第12話
チグサ一家は盆の三日間、父親の実家に里帰りする。そのあいだは参加できなくなるということで、小休止前最後のピラミッド行きだ。
「そういえば、チグサに『かけはし』であんみつをおごるっていう約束だったね」
建物と建物の狭い隙間を抜けたとたん、ナツキは急にそのことを思い出した。
「あんみつって指定したわけじゃないけど」
すかさずチグサらしい、鋭いといえば鋭い、細かいといえば細かいツッコミが入る。
「チグサ、忘れていたわけじゃなかったんだ」
「うん。だって、約束してから一週間も経ってないし」
「わたし、すっかり忘れてた。おごるのが嫌で抑圧していた的な? 覚えていたんだったら、言ってくれればよかったのに」
「ナツキは約束はちゃんと守るから、急き立てるような真似をする必要はないかな、と思って」
「あっ、信頼してくれているってこと? なんか嬉しいなー」
「別に、普通だと思うけど」
「それじゃあ、久しぶりに『かけはし』に寄ろう。決定ね」
「時間をとられるから、今日もピラミッドには辿り着けず、ということになるね。ナツキはそれでいいの?」
「だって、眉子さんと久しぶりにお話したいし。チグサだってそうでしょ?」
「うん。じゃあ、今日はそうしようか」
空き地を抜けて『かけはし』に辿り着いた。ナツキの手がドアを押し開ける。
「いらっしゃいませ」
涼やかなベルの音に続いて、眉子の声が聞こえてきた。店の奥から現れた彼女の顔には、前回とそっくりな柔和なほほ笑みが浮かんでいる。
「二人とも久しぶりね。たしか、七月下旬にも一度ご来店いただいて」
「あ、覚えてくれていたんですか? 嬉しい!」
「どなたの顔でもはっきりと覚えていますよ。なにを注文されたのかまでは、ちょっと思い出せないですけど」
正直な告白を付け足したところに、裏表のない人柄が窺え、ナツキは眉子にますます好感を持った。
「リュックとポーチ、前は持っていなかったよね。今日は遠くへお出かけ?」
「はい。行き先は前と同じなんですけど、装備を万全にしました」
「あら、そうだったの。大きな荷物を持って歩いたから、暑かったでしょう。すぐに冷たいお茶を出しますから、お席に――あっ」
「どうしたんですか」
「お二人はユウジのクラスメイトだったよね。ユウジは今家にいるから、よかったら呼んできましょうか?」
「えっ、と……」
ナツキはチグサを見た。チグサの意向を確認するためだったのだが、チグサはナツキには見向きもせずに眉子に目を合わせ、
「後藤くんに迷惑がかかると思うので、無理にはいいです」
「えーっ!? チグサってば、冷たい! いっしょに食べるくらい、別によくない? クラスメイトなんだよ?」
「だって、あまり話したことないし」
二人のやりとりをどう解釈したのか、眉子は無言でテーブルから離れた。ナツキは眉子を呼び止めるのではなく、チグサとの対話を継続する。
「でもさ、男子といっしょって、いいなって感じがしない?」
「『いい』って、どういう意味の『いい』なの? 一口に『いい』って言ってもいろいろな『いい』があるけど」
「え……。それは、楽しいとか、嬉しいとか、そういう意味だよ。ていうかチグサ、そんなに後藤くんが嫌なの? そんなにも拒む理由って、なくない?」
「拒んではいないよ。ただ、親しくないから、無理に同席しても気疲れするだけだと思って。後藤くんだって同じだろうし」
「わたし、チグサが後藤くんを遠ざけようとしているように感じるんだけど。なにか因縁でもあるの? 席が前と後ろの関係だけあって、わたしの知らないところで秘密のやりとりをしてたりして」
「そんなこと、あるわけないでしょ」
「だったら素直に――」
「あの」
出し抜けの声が二人の口を噤ませる。振り向くと、いつの間にかテーブルの脇に後藤くんが佇んでいた。ナツキと目が合うと、顔を背けて頬をかいた。
「後藤くん! いきなりいたから、びっくりした」
「うん。母さんがなんか、木島と相内が来てほしいと言っている、みたいなことを言うから来たんだけど」
「お茶、どうぞ」
眉子が盆を手にテーブルまで戻ってきた。冷たい緑茶が入ったグラスを手際よく配る。その数、三個。
「注文、決まったら呼んでくださいね」
ナツキとチグサに柔らかくほほ笑みかけ、息子の肩をぽんと叩き、眉子は去っていく。姿が消えるのを見届けてから、ナツキは後藤くんに向かって言う。
「じゃあ、とりあえず座って。どっちの隣でも、好きなほうに」
後藤くんはナツキとチグサの顔を交互に見る。もう一往復してからチグサへと視線を定め、小さく頭を下げて隣に腰を下ろした。
「あー、そっちを選んだか」
「えっ、ダメだった?」
「ダメじゃないけど、二択で選ばれなかったから、うわーと思って」
後藤くんはなにか言いかけてやめ、少し眉をひそめてグラスに唇をつけた。それを見て、チグサも思い出したように緑茶を一口二口と飲む。
ナツキは後藤くんに対して、常に淡々と振る舞い、何事にも動じない、というイメージをなんとなく持っていた。
しかし、実際に何度か話をしてみると、感情の揺らぎや変化は普通に観測できるし、表情も状況に応じて当たり前に変わる。気怠そうな雰囲気も、話をしているあいだは薄らいで、まったく邪魔にならない。いい意味で普通の男の子、という印象しかない。
「お茶が三人ぶんってことは、後藤くんも食べるってことだよね」
「そうだよ。だから二人のところまで来たっていうのも、正直あるかな」
「お母さん、作ってくれるんだ」
「うん。母さんじゃなくてじいちゃんだけど。母さんは、じいちゃんを軽く手伝うくらいだから」
「あっ、そうだったね。お店の味をいつも味わえるなんて、羨ましいなー」
チグサの顔を窺う。少し表情が硬いように見えるのは、隣に後藤くんがいるからだろう。
学校では席が前と後ろなんだから、緊張しなくてもいいのに。そう思わないでもないが、チグサの性格を考えれば仕方ないのかな、とも思う。
初対面の人間に対しては壁を作るが、ある程度打ち解ければ普通に話せる。打ち解けるためには、時間の経過に頼るか、ナツキが手助けをするか、そのどちらかだ。
「今日食べるスイーツ、後藤くんの意見を参考にして決めようかな。おすすめとか、ある?」
「おすすめ、か。二人はこの前なにを食べたの」
「わたしはね、えーっと……」
「忘れたの? 冷やし白玉ぜんざいだよ。おなかがいっぱいになりそうだからって言って」
ナツキに替わってチグサが回答した。それを受けて後藤くんが、「木島はなにを食べたの?」と訊く。チグサがそれに答えたことで、二人の会話から三人の会話へとスムーズに移行した。
『かけはし』で提供される料理にまつわる、後藤くんのちょっとした裏話なども交えながら、注文する一品を絞りこんでいく。
「仲よしね、三人とも。若さが横溢してるね。うん、横溢してる」
ちょうど三人とも食べたいものが決まったところで、タイミングよく眉子がやって来た。注文を速やかに済ませて会話に戻る。
「後藤くんって、将来的に『かけはし』を継ぐ予定なの? 修行とか、今からやってるの?」
「手伝いならたまにやっているけど、本格的なものは特には。手伝いにしても、将来を見据えてとかでは全然ないし」
「そうだよね。まだ中学生だから、そういう段階じゃないよね」
「まあね。じいちゃん、現役バリバリだから」
「その前にお父さんもいるし」
「いや……。まあ、うん。とにかく、俺にとってはまだまだ先のことだから」
後藤くんの返答は歯切れが悪い。『かけはし』における後藤くんの立場について、興味があったから訊いてみたのだったが、どうやら積極的には触れられたくない話題だったらしい。いっときの盛り上がりが嘘のように、テーブルは静かになった。
ナツキは不意に、カイリの発言を思い出した。『かけはし』の前を通りがかったさいに、ナツキとチグサがいっしょに食事をしているのを目撃した、という趣旨の発言を。
さり気なく、通りに面した窓越しに外を見る。店外から店内を覗き見ている者は、いない。
カイリが『かけはし』の前を通りがかったのはたまたまなのだから、偶然が続くはずがない。そう頭では理解しているつもりでも、一度気になると心から離れない。気持ちが落ち着かず、くり返し、くり返し、窓ガラス越しに外の様子を窺ってしまう。店内からは死角になった場所にカイリが身を隠して、ナツキの隙を衝いては中を覗いているような、そんな気がしてならない。
チグサは明日から実家に帰省するから、三日間会えなくなる。それに、後藤くんとも仲よくなれそうだ。それなのに、こんな時間の使いかた、もったいなさすぎる。
そう自らに言い聞かせ、これで最後にするつもりで窓を見た。
瞬間、ナツキの瞳は限界まで見開かれた。
視線から逃げるように、視界から黄色い自転車がフレームアウトした。
両手でテーブルの天板を押すようにしてナツキは立ち上がる。
チグサと後藤くんが何事かと振り向いた。視線を振りきるように、脇目も振らずに店の出口へと駆ける。チグサが制止の声を発したが、聞こえないふりをしてドアを開け放つ。
自転車のブレーキ音が甲高く響いた。ナツキは音源に向き直った。
七・八メートル先の歩道で、レモンイエローの自転車に跨った少女――笹沢カイリが、驚いた顔をナツキに向けている。
少女向けのファッション雑誌の一ページに掲載されていそうな、華やかで洗練された服にカイリは身を包んでいる。どこかへ遊びに行っている最中、もしくはその帰りだろうか。
カイリは小学生のころからスタイルがよく、ファッションセンスは周りの人間よりも頭一つ抜けている。加えて、学年でも十指に入る美貌の持ち主なので、男子たちからは羨望の念を、女子たちからは憧憬と尊敬の念を、それぞれ集めている。
男女を問わず高い人気を誇るカイリが、グループのメンバーからリーダーとして祭り上げられ、リーダーの自覚をもって振る舞うようになったのは、必然の流れだった。本来平等であるべきグループ内に階級が発生したことで、なにかが歪み始めた。
小学校に籍を置いているあいだは、綻びを見せることはなかった。しかし、中学校に進学し、ナツキとカイリ以外のメンバーが別のクラスになったのに伴い、グループが実質的に解体されたことで、全てが変わり始めた。
カイリは持ち前の魅力と社交性をいかんなく発揮し、出身小学校が違う女子たちとあっという間に親密な関係になった。サキ、トウコ、コトハ、アイカ、以上の四人と。
カイリが四人と過ごす時間を増やすに伴って、ナツキとカイリは疎遠になっていった。
そしてある日、カイリたちのグループの話題が自身の小学生時代に及んだとき、カイリはかつて所属していたグループのメンバーを名指しして――。
「びっくりした。いきなり出てきたから」
カイリは自転車から降り、つっけんどんに言う。少々居心地が悪そうだ。
「あたしになにか用?」
そう問われて初めて、カイリを追いかけて店を飛び出したのは、衝動に突き動かされた結果だと気がつく。呼び止めてどうしようだとか、なにを話そうだとか、そういった考えは頭の中にまったくなかった。
わたしは、なにがしたいのだろう。
カイリに、なにを望んでいるのだろう。
「もう行っていい? さっさと帰りたいんだけど」
「カイリさ、わたしがおごるから、『かけはし』でスイーツ食べていかない?」
「はあ?」という上擦った声。ナツキは努めて穏やかな表情でその反応を受け止める。
「今ね、チグサと、同じクラスの後藤くんと、三人でいっしょに店にいるの。さっき注文を済ませたところなんだ。四人でいっしょに食べようよ」
「は? なんで?」
「なんとなく、そうしたいと思ったからだよ。とにかく、お店に入ろう」
「結構です」
無感情にぴしゃりと言って、サドルに跨って顔の向きを正面に戻す。ナツキはダッシュして一気に距離を詰め、走り出す寸前で腕を掴んだ。
「ちょっと、痛いんだけど。なんなの?」
「おごってあげるって言ってるじゃん。いっしょに食べていってよ」
「やだ。おなか減ってないし、甘いもの食べると太るし。……あんたら三人の誰とも仲よくないし」
「カイリはスタイルいいから、ちょっとくらい大丈夫だって。それに――」
これだけは強く主張しておかなければなるまい。
「チグサも後藤くんも、誰かさんと違ってすごくいい子だから、いっしょにいても苦痛じゃない。わたしが言うんだから間違いないよ」
「あんた、後藤と親しかったっけ。ていうか、誰かさんって誰? 嫌味?」
「親しくなくても、どんな人なのかはだいたい分かるでしょ。誰かさんっていうのはわたしのことで、カイリのことじゃないから気にしないで」
「絶・対・嘘。そういう幼稚でくだらない嫌がらせをするようなやつと、なにが嬉しくて仲よく食事しなきゃいけないわけ? 一人では敵わないからって、三人がかりであたしを責めるつもりなんでしょ。これだからあんたの相手をするのは……」
「なにぶつぶつ言っているの? チグサも後藤くんも、そんな人じゃないって言ったばかりじゃん。すぐにそういうことを言うカイリのほうが、よっぽどガキでバカじゃない」
「バカ? あんたにだけは言われたくないっつーの! 土下座して謝れよ、このクソ女」
「なんでそんなに話を大きくするわけ? 意味分かんないんだけど」
「あんたがバカって言うからでしょうが。バカはあんたのくせに。あんたと話しているとこっちまでバカになりそうだから、嫌なのよ。帰るから、離せ!」
手を振り払おうとするカイリと、そうはさせまいとするナツキとのあいだで、揉み合いが勃発した。
カイリは体が大きいぶん、力も強いが、サドルに跨っているので動きが制限されている。攻防は一進一退の様相を呈し、膠着状態に陥った。
「――二人とも!」
その声は、争う二人の間近から聞こえた。
振り向くと、いつの間にかチグサが二人の傍まで来ている。
「ナツキ、無理矢理はダメだよ。――笹沢さん」
猛り狂った猛獣も爪牙を引っこめそうな、聖職者じみたほほ笑みをカイリに向ける。
「私たちが笹沢さんを誘ったのは、笹沢さんに不愉快な思いをさせたかったからじゃないよ。むしろ、仲よくなりたい。だから、誘いを受け入れてくれると嬉しいかな。もちろん、無理にとは言わないけど」
「あっ、そう。仲よくなりたい、ね。……ふーん」
カイリは仏頂面で髪の毛をしきりに撫でる。
「そうはいっても、食べたくないものは食べたくないし――」
不意に言葉が途切れた。カイリの視線は一点に注がれている。それを辿った先にあるのは、『かけはし』のガラス窓。窓辺に眉子が佇み、笑顔で三人を手招きしている。
「一対三じゃしょうがないな」
ナツキの束縛を払い除け、サドルから下りる。聞こえよがしに大きくため息をつき、チグサと目を合わせる。
「分かった。ナツキに誘われたならともかく、木島さんの頼みだからね。そこまで言うなら、いいよ。おごられてあげる」
チグサは胸に手を当てて息を吐いた。
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