第15話

 勝手に抱いた期待だとしても、期待は期待だから、肩透かしに終わると落胆は免れない。そこに、チグサの里帰りによる空白が重なった。

 ナツキは燃え尽き症候群にも似た症状に見舞われ、なにもする気力が起きなかった。無為に過ごして時間を浪費しているうちに、あっという間に三日が過ぎ去った。

 最終日になってようやく、今日こそどこかに出かけようと決意した。あまりにも自堕落すぎる気がしたし、体がなまると、チグサといっしょに歩くときにつらくなるだけだと考えたからだ。

 そうはいっても、行き先は特に思い浮かばない。市民プールは一人で行ってもあまり楽しくないし、ショッピングセンターはカイリとの嫌な思い出のせいで、あれ以来敬遠している。

 けっきょく、これという目的地は決めずに、支度を整えて自宅を発った。午前二時前。一日で一番暑い時間帯だ。


 駅から程近い、石畳の街道をぶらぶらと歩く。人出はほどほどといったところで、静かすぎて寂寥感に襲われることも、賑わいすぎて孤独感を覚えることもない。

 店頭に飾られた商品に興味を惹かれ、足を止めて眺めたり、店に入ったりすることももちろんあった。しかしナツキは、それよりもむしろ脇道に着目し、関心を注ぐ時間を長くとった。

 ここを抜けると、どんな場所に出るのだろう。

 ちょっと危なそうな雰囲気だけど、意外とおしゃれな喫茶店なんかがあるかも。

 さっきスーツ姿の男の人が駆けこんでいったけど、目的地への近道だったのかな。

 分岐を発見するたびに足を止め、課せられた役割や、道中の景色や、通じている場所などについて、自由奔放に想像を巡らせる。空想に浸る時間は、決まって通行人の怪訝そうな視線によって破られ、取り繕うように少し早足に先へと進む。そして、次の脇道を発見すると立ち止まり、振り出しに戻る。

 やがて喉の渇きを覚えた。ほどほどに賑わう街を気の赴くままに逍遥して、店で飲み物を飲んで帰る。長い夏休みの退屈な一日の過ごしかたとしては、客観的にも主観的にもそう悪くはない。

 ただ、初めての店に入るのは抵抗がある。友だちといっしょならともかく、今は一人だ。例外はチェーンのファストフード店だが、駅前まで足を延ばさなければなさそうだ。

「……どうしようかな」

 つぶやいた瞬間、カイリのことを思い出した。

 カイリはたしか、海外旅行に行くのは盆から夏休み最終日まで、と話していた。つまり、ショッピングセンターへ行ったとしても、嘲笑と罵倒を投げつけてくる相手と遭遇するおそれはない。

「……なぁんだ」

 悪い意味で肩の力が抜けたが、過ぎ去ったことを悔やんでも仕方がない。

 まあ、いいや。駅前まで行って、適当なお店に入って、飲み物を飲んで帰ろう。暇をつぶせたのだから、時間を無駄づかいしたわけじゃない。

 心の中でつぶやいて気持ちを切り替え、歩き出そうとしたとき、視界の端で黒いものが動いた。反射的にそちらに注目した。

 路地の入口に、小さな黒猫がちょこんと座っている。

 黒猫は値踏みをするようにナツキの顔を見つめる。ナツキも黄色い瞳を見つめ返す。黒猫はおもむろに腰を浮かせたかと思うと、軽やかに体を反転させ、路地の奥の暗がりへと溶けこむように消えた。

「あっ、ちょっと……」

 ナツキは黒猫を追いかけて歩き出した。

 あとを追ってきたことに驚いたのか、黒猫は駆け出した。

 思わず歩を速めたとたん、泥を踏んだような感触を右足の靴底に覚えた。うひゃあ、という情けない声が出た。漂ってきた臭いから判断するに、生ごみを踏みつけたらしい。メインとなる道から逸れたことを早くも後悔したが、後戻りはしたくない。靴底を地面になすりつけ、あとを追う。

 黒猫についていけば、お盆期間にさんざん味わった退屈を、丸ごと許せそうな出来事が待っている。根拠があるわけではないが、なんとなくそんな気がする。

 道は次第に明るくなってきた。黒猫の姿はいつの間にか見えなくなっている。それでもナツキは歩き続けた。

 ほどなく、丁字路に突き当たった。手がかりがないので、黒猫がどちらに行ったのかは定かではない。右に曲がれば、おそらく駅前に出る。追うのを諦めてそちらに行こうかとも思ったが、左の道から赤ん坊の泣き声に似た声が聞こえてきて、それが少し気になる。薄暗くて人気がないから、怖い気もする。

 ナツキは覚悟を決めて左に曲がった。

 道は幅を倍ほどに広げ、真っ直ぐに先へと続いている。曲がってすぐの道路脇にあるのは、民家の裏口らしきドア。その手前、庇によって日陰になったスペースに、少女がしゃがんでいる。彼女の足元にいるのは、腹を横に向けて寝そべった、丸々と太った黒猫。その周囲を数匹の子猫たちがちょこまかと動き回っている。その中には、さっき見た小さな黒猫の姿もある。

 そのことにも驚いたが、それ以上に、少女の存在にナツキは衝撃を受けた。

「カイリ? どうして……」

 カイリは無表情のまま凍りついていたが、やがて胸に抱いていた茶トラの子猫を地面に下ろし、静かに立ち上がった。そして、ゆっくりとした挙動でナツキに背を向け、

 短距離ランナーのように四肢を振って、猛然と駆け出した。

「あっ、ちょっと……!」

 ナツキはすぐさまカイリを追いかけた。

 自分も走ってみて、相手がかなりの速度で走っていることが分かった。全力疾走といっても過言ではない。負けじと加速する。

「なんなんだよ! 追いかけてくんな!」

 カイリは走り続けながら、肩越しにナツキを振り返って叫んだ。

「好きで追いかけてない! ヨーロッパ旅行はどうしたの? なんでこんなところにいるの? マジで謎なんだけど!」

「うるさいっ! ほっとけ! ついてくんな!」

「教えてくれたらやめる! ねえ、なんで? 逃げなくてもいいじゃん!」

「もう、うっさいなぁ!」

「うるさいじゃ分かんないって! カイリ! 待ってってば!」

 二人はやがて喋るのをやめた。全速力で走るのには邪魔でしかないからだ。

 両者の差は徐々に縮まっていく。二人が走る速度はほぼ同じだが、カイリはナツキとは違い、追っ手の現在地をたしかめるべく、頻繁に後ろを振り向く。それがわずかながらも時間のロスになっているからだ。

 数メートルの距離はとうとう数十センチにまで縮まり、そして、

「捕まえたっ!」

 ナツキの右手がカイリの右手をがっちりと掴んだ。

 すでに観念していたらしく、カイリはあっさりと走るのをやめた。懸念していた、苦し紛れの腕力による抵抗もない。

 互いに肩で息をするだけの時間が流れる。二人のちょうど中間の地面に、どちらのものなのか分からない汗の雫が落ち、円形の染みを作った。

 現在地は、カイリと邂逅した地点と似たような雰囲気の路地だ。シャッターが閉ざされた店舗と店舗のあいだに、隙間を防ぐように飲料の自動販売機が設置され、一方の店の前に大きなゴミ箱が置かれている。人通りも車両の通行もなく、セミの鳴き声が遠い。

「カイリの話だと、カイリは今ごろ――」

 沈黙を破ったナツキの声は掠れている。もともと喉の渇きを感じていたところに、全力疾走をしたのだから無理もない。

「話に入る前に、水分補給。ちょうど自販機があるから、飲み物おごって」

「は? なんであたしが」

「渇いたの、カイリのせいだし。それに、わたしは『かけはし』でおごったから」

「無理矢理呼び止めて、勝手におごったんでしょうが」

「じゃあ、平等にジャンケンで決着つけよう。じゃーんけーん――」

 ナツキがチョキ。カイリがパー。

 ナツキは「よしっ」と両手でガッツポーズを作った。カイリは舌打ちをしたが、ただちに自動販売機へ向かった。カイリも喉が渇いていたのだ。

 約束どおりカイリの財布から出した硬貨で、それぞれ飲料を購入する。どちらからともなく、ゴミ箱の傍ら、建物の庇の下に並んでしゃがむ。さっそくキャップを回し開けて一口飲んで、ナツキは誤算に気がついた。

「あー、失敗した! わたし、炭酸一気飲みできない! がぶ飲みして水分補給したいのに!」

「ばっかじゃないの」

 カイリは鼻で笑って、レモン味のジュースに悠然と口をつける。ナツキはため息を押し殺し、自分の分を一口一口飲む。

「こうやって自販機の近くに座っていると、なんか不良みたいだね」

「そういうことを言っている時点で不良じゃないでしょ」

「不良さんたちって、なんで光があるところが好きなんだろうね。自販機もそうだけど、コンビニの前とか」

「知らない。気になるなら訊いてくれば」

「だから、こうして訊いてるんじゃん」

「あたしは不良じゃないから。健全なジョシチューガクセーってやつ」

「うっそだ。見えないところで悪いことしてるのに」

「たとえば?」

「見えないところなんだから、わたしに分かるはずないよ」

「は? なにそれ。バカか」

「バカって言うほうがバカです」

「あんたも言ってんじゃん」

「カイリが先に言ったんでしょ」

 ああだこうだ言い合っているあいだに、互いのペットボトルの中身は着実に減っていく。二人とも、いつの間にか汗はひいている。ナツキはペットボトルを地面に置いた。

「カイリに訊きたいんだけど」

「……なに?」

「まず、猫のことから訊いていい? あの猫たちって――」

「通りすがりに見かけて、かわいいなって思ったから撫でてただけで、こっそり飼っているとかじゃないから。あそこ、誰かさんの家の裏口でしょ。その家の人が飼っている猫なんでしょ、たぶん」

「じゃあ、猫が原因じゃないんだね、ヨーロッパ旅行に行かなかったのは。でも、あんなに楽しみにしていたのに、どうして? 理由、教えてよ」

 カイリは思いきり眉をひそめてナツキを睨む。ナツキは唇を固く結んで睨み返す。真実を話してくれるまで、一歩も引かない。そんなメッセージを瞳に宿して。

 不意にカイリが目を逸らした。指先で顎の汗を拭い、再びナツキに強い眼差しを送りつける。瞳の底に湛えられている光は、逸らす前よりも力強く、攻撃的で、思わず全身の筋肉が硬くなる。しかし顔は背けずに、相手が喋り出すのをなおも待った。

 突然、カイリは大きく息を吐いた。そうかと思うと、うなだれて膝に顔を埋めた。その姿勢のまま動かない。これまでに見たことがないような挙動に、ナツキは戸惑ってしまう。

 一声かけずにはいられないくらい間が空いて、おもむろに顔が持ち上がった。睨んできたのはうなだれる前と同じだが、目つきがどこか自信なさげだ。眉根を寄せ、唇を歪めてみせているものの、本気で怒ったときの迫力が欠けている。無理をしている副作用が表われているとでもいうように、瞬きの回数が多い。まったくもってカイリらしくない。

「まず、誤解しているみたいだから言っておくと」

 眉間のしわはそのままに、カイリは話し始めた。

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