第10話
八月に入ってすぐの登校日。
十日ぶりに教室に足を踏み入れる。ただそれだけなのに、ナツキは緊張してしまった。
よくいえば賑やかな、悪くいえば浮ついた雰囲気が教室を満たしている。まるで友人との待ち合わせ場所が自分たちの教室で、学業とは無関係に登校したかのようだ。
教室中央の席に視線を投げかけたが、カイリの姿はない。
ナツキは内心首を傾げた。ホームルームが始まるかなり前から登校し、自席で踏ん反り返って、友人たちをはべらせてお喋りに耽る。それが笹沢カイリなのに。
チグサは登校していた。教室に来たばかりらしく、たった今、スクールバッグを机の横にかけた。
その後ろ、後藤くんも席に着いている。チグサの後ろ姿をじっと見ていたが、チグサが着席したのを見届けると、机に突っ伏して寝る態勢に入った。
挨拶をしてくるクラスメイトに挨拶を返しながら、ナツキは自分の席まで行き、スクールバッグを机の上に置いた。すぐさまチグサのもとへ向かう。
カイリの左隣のサキの席で、いつもの四人が固まって談笑に耽っている。擦れ違うさい、全員が喋るのをやめてナツキに注目した。一挙手一投足に目を光らせているが、それでいて、決して顔を直視しようとしない。なんとも言えない嫌な感じがしたが、顔にも態度にも出さずに通りすぎる。
「チグサ、おはよ」
肩を強めに叩き、チグサのほうを向く形で机の上に座る。眉をひそめた顔がすかさず見上げてくる。
「ちょっと、下品。パンツ見えそうだよ」
「見えそうだけど、見えないの」
後藤くんがおもむろに顔を上げ、ナツキを見た。目が合ったので、ナツキはにこやかに手を振る。その表情と行動を訝しく思ったらしく、チグサが肩越しに振り向く。後藤くんはチグサの視線から逃げるように眠る態勢に戻った。
「ナツキ、どうしたの」
「うん。さっき気づいたんだけどね」
ぐっと上体を倒して親友に顔を近づける。少し声を低め、
「カイリ、来てないね」
チグサはカイリの席を一瞥し、ああ、と呟いた。
「ちょっと変じゃない? わたしと同じで、頑丈さだけが取り柄なのに。なんでかな?」
「さあ。体調が悪いんじゃない。登校日って、別に無理してまで来る必要は、って感じだし」
「そうかな。どうせズル休みじゃないの」
その一言に、チグサの表情は思いがけず険しくなる。
「人のいないところで悪口、やめたほうがいいよ。面と向かってももちろんダメだけど」
「え……」
「笹沢さんのことがそんなに気になるなら、笹沢さんの友だちに訊いてみれば」
そっけなく言い捨てて、ナツキから顔を背けた。
軽い気持ちで口にした言葉に、思いがけず不快感を示されたことで、ナツキは白けてしまった。ただ、相手の言い分が正しいと感じたのも事実。
「……分かったよ。訊けばいいんでしょ、訊けば」
机から下り、チグサの席を離れる。
その時点では、四人に訊いてみようという気持ちはあった。しかし、いざ彼女たちに物理的に近づくと、決して弱くない抵抗感を覚えた。
その感覚が引き金となり、ショッピングセンターでの一件を思い出す。
四人はカイリのように、ナツキの悪口を言うことこそなかったが、カイリがナツキを嘲るたびに笑っていた。明らかに、ナツキを見下した笑いかただった。
カイリからの無言の圧力に屈して同調した、という側面もあるのだろう。しかし、四人は誰一人として、罪悪感に苛まれているらしい表情は見せなかった。つまり、本心からナツキを嘲笑った。
なにが嬉しくて、自分を嘲笑った相手と話をしなければいけないのだろう。
四人の脇を通りすぎる。そのさい、四人の姿は視界に入れないようにした。行きと同じく、挙動を監視されているのをひしひしと感じた。
自分の席に座ると、自ずとため息がこぼれた。やると言ったのにやらなかったことについて、チグサがどう思ったのかは、考えたくもない。やりきれない思いで頬杖をつき、まっさらな黒板を見つめるともなく見つめる。
「相内さん」
いきなり声をかけられたかと思うと、視界から黒板が消えた。先ほど話しかけようとして断念した四人が、壁を作るようにナツキの目の前に集結したのだ。
「なに? なにか用?」
問い質す声は少し上擦った。なにか穏やかではない事態が起きるのでは、という予感がしたのだ。頬についていた手を外し、緊張しながら直視した四人の顔には、フレンドリーな表情が浮かんでいる。予想とは正反対の結果に、ナツキは戸惑ってしまう。
「用っていうほどでもないんだけど。相内さん、結構日焼けしてるなー、って思って」
四人を代表して、といった感じでサキが言う。
「日焼け? そんなに目立つかな」
「うん。他の子と比べるとかなり焼けてるよ」
今度の発言者はアイカだ。
「七月は外でばかり遊んだから、たぶんその影響かも」
「遊ぶって、木島さんと?」
トウコが口を開いたかと思うと、チグサの名前を出した。
カイリがナツキとチグサの関係を冷やかした一件が思い出される。現在の話し相手は、カイリに従属的な立場の女子たちだ。わざわざ机まで来て、チグサの名前まで出して、四人は会話をどう展開させるつもりなのだろう? 不安はあったが、口元を引きしめて首肯する。
「あ、やっぱり。どこへ行っていたの?」
「んー……。まあ、いろいろと」
「でも、木島さんは全然日焼けしてないよね」
そう指摘したのは、コトハだ。
「お節介かもしれないけど、日焼け対策、相内さんもちゃんとしたほうがいいよ」
「うん、ありがとう。……用って、それだけ?」
「そうだよ。ちょっと気になったから、ね?」
四人は一斉に顔を見合わせた。表情は全員、いっそう柔らかさを増していて、ナツキを見下しているようには見えない。
もしかすると、とナツキは思う。この子たちは、ショッピングセンターでのわたしに対する振る舞いを、悔やむ気持ちを抱えていたのかもしれない。わざわざ話しかけてきたのは、気軽な会話を交わすことで、その感情を少しでも払拭したかったから。
ショッピングセンターでカイリがナツキを嘲笑っているあいだ、四人は一瞬たりとも罪悪感を顔には出さなかった。今まではそう考えてきたが、当時のナツキは、カイリのせいで頭に血が昇っていた。四人の表情のささいな変化を把握できるほど、心は冷静ではなかったはずだ。
「じゃあね」
一同はナツキの机から離れ、元の場所で元のように談笑を始めた。
四人の様子をさり気なく観察したが、ナツキやチグサの陰口は言っていない。普段彼女たちが交わしているような、よくも悪くもくだらない話に現を抜かしているだけだ。
四人は表向きこそカイリに同調しているが、カイリほどナツキに悪感情を抱いているわけではない。というよりも、限りなくゼロに近いのではないか。
ナツキだって同じだ。カイリのことは憎く思っているが、カイリの友人たちに対してはなんの恨みもない。四人はカイリと行動をともにすることが多いから、カイリと価値観を共有していると勝手に思いこみ、漠然と敵視していただけで。
カイリが休んだ理由、訊いておけばよかったかな。
現れたのが急なら、離れていったのも急だったせいで、機会を逸したことが悔やまれた。
「ねえ、チグサ。カイリの友だちに訊いてみてよ。カイリが休んだ理由」
体育館で催された全校集会の帰り道。校舎に入ってすぐの廊下で、ナツキは前を歩いていたチグサの腕を捕らえるなり、耳打ちをした。
「私は別に、他人が休む理由なんてどうでも……」
「わたしは気になるの!」
「耳の近くで大声出さないでよ」
チグサは心底迷惑そうな顔をした。
「気になるんだったら、自分で訊けばいいのに」
「だって訊きづらいんだもん。チグサ、お願い!」
「だから大声は……。ていうか私、笹沢さんとも、その友だちとも全然親しくないよ。私が訊いたら不自然だと思うけど」
「いいから、訊いてよ。お礼に『かけはし』で好きなものをおごるから」
告げた瞬間、チグサの瞳が煌めいた。言うんじゃなかった、とナツキは後悔した。『かけはし』の和スイーツの味は申し分なく、量も満足がいく代わりに、それなりの値段がする。屋外を歩く機会が多い影響で、かさんでいる飲料代のことを考えると、正直痛い。
「食べ物に釣られたみたいで情けないけど、いいよ。訊いてきてあげる」
密着するナツキをやんわりとどかし、前方を歩く四人に接近する。
ナツキは不意に視線を感じた。振り向くと、斜め後ろに後藤くんがいた。自分のほうを向くとは思っていなかったらしく、一瞬目が泳いだ。
「後藤くん。というわけで、近いうちに行くかもしれないから、よろしくね」
「え……。なんなの、いきなり」
「あっ、聞いてなかった? ちょっとした取引をして、チグサに『かけはし』の和スイーツをおごることになったんだ」
「また来るんだね」
「うん、行く。いつになるかは分からないけど。ダメかな?」
「いや、そんなことは。えっと、二人でってことだよね」
「そうだよ。わたしも食べたいし。いっしょにお出かけする途中に寄るから」
「S町にある林、だっけ。変なものがあるっていう」
「そうそう」
「まだ辿り着けてなくて、まだ辿り着くのを諦めていないんだ」
「まあね。道がややこしいから苦戦しているけど、絶対に――」
「ナツキ」
チグサが戻ってきた。後藤くんはそれに気がつくと、逃げるようにナツキから離れていった。
「後藤くんと話をしてたから、びっくりした。『かけはし』のこと?」
「えっ、なんで分かったの? 超能力?」
「さっきまで私たちがその話をしていたし、後藤くんとの接点はそれくらいしかないから、それかなと思って。笹沢さんが休んだ理由、訊いてきたんだけどね」
「うん」
「夏風邪だって。四人にはそう連絡が来ていたみたい」
「……そうだったんだ」
こみ上げてきた罪悪感に、発した声は小さくなった。
「もう悪口は言っちゃだめだよ」
ぽんぽんと背中を叩かれる。ナツキは神妙に頷いた。
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