第11話
ひっきりなしに汗が滴る蒸し暑い帰り道、真樹からのメッセージがナツキのスマホに届いた。
『今、チグサちゃんといっしょ? 今日の昼ごはんをうちで食べないか、訊いてみて。私がぜひご馳走したいと言っているって、ちゃんと伝えるように! ただし、無理強いはしないようにね』
ナツキは怪訝に思った。料理を他者に振る舞う趣味を持たない、むしろ手間がかかると言って嫌がる真樹が、自分からチグサを食事に誘う? なにか裏があるとしか思えない。
「ナツキ、どうしたの?」
「うちのお母さんが、チグサもうちでお昼ごはんを食べないか、だって」
答えた瞬間、チグサの表情は淡い緊張を帯びた。
「どう? 来れそう? 無理して来なくていい、とは書いてあるけど」
「予定なら大丈夫だよ。お昼、ご馳走になるね」
若干硬さが見受けられるものの、チグサはほほ笑んで承諾した。
「一応、うちのお母さんに連絡入れておくね」
チグサは母親にメッセージを送信する。返信はすぐに届いた。ディスプレイを覗き見ると、「了解しました」という事務的なものだった。
苦笑いをしてもいい場面のはずなのに、チグサは人形のように無表情だった。
「チグサちゃん、こんにちは」
真樹は満面の笑みで娘の親友を出迎えた。デフォルメされた猫のキャラクターが描かれたエプロンを着用している。
かわいい系の服や小物を身に着けた真樹は、若いというよりも子どもっぽく見える。ナツキはそのことをよくからかうのだが、今はそんな気分にはなれない。
「おばさん、こんにちは」
「まだ副菜ができていないの。ナツキといっしょにリビングでテレビでも観ながら、少しだけ待ってて。すぐにできるから」
ナツキに続いてチグサも上がる。相内家には何度も訪問しているし、三人で食事をしたことも数回ある。しかし今日のチグサは、いつもとはどこか様子が違う。
言われたとおり、ソファに並んで座り、テレビをつける。二人のあいだに会話はない。番組がどのチャンネルもつまらないのも一因だが、横顔を見る限り、チグサは明らかに緊張している。思えば、下校中に真樹から届いたメッセージの内容をナツキが伝えた瞬間から、ずっとこんな調子だ。
喋らないのは真樹も同じだ。黙々と調理に励んでいるのは、少しでも早く完成させるために、目の前の作業に集中しているから。そう解釈するのが正解なのだろうが、どこまでも続いていきそうな無声の空間に身を置いていると、なんらかの思惑があってあえて沈黙している気もしてくる。
和気あいあいと談笑しながら楽しく食事をして、解散。言うまでもなくそれがベストだが、何事もないまま終わるとは思えない。
宣言どおり、副菜の準備は五分も経たずに整った。あんかけ焼きそば、ゆで卵入りのサラダ、ほうれん草が入ったミルクスープ。暑くなって以来、麺料理といえばそうめんオンリーだったから、焼きそばを食べるのは久しぶりだ。
他愛もない会話を交わしながらの食事となる。どの料理の味もチグサの口に合うようで、真樹は満足そうな笑みを見せている。会話の話題は、現在放送されているテレビ番組に及ぶこともあったが、真樹が学校関係の質問をチグサに投げかけることが多かった。
内容によってはまごつくこともあったが、チグサはチグサらしく、一つ一つ誠実に返答した。二人の質疑応答にナツキも回答者として参加したり、余談を披露したりすることで、話は広がりを見せた。
食べ、喋り、笑っているうちに、料理を待っているあいだの緊張状態をナツキは忘れた。しかし、愉快な時間は長続きしない。
「チグサちゃん」
大皿が空になったというタイミングで、真樹は娘の親友に視線を固定した。なんらかの意志を宿していることが読みとれる、引きしまった顔つきだ。声の感じも、気安い世間話をしていたときとは明らかに違う。箸を動かす手は全員、完全に止まった。
「最近ずっとナツキと出かけているみたいだけど、無理してない?」
ああ、そうか、とナツキは思う。
真樹は最初から、この問題について話すつもりだったのだ。処分を下してそれで解決、ではなくて、真樹の中ではまだ続いていたのだ。
三人は申し合わせたように、手にしている食器や箸をテーブルに置いた。真樹は小さく咳払いし、話し始めた。
「夏場だから、午後四時くらいだとまだまだ暑いでしょう。チグサちゃんも知っていると思うけど、今年は記録に残るような猛暑らしくて、まだ八月になったばかりだけど、たくさんの人が病院に搬送されたり、亡くなったりしているの。チグサちゃんも一度、体調が悪くなったことがあったよね。ほら、私とスーパーで会った日に」
「はい」
硬い表情のまま、チグサは指摘を肯定した。
「だから、チグサちゃんのことがとても心配なの。ナツキは元気が取り柄だけど、チグサちゃんはそうじゃないから。長い付き合いだから、そのことはナツキもよく分かっていると思う。だけど、子どもは周りが見えなくなるものだからね。大げさかもしれないけど、うちの子がよその子に取り返しがつかないことをしたらどうしようって思うことも、時々はあるし」
ナツキは頬が熱を帯びたのを感じた。怒りのせいなのか、悲しみのせいなのか、羞恥のせいなのか。
「三日間いっしょに遊ばせないように決めたのも、そんな思いがあったからこそ。中一ってまだまだ子どもだけど、子ども扱いしてはいけない微妙な年ごろから、どこまで干渉するべきかの線引きが難しくて、保護者の立場からすればすごく不安なの。親の目の届かないところでなにをしているんだろうって、気になる気持ちも正直あって」
真樹は少し身を乗り出し、チグサの顔を食い入るように見つめる。
「チグサちゃん、無理してない? ナツキに引きずられて、嫌なことを我慢してない? ナツキに関して、ちょっとでも負担に感じていることがあれば、言いにくいかもしれないけど、この場で言って。そのほうが絶対にあなたのためになるし、ひいてはナツキのためにもなるから」
ナツキは思わず小さく身震いをしてしまった。
今言ったようなことを言えば、ナツキが真樹に反感を抱き、反発するのは分かっていたはずだ。口にしたように、チグサが本音を打ち明けづらい場面だと認識してもいる。
真樹は、それらのことを理解しながら、三人が揃った場であえて「嫌なことがあるなら言え」とチグサに迫ったのだ。
親だの保護者だのという言葉を聞いたとき、ナツキは白けた気持ちになった。わたしたちのことを誰よりも考えているような言いかたをして、その実、面倒ごとを避けたいから、その芽を事前に摘もうとしているだけなんでしょう、と。
でも、それは間違いだった。
お母さんは、わたしのことを想ってくれている。
それに負けないくらいに、チグサのことを想っている。
だからこそ、娘に悪感情を抱かれるのを承知で、チグサにそう要求したのだ。
リビング、ダイニング、キッチン。三つがひと続きになった空間には、テレビの音声とエアコンの作動音のみが聞こえている。前者は場違いに軽佻浮薄だが、誰もリモコンに手を伸ばそうとはしない。
不意に真樹がチグサから上体を遠ざけ、頬を緩めた。表情が緩んだのに伴って、場の空気も緩んだことが、滞っていた時間が円滑に流れ出すきっかけとなった。
「私、無理も我慢もしていません。それどころか、申しわけないと思うくらいナツキにはよくしてもらっています」
喋り出した瞬間から、チグサの顔に表れている悪い意味での緊張は、注視しなければ読みとれないくらいに薄れている。
「たとえば、汗をかいているのを見つけたら、ハンカチで拭いてくれるんです。そんなことくらい一人でできるし、子どもみたいで恥ずかしいのに、わざわざそうしてくれて。あとは、水分補給をするようにこまめに声をかけてくれたりとか、とにかく気配りをしてくれます。普段のナツキはそそっかしいところもあるんですけど、私といっしょのときは私のことを最優先に考えて行動してくれて、頼もしいなって心から思います」
はにかみ笑いがこぼれる。過去を思い返したからというよりも、言及したような行為を今まさにナツキから受けているかのように。
ナツキは胸が痛かった。真樹が納得する説明をするという当座の目的のために、ナツキの功績を多少なりとも大げさに伝えているのは明らかだからだ。
救いだったのは、チグサがこぼした笑みが、混じり気のないものだったことだろう。
報告した事実は、本人の独断で脚色を施したものかもしれない。しかし、打ち明けた気持ち自体は嘘ではないのだ。気配りをしてくれるのが嬉しいという気持ち、それ自体は。
「自宅まで車で送ってくれたこととか、うちのお母さんと電話で話し合ったこととか。おばさんが私のことを心配してくれているのは分かるし、とてもありがたいんですけど、でも、私は大丈夫です。ナツキには本当によくしてもらって、不愉快に思うことはまったくないので」
「……本当にそうなの? チグサちゃんは友だち思いだから、ナツキを庇っているんじゃないの? ナツキを悪く言っても、友だちを裏切ることにはならないし、私も怒らない。だから、思っていることを正直に言ってほしいんだけど」
図星をついている、とナツキは思った。しかし、言葉を受け止めたチグサの表情からは、どこか余裕が感じられる。それは返答に関しても同じだ。
「嘘はついていません。ナツキに関して、私は絶対に嘘はつかないし、つきたくありません。……それに」
親友を一瞥し、真樹に視線を戻して語を継ぐ。
「言いたいことがあるなら、はっきりとナツキに言います。私、ナツキになら本音を包み隠さずに言えます。だから、大丈夫です」
静かながらも力強く断言した一言を最後に、沈黙が降りた。
「……そっか。なるほどね」
考えを巡らせていたらしい真樹の表情が、不意に大幅に和らいだ。くり返し頷きながら、チグサの顔を見つめる。その眼差しは柔らかく、チグサではないなにかを直視しているようでもある。
「どうやら私のお節介だったみたいね。ごめんね、チグサちゃん。せっかく来てもらったのに、変な話につき合わせちゃって」
「いいえ、とんでもないです。こういう機会はあまりないので、お話ができてよかったなって思います」
チグサはほほ笑んだ。嘘も隠しごともない、ありのままの笑顔。場に漂っていた緊張感が急速に薄れていく。
「それじゃあ、食事に戻りましょうか。長々と話をしたせいで冷めちゃって、申しわけないけど」
「平気です。おばさんの料理、美味しいから、冷めても全然関係ないです」
たしかに、しっかり味で具だくさんの焼きそばは、出来たてではなくても充分に美味しい。それに、温かかいうちに食べたいミルクスープの器は、三人ともすでに空だ。
ささいな偶然かもしれないが、ナツキの顔は大きく綻んだ。
「どこへ行っているのかは知らないけど、体調にだけは気をつけてね」
二人が自宅を出るさいに、真樹はそんな言葉をかけた。
口振りからは、二人が炎天下を歩き回ることを全面的に肯定したわけではないことが窺えた。言いつけを守らないようであれば、再び厳しい処分が言い渡されるだろう。
それでも、真樹から了解を得られたのは、二人にとって大きな収穫だった。
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