういう冷やかしは一言も口にしなかった」

 人を傷つけるようなことは簡単には言わない……。

 本当にそうだろうか、とナツキは自問する。カイリに対しては汚い言葉づかいを頻発しているし、チグサには言葉の選びかたによくダメ出しをされる。カイリのようにデリカシーがない人間だとは思っていないが、品行方正だと言いきる自信もない。

 後藤くんはもしかすると、チグサ一人を念頭に「良識がある」と評したかったのかもしれない。しかし、チグサの親友である人間を蔑ろにしたくない気持ちがあって、悪く言えばお情けで、よく言えば優しさで、二人を一括りにした。

 ということは、やっぱり後藤くんは。

「男友だちが相手だと、家に関することは話しづらくてさ。ただのクラスメイトよりもちょっと親しい、みたいな、そういう関係の人間が一番打ち明けやすかったんだよ。木島と相内に話したのは、そういう経緯。……いきなり重い話をして、迷惑だったらごめん」

「そんなことないよ」

 チグサの声に、ナツキと後藤くんの視線は惹きつけられる。決して大きくはないが、強い声だ。

「私、後藤くんの気持ち、すごくよく分かる。親を悪者にしたくない気持ちとか、親しい人には却って打ち明けづらい心理とか。私の場合は、ナツキにだけは伝えているんだけど」

「伝えているって、なにを?」

「私も、小学四年生のときに親が離婚して、今のお母さんとは血の繋がりがないの」

 後藤くんはチグサのほうを向いていたので、表情の変化は分からない。しかし、「えっ」というかすかな声を漏らしたのを、ナツキはたしかに聞いた。

「もう三年も経ったんだから、いい加減打ち解けないといけないのに、お母さんとはまだ関係がぎくしゃくしたままなの。こっちが意地を張っているだけだって、分かってはいるんだけどね。だから、後藤くんとお母さんが仲よくしているっていう話を聞いて、すごく羨ましいと思った。私ももっと大人にならなきゃって」

「俺の場合とは、ちょっと事情が違うんじゃないかな。母さんとは血の繋がりがあるし、再婚したわけじゃないから。俺だって、母さんが知らない男の人を家に連れてきて、『今日からこの人がユウジのお父さんだよ』って言われたとしたら、簡単には受け入れられなかったと思うし」

「うん……。でも、もう三年も経つのにっていう思いは、私の中で消えなくて」

 ナツキとチグサの顔を交互に見ながら話していた後藤くんは、もはやナツキには見向きもしない。チグサの顔はナツキのほうを向いているが、一瞬たりとも視線が合わない。家族だった人に去られるという経験を共有する者同士、完全に二人だけの世界に没入している。

 それでいて疎外感を覚えないのは、二人が意味のある時間を過ごしていることが、ひしひしと伝わってくるからだ。

「じゃあ、たとえばだけど。木島が俺と同じ状況――ようするに、今みたいに三人で暮らすんじゃなくて、血の繋がったお母さんと二人暮らしをしていたとしたら、木島はどう? 今よりも平穏な暮らしが送れていたと思う? 幸せになれたと思う?」

「うーん……。それは難しい問題だね。動揺は小さかったかもしれないけど、でも、やっぱり、悩んだり苦しんだりしていたんじゃないかな。私は心が弱い人間だから」

「……そっか。でも、親がいなくなるとか、違う人間になるとかしたら、パニックになるのが当たり前だよ。木島が特別弱いとか、そういうことではないと思う。俺だって、今はもうすっかり慣れたけど、父さんが出て行くって聞かされたときはすごく混乱した。小一のときだったんだけど、死ぬほど泣いたし」

「そうだよね。私の場合は、泣くことこそなかったけど、すごくショックを受けた。泣くくらい強くショックを受けたのにすっかり立ち直るなんて、後藤くんは強いんだね」

「自分ではそうは思わないけどね。でも木島の場合、親が同性だから親しみにくい、というところはあるんじゃないかな。俺も何回か、残ったのが父さんのほうだったら、すんなりと適応できてはいなかっただろうな、とか考えたことあるし。……今度こそマザコンだって思った?」

「全然。眉子さんと話をしていたら、後藤くんがお母さんを好きになる気持ち、すごく分かるから。そうだよね、ナツキ?」

 いきなり話を振られたのでまごついたが、首を縦に振った。すかさず後藤くんが続く。

「相内は親、二人揃ってる?」

「うん。特に話すこともないような、平凡な夫婦だよ。いろいろと不満はあるけど、普通の親だし、普通の親子関係だと思う」

「そっか。……幸せだな、相内は」

 そのつぶやきは、やけに大人びて聞こえた。直後、花火の打ち上げが始まるとのアナウンスがあった。

 周囲を見回すと、気がつかないうちに、河川敷の人口密度はかなり高まっている。

「花火、楽しみだね。チグサと話したんだけど、毎年この時期になると、ああ、夏も終わるんだなって感じがしない?」

「うん。それは思う」

「後藤くんも花火、見ていくでしょ」

「そうだね。せっかくだから」

 言葉少なに答えた後藤くんは、自分一人の世界に浸りたいような気配を漂わせている。それでいて、人で溢れる現在地から離脱することを選ばなかったのは、チグサの存在が大きいのだろう。

 なんとなく、チグサも後藤くんと同じ気持ちなのでは、という気がする。根拠はない。親友の勘というやつだ。

 ナツキは視線を二人から空へと移した。最初の花火が打ち上がるまでの時間が、とても長く感じられた。


 実に約四か月ぶりとなるカイリからのメッセージが届いたのは、夏休み最終日の一週間前のこと。

 就寝に先立って携帯電話を確認すると、新着メッセージがあるとの通知。送り主がカイリだと分かった瞬間、一気に目が覚めた。

『泊まりの件だけど、八月三十日なら来ていいよ。家の場所は↓』

 その次のメッセージに、『かけはし』からカイリの自宅までの経路を綴った、手書きの地図の画像が添付されていた。

 就寝の時間は五分延長された。チグサはもう寝てしまっている時間だったが、今日中に連絡を入れておきたかったから。

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