第16話
「家族全員で海外旅行に行く予定があったのは事実。急きょ、あたしだけ行かないことが決まったの。見栄を張ってみんなに嘘を言いふらしていたとか、そういうのじゃないから」
「急きょって、どういうこと? 体調でも悪くなったの?」
「んなわけないでしょ。あんなに走ったんだから」
「あっ、そうか」
じゃあ、理由はなんなの? 眼差しで問い質す。
カイリはとても言いづらそうだ。唇がもどかしそうに蠢く時間が何秒か続いて、
「行きたくなくなったの。出発直前になって急に、行くの嫌だな、行きたくないなって」
「えっと、それはどういう……」
「あー……。もうちょっと前から説明したほうがいいかな」
カイリは空を仰ぐ。異常でも察知したのかと思ったが、どこまでも続いていきそうな青が広がっているばかり。言うべきことを脳内で整理しているのだ、と遅れて理解する。
その隙に、ナツキはカイリの顔をまじまじと見つめた。眉をひそめていたが、普段の攻撃的で勝気な雰囲気は感じない。色濃く漂っているのは、それとは正反対、困難に直面した者の顔に必然に滲む気弱さだ。
「あたしのお父さん、英語が得意で」
顔の方向を戻したカイリは、ナツキが予想もしていなかったことを口にした。
「お母さんと結婚する前も、旅行先にはよく海外を選んでいたみたいなの。海外に行くのが特別好きということじゃなくて、言語によるコミュニケーションに支障がないから、行き先の候補として普通に入ってくる、みたいな感じ」
ニュアンスがちゃんと伝わっているかが不安らしい顔つきをカイリは見せた。ナツキが何度も頷いたので、話を先に進めた。
「じゃあ、結婚して、あたしが生まれてからはどうかっていうと、だいたい毎年二回くらいのペースで行っているんだけど、あたしは連れて行ってくれないの。治安が悪いとか、旅行先で病気でもしたら困るとか、もっともらしい理由をつけて。なんでかって言うと、どうもうちの両親の中では、海外旅行は夫婦二人だけで行くもの、という認識らしいのね。国内の遊園地とかテーマパークとかには普通に連れて行ってもらえたから、そういうことなんだと思う」
言葉を切ってかすかな苦笑を漏らし、語を継ぐ。
「あたしもいつまでもガキじゃないし、バカじゃないから、だんだん親の腹の中が分かってくるわけ。いろいろ理由をつけているけど、全部本当の理由じゃないんだな、あたしが邪魔なだけなんだなって。だからムキになって、今度海外に行くときは絶対にあたしも連れて行ってって、強く頼んだの。それが今年の話なんだけど、結果は、意外にもあっさり承諾。親にどういう心境の変化があったのかなんて興味ないから、尋ねていないし、考えたこともないけど」
ため息が挿入される。遠い目をしているように見えるのは、当時を思い返しているからだろうか。
「正直、あたし自身はそこまで、海外にも旅行にも興味があるわけじゃないの。子どもを持つ立場になっても、子どもを抜きにして夫婦二人きりの時間を持ちたいときもあるって、ある程度の年齢になってからはちゃんと理解してもいた。それなのにいっしょに行きたいって主張したのは、のけ者にされていると感じていた子ども時代の復讐をするためだったの」
言葉が途切れる。次の言葉に迷うような顔つきを見せたが、無言だった時間は一瞬と言ってもいいほど短かった。
「ただ、興味がないといっても、やっぱり海外は魅力的でしょ。だから、なんだかんだで楽しみにしていたのね。両親と仲よくガイドブックを見ながら、好き勝手なことをああだこうだ言って想像を膨らませたりして。だけど、直前になって急に行くのが嫌になったの。海外へ行くのは初めてだから不安、ということじゃなくて」
「仕返しをしている自分が嫌になったの?」
カイリは自信なさげに首を縦に振ったあと、すぐさま首を横に振った。
「それもあるけど、それだけじゃ足りない。一言で言えば、親に頼りきりな自分に嫌気が差した、ということになるのかな」
「頼りきり?」
「そう、頼りきり。旅行の計画を立てるさいに、この国に行きたいとか、あの観光スポットに行きたいとか、そういう希望は山ほど出したんだけど、冷静に考えたら、あたしの希望を叶えるために必要な、諸々の面倒くさい手続きは全部親がするんだな、って思って。そのことに気がついた瞬間、自己嫌悪の念がぶわーって湧いたのね。夫婦二人きりの時間を奪ったくせに、代償を支払うわけでもなく、美味しいところだけ味わおうとしている自分が、ものすごくださいやつに思えてきて。じゃあどうするのが正しいのかを考えて、親と行動をともにするのをやめるべきだ、という結論に至ったの。海外旅行に連れて行ってもらえないことに文句を言って、いっしょに連れて行ってほしいって頼むんじゃなくて、自分一人で海外旅行に行くべきだったんだって」
「でも、中一の女の子が一人で海外旅行って、無理じゃない?」
「たぶんね。でも、あたしが言いたいのは、姿勢とか態度とかの問題だから。何度も言うように、海外に行ってみたい気持ち自体はあったから、正直かなり迷った。でも、やっぱり親といっしょは嫌っていう気持ちのほうが優勢で、考えれば考えるほど行きたくなくなってきて、出発直前になって一線を越えて、絶対に行きたくないに変わった、みたいな感じ。だから、『急に嫌になった』っていう表現は正確じゃなかったかもしれない」
カイリが見栄っ張りな性格なのは、付き合い始めたころから知っていた。今の説明を聞いて、なにが嫌だから見栄を張るのかが腑に落ちた気がした。
「旅行には行かないって親に伝えたのは、出発の二日前。友だちには、旅行のことは散々自慢げに話しちゃってたから、やっぱり行くのはやめたって言いづらくて。だから遊びに誘えなくて、仕方なくみんながいなさそうな場所を一人でぶらぶらしていたら、よりよってあんたと遭遇しました、っていう経緯」
深いため息とともに、カイリは喋るのをやめた。思いを打ち明けたからすっきりした、というふうではまったくなく、どこか疲れたような色を顔全体に滲ませている。カイリが普段晒すことがまずない表情だ。
ナツキは、真樹が今夏の家族旅行に難色を示し、それに反発した一件を思い返していた。
両親の事情も考えずに不服を唱え、駄々をこね、親友にぐちぐちと愚痴っていた自分。それと比べると、「親に頼りきりなのが嫌だから」と明確な理由を掲げて、家族との海外旅行を拒んだカイリは、大人だと思う。
出発を二日前にとりやめたのだから、家族には少なからず迷惑がかかったはずだ。カイリが両親の反応について多くは語らなかったということは、その推測は間違っていないのだろう。
親に迷惑をかけたのだから幼稚な行為だ、と言えるかもしれない。それでも、カイリは大人だ、とナツキは思った。
同時に、自分は子どもだ、とも思う。カイリはナツキを罵倒するとき、「ガキ」とか「幼稚」とかいった言葉をよく口にするが、正鵠を射ていると認めざるを得ない。
精神的な成熟の差を痛感させられた直後だけに、率直に言って言いづらい。それでも、言わなければ、と強く思った。
「カイリ、聞いて。わたしも旅行のことで、家族とちょっと揉めたんだけど――」
ナツキは話し始めた。
「チグサに愚痴ったらね、親にも事情があるんだから、みたいなことを言われて、たしなめられたんだ。そのときは、大人ぶって、みたいな、反発する気持ちのほうが強かったんだけど、よくよく考えたらチグサの言うとおりだよね。他人の事情も考えずに、わがままを言ったわたしが子どもなだけだったよ」
言葉を切り、弱々しく苦笑する。
「これをしたいって思うと、その考えに囚われて、自分の考えをあくまでも押し通そうとしちゃうんだよね。誰になにを言われても頑なに譲歩しなくて、そのせいで上手くいかなくて、時間が経って冷静になったとたんに自分の振る舞いが恥ずかしくなる、みたいなことがよくあるんだ。だからカイリの話を聞いて、自分も大人にならなきゃって思った。……うん、ほんとに」
「なるほど。家族に旅行に連れていってもらえなかったから、木島さんを巻きこんでピラミッドまで行こうとしているわけね」
カイリが口にした「ピラミッド」という単語が引き金となって、ナツキは思い出した。
「話変わるけど、カイリの家の住所を教えてほしいって、この前カイリにお願いしたよね。その件、考え直してくれないかな」
「またその話? しつこいなぁ」
長らく引っこんでいた不快感がカイリの眉間に復活した。
「それは嫌だから。絶対嫌。なんであんたなんかに教えなきゃいけないの? 意味分かんないんだけど」
「海外旅行に行かなかったことを、みんなにばらすって言ったら? カイリが住所を教えてくれるんだったら、絶対に言いふらさないって約束するけど」
「……あたしを脅すつもり?」
敵意を露わにして睨みつけてくる。その反応を事前に予測していたナツキは、余裕をもってその視線を受け止めた。
「旅行に行かなかったことを誰にも知られたくないくせに、外出するほうが悪いんでしょ。家に引きこもっていればよかったのに」
「そんな苦行、耐えられるわけないでしょ。暇すぎるのよ。現地の今の様子とかを根掘り葉掘り訊かれそうだから、下手にメッセージのやりとりもできないし」
「だからって、出歩くのはどうなの。見られたら一発でアウトじゃん」
「だから、わざわざ人通りが少なそうなところ歩いていたんでしょ。自転車を停めたのは駅前の駐輪場だけど」
「ルールはちゃんと守るんだ。意外ときっちりしてるんだね、カイリって」
「は? 不良じゃないし!」
「言ってない、言ってない。興奮しないでよ、もう」
「あんたが兆発したんでしょうが!」
カイリとやりとりしているうちに、あたかも天啓を授けられたように、一つの冴えた考えが頭に降りてきた。ナツキは一も二もなくそれに飛びついた。
「じゃあさ、わたしとチグサがカイリの家に泊まりに行くっていうのはどう?」
「……は?」
「カイリは暇なんでしょ? で、お父さんとお母さんはもうヨーロッパに行っちゃったんだよね。カイリの話だとたしか、夏休みが終わるまで帰ってこない。そして、わたしとチグサはピラミッドがある林まで行きたいけど、行きかたが分からない。だから、同じ町内にあるカイリの家までとりあえず行って、三人で遊んで、一泊する。そして、わたしとチグサは次の日にピラミッドまで行く」
想像もしていなかった提案だったらしく、カイリは口を半分開けて沈黙している。おかげで、とても喋りやすかった。
「カイリは暇をつぶせて、わたしとチグサはピラミッドまでぐっと近づく。お互いにメリットがあると思うけど、どうかな?」
意外にも、カイリは声を荒らげなかった。数秒間はナツキの顔を無表情で見返して、そのあとは難しい顔を俯けて、沈思黙考している。ナツキは自分のペットボトルに口をつけながら、黙って回答を待った。
カイリはおもむろに腰を上げた。まだ三分の一ほど残っているペットボトルを、ゴミ箱へと投げ捨てる。そして、ナツキには目もくれずに、駅がある方角に向かって歩き出した。
「あっ、ちょっと!」
慌てて立ち上がる。残りわずかなペットボトルの中身を飲み干し、ゴミ箱に捨てて追いかける。カイリは徒歩で移動していたので、すぐに追いついた。
「カイリってば、どうしたの急に。トイレに行きたくなったの?」
「違う! その心配のしかた、子ども扱いしてるみたいでむかつくんだけど」
「だって、分かんないんだもん。説明してくれないから」
「駐輪場まで自転車をとりに行っているんだって。帰るから」
「それは別にいいけど、その前に、返事を聞かせて」
「保留」
「えー? なにそれ。煮えきらないなぁ」
「いきなりだから、戸惑うのは当たり前でしょうが。……連絡先、変わってないよね?」
「うん。ずっと同じ」
「じゃあ、そのうちに連絡する。急かしたらその時点でなしにするから、大人しく待ってなさいよ」
「分かった。ありがとう!」
「いや、まだ泊めるとは言ってないし。ていうか、ついてくんな!」
「えー、なんで? 駅前までいっしょに行こうよ」
「嫌だ。どっか行って」
「さっきまであんなに仲よく話してたのに、いきなり冷たくしないでよ」
「仲よくない! これ以上ついてきたら泊まるの許可しないからな! 帰れっ!」
カイリは足を速めた。ナツキは並んで歩くのを諦め、遠ざかる背中を見送った。
暴言を浴びせられて別れるという形だったが、不思議と不愉快ではなかった。
なんとなく、手応えがあった。
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