第9話

 夕方四時前。

 情け容赦なく日射しが照りつける中、待ち合わせ場所へ向かうナツキの心は、遠足前夜のように浮き立っている。

 ピラミッドに至る道のりの困難さは、二回の挑戦で嫌というほど思い知った。だから、走って体力を無駄づかいする愚行は犯さない。もっとも、仮に高温と高湿度とは無縁の気候だったなら、迷わずに全力疾走をしていただろう。

 それほどまでに、ナツキの気持ちは高ぶっている。近い未来に待ち受けている出来事に対する期待感がある。

 これほどまでに心が弾んでいる要因の一つは、初日にカイリと一悶着あったことだ。

 出かけた先で、またカイリたちと遭遇するかもしれない。そうなれば、言い争いになるのは避けられない。四人の仲間を従えたカイリに、一人の力で勝つのは難しい。

 外に遊びに行こうかと考えるたびに、そんな懸念に心が支配され、行動に移れなかった。けっきょく、一歩も外に出ないまま二日間が終わった。

 ナツキにとって、長い、長い三日間だった。

 しかし、禁止令はもはや解除された。

 公園は相変わらずセミの声がうるさい。うっとうしい夏の風物詩も、久しぶりに間近で聞いてみると、懐かしさを伴った、喜びにも似た感情が静かにこみ上げてくる。汗が肌を滑るくすぐったい感触でさえも、親しみが持てた。歩き回っているうちに心のゆとりなどすぐになくなり、煩わしさが勝ると想像はつくが、悪い気分ではない。

「あっ、ナツキ」

 十分前行動を実践したにもかかわらず、今日はチグサが先に来ていた。一日目にナツキが座っていた、木陰のベンチに腰を下ろしている。到着したナツキの姿を一目見て、屈託のないほほ笑みを灯したので、胸の底に薄く積もっていた不安は一掃された。体力の無駄づかいは避けようという心がけも忘れて、キャップが飛ばないように手で押さえながら、一目散にベンチへと駆け寄る。

「チグサ、早いね。ていうか、久しぶり。体調は大丈夫?」

「うん。全然なんともないよ」

「心配しすぎだよね、うちのお母さん。いっしょに遊ぶの禁止とか、小学生じゃあるまいし。まあ、半年前まで小学生だったんだけど」

「でも、心配してくれないよりは絶対にいいよ」

「えっ?」

 顔を覗きこむと、チグサは静かに頭を振った。ベンチから腰を上げ、ポーチからメモ帳とペンを取り出す。

「なんでもない。出発しよう」


 前回、前々回と同じルートを二人は歩く。四日ぶりに見た田んぼの稲穂は、心なしか黄金色の気配を帯び始めた気がする。そんなところからも、ナツキは三日という時間の長さを実感した。

 合流を果たしてから、二人はずっと同じ話題について話している。ピラミッドのこと、ではない。いっしょに遊ぶのを禁じられた三日間、どう過ごしたかについてだ。

 ナツキは、もっぱらマンガとゲームを楽しんだが、同じ作品を読んだり遊んだりしすぎたせいで飽きてしまい、終盤は暇をつぶすのに苦労した、という話した。

 チグサは、主に読書をして過ごしたらしく、面白かった小説のあらすじについて語る。説明によると、中世ヨーロッパを舞台にした、ホラー要素を含むファンタジー。登場人物のあいだで哲学的な会話が繰り広げられ、決して分かりやすい作品ではないそうだが、チグサはそこが気に入ったらしい。ナツキがマンガ以外の本には興味がないと重々承知しているはずだが、その事実を無視したかのような熱弁だ。

 話をちゃんと耳で追い、しっかりと相槌を打ちながら、ナツキは迷っていた。カイリとのあいだに起きた一悶着について、チグサに話すべきか。それとも、黙っておくべきか。

 ありのままを打ち明ければ、チグサは必ずやカイリを非難し、味方になってくれる。それは分かっている。それでも、話すことには抵抗感がつきまとった。なぜなら、ナツキにとって三日前の一件は、どこを切りとっても屈辱的なものだったから。

 迷っているさなか、ナツキはもう一つ、チグサに訊いておきたいことがあると気がついた。

「チグサ。さっきのことだけど」

「さっき? どのこと?」

「公園で、『心配してくれないよりは絶対にいい』って言ったよね。あれはどういう意味なの?」

「……ああ、それね」

 照れたような、少し困っているようにも見える表情が浮かんだが、すぐに真顔に戻る。

「四日前の夜にナツキのおばさんが、私のお母さんに電話をかけてきたでしょう。それで、三日間いっしょに遊ぶのは禁止、ということになったわけだけど」

「うん」

「電話が終わったあとで、お母さんが私の部屋まで来て、『ナツキのおばさんからこういう内容の電話があって、話し合った結果、こういうふうに決まった』って報告したんだけど、伝えかたがすごく淡々としていたの。話し合いって言っていたからには、うちのお母さんも意見を出したんだろうけど、どんな主張をしたとか、話し合いがどういうふうに進んだとか、そこのところを全然教えてくれなくて。私の体調を心配する言葉も一言もなかったし」

 ナツキはどう言葉をかけていいか分からない。木島家の少し特殊な家庭環境について知らなかったとしても、沈黙せざるを得なかっただろう。

「淡々としているっていう表現を使ったけど、うちのお母さん、いつもそんな感じで。私が欲しいと思っている言葉を、欲しいときにくれないことがよくあるの。それが悔しいっていうか、悲しいっていうか、もどかしいっていうか」

 チグサはさばさばとした口調で話す。声音と表情からは、意識的に感情を消しているらしい様子が窺える。

 チグサの家に遊びに行ったときなどに、彼女の母親とは何度も顔を合わせている。控えめで、物静かなお母さん。印象を一言でまとめるとそうなる。

 たとえば、お茶とお茶請けを部屋まで持ってきてくれたとき、チグサの母親はナツキに挨拶だけして、さっさと退室する。相内家に遊びに来た娘の友人たちに対して真樹がするように、テストの出来はどうだったかとか、家族は元気にしているかなど、不要な質問をぶつけてくることはまずない。

 真樹と比べれば、チグサの母親の振る舞いは慎ましやかで、礼儀正しくて、好ましいものだとナツキは思う。しかし、チグサの否定的な意見を聞いたあとで見つめ直してみると、たしかに少しそっけない気もする。

 自分が親からそういう態度をとられたらと考えると、チグサが不愉快な気持ちになったのも、理解できなくはない。

 一方で、絶対に口には出せないが、それも仕方ないのかな、と思う気持ちもある。

 なぜなら、チグサの母親はチグサの――。

「それに比べるとナツキのおばさんは、熱意を感じるって言えばいいのかな。うちに電話をかけてきたこともそうだし、スーパーで会ったときもそう。『車で家まで送ってあげるから』ってきっぱりと言って、ナツキが持っていたジュースを有無を言わさずに買い物カゴに入れて。そういうところが私のお母さんとは違うな、羨ましいなって思う」

「そう? いっしょに暮らしていると、うっとうしいなって思うことも多いよ。隣の芝生だから青く見えるだけじゃない?」

「……そうかな」

「そうだよ。わたしはチグサのお母さん、好きだよ。物腰が穏やかなところとか。隣の芝生は青く見えるって言ったあとで、そう言うのもなんだけど」

「私はナツキのおばさんのほうが、母親としても、人間としても、魅力的に感じる。なんていうか、何事も誠意をもって精力的に取り組んでくれそうなイメージがあって。それがうちのお母さんとは違うな、素敵だなって」

「誠意? 精力的? うーん、そうかなぁ。うちのお母さん、料理とか平気で手抜きするよ。夏休みに入ってまだ一週間も経っていないのに、そうめんが三回も出てきたし」

「そうめんの話、終業式のときもしたよね」

「あっ、覚えてる?」

「うん、覚えてる。ナツキの気持ちも分かるけど、毎日料理作るのって大変なんだよ。調理ももちろんだけど、献立を決めるのだって」

「チグサは料理ができないのに、料理をする人の気持ちが分かるんだ」

「手伝いくらいはするから」

「そういえばチグサのお母さん、料理が得意って言ってたよね」

「得意っていうか、好きっていったほうが近いかな。時間に余裕があるときは手のこんだものを作るんだけど――」

 チグサの母親の手料理にまつわるエピソードを聞きながら、ナツキは内心胸を撫で下ろした。現在進行形で母親と深刻な対立状態にあるわけではない、と分かったからだ。

 会話に意識を奪われたせいで、曲がるべき道を通りすぎる、曲がるべきではない道を曲がる、というミスが一回ずつあった。ただ、その二つを除けば大きなつまずきはなく、二人は『かけはし』の前まで来た。

「チグサ、今日はどうしようか」

「なんだかんだで間が空いちゃったし、挨拶だけでもしていかない? 食事をしていかないかって引きとめられそうだけど」

「そうだね」

 そう言いながらも、二人はドアノブに手をかけるのではなく、肩を並べて窓から店内を覗きこんだ。

「あっ、お客さんだ」

 店の最奥、前回ナツキとチグサが訪れたさいに座った席で、夫婦らしき男女が向かい合っている。ともに七十歳くらいだろうか。料理の到着を待っている最中らしく、リラックスした表情で会話を交わしている。

「常連さんみたいな雰囲気だね。この前通りがかったときはお客さんがいなくて、なんとなく心配だったけど。……あ」

 盆を手にした眉子が視界に現れ、老夫婦のテーブルへと歩み寄った。ナツキやチグサに向けたのと同じ笑顔を見せている。三人は気安げに言葉をやりとりしていて、常連ではないかというナツキの読みは、どうやら正しかったようだ。明るい顔をしている人間がそばにいるだけで、水墨画の松の木も生き生きとしているように見える。

「挨拶、また今度にしようか。じろじろ見るのはよくないから、行こう」

 チグサが促し、ナツキは頷く。二人は『かけはし』から遠ざかった。

「チグサ。さっきの『じろじろ見るのはよくない』っていう言葉で思い出したんだけど」

「どうしたの」

「遊ぶのを禁止された期間の初日に、ショッピングセンターまで遊びに行ったんだけど、そうしたらカイリと遭遇したよ。いつもの四人といっしょだった」

 チグサの顔に緊張が走った。チグサとカイリのあいだに交流らしい交流はないが、クラスが同じだし、ナツキが機会を見つけてはカイリに対する愚痴を聞かせているので、二人の不仲は把握している。

「飲み物を飲もうと思ってフードコートに行ったら、ばったり出くわしたの。で、こっちが一人だったのを向こうがからかってきて、むかついたから言い返して。ちょっとした言い合いになったんだけど、そうしたらカイリが、わたしとチグサが『かけはし』にいたのを見たって言ったんだ」

「本当に?」

「うん、ほんと。誰とどこでなにを食べようがこっちの勝手なんだけど、それにけちをつけてきて――」

 カイリから言われたセリフ、笑われて不愉快な気持ちになったこと、あと一歩で暴力を振るうところだったこと。全てをありのままに話した。

 チグサは、あるときは不安そうに眉をひそめ、あるときは憤りに唇を歪めながらも、無駄口を一切叩くことなく話に耳を傾ける。あたかも、それが親友のためにしてやれる最善の対応だとでもいうように。

「やっぱりむかつくなぁ、カイリ。一発くらい殴っておけばよかったかな」

「えっ! ダメだよ。暴力は絶対にダメ」

 チグサが急に大声を出したので、ナツキは驚いた。軽く戸惑ってしまうほど真剣な眼差しがナツキの顔に注がれる。

「ナツキが笹沢さんを殴らなかったの、正解だったと思う。いくら笹沢さんに非があったとしても、殴った時点で、殴ったほうが悪者になるから。笹沢さんもある意味、それを狙っていたんだろうし」

「でも、こっちは親しい同士で店に来ていただけなんだよ。なのにそんな言いかた、腹が立つじゃん。だからやっぱり――」

「その出来事があってからまだ日が浅くて、笹沢さんに対する怒りが治まっていないから、そう思うんだよ。長い目で見れば、怒りを抑えたほうが絶対に賢いよ。少なくとも私はそう思う」

「博愛主義者なんだね、チグサは」

 そういう哲学を持つようになった経緯は察しがつくが、それをこの場で口にする必要性は感じないので、触れないでおく。

「殴り合いとか言い争いとか、そういうのが嫌いなのは知ってたけど、そこまでとはね。ノーベル賞をとったインドの偉い人みたい」

「マハトマ・ガンジーのこと? あの人、ノーベル平和賞は受賞してないよ」

「えっ、マジで? 嘘だぁ。絶対そういうキャラじゃん、あのおじさん」

「キャラもなにも、事実だから」

 チグサは小さくため息をつき、脱線した話を元に戻す。

「そこまで極端でも立派でもないよ。だって、乱暴な振る舞いをしても自分が損するだけでしょ。だから自分ではそういう真似はしないし、そのほうがいいよってナツキにアドバイスをした。それだけだから」

「ほんと真面目だよね、チグサは。でも、ちゃんとした理由があるんだったら、暴力を振るっても例外的に許されるんじゃないかな。周りの人も味方になってくれるだろうし。違う?」

「ナツキの言い分にも一理あると思う。でも、正当性が認められるまでは、どうしても『悪いことをした人間』っていう目で周りからは見られるし、正当性を認めてもらうのも簡単じゃない。だから、暴力を振るわないに越したことはないんじゃないかな」

「あー……。たしかに、そうかも」

 ナツキは考えるよりも行動するタイプだから、心当たりはたくさんある。永久に思い出したくない、消し去れるものなら消し去りたい記憶も、中にはある。

「ナツキは、そんなに笹沢さんを殴りたかったの?」

「うん、当時はね。でも、チグサに話しているうちに怒りは治まったし、チグサの話を聞いたら、なにをされても暴力はダメっていう考えかたが正しいものだって、よく理解できた。チグサの言うとおり、あのとき我慢して正解だったんだなって、心から納得できた。これも全部、チグサのおかげだね。ありがとう」

 争いごとが嫌いなチグサを失望させなかったという意味でも、過ちを犯さずに済んでよかった。心からそう思った。

 前回・前々回と、チグサが酷暑に負けてしまいそうになったことを踏まえて、水分補給をこまめに行いながら、ペースを抑制して歩いた。そのせいであまり進めなかったが、二回続いた悲劇はくり返さずに済んだ。

 母親のこと。カイリのこと。二つの重要な問題について語り合えたこともあり、三度目となったピラミッドを目指す歩みは、ナツキにとって満足がいくものとなった。

「じゃあ、また明日も行こうね」

 別れぎわのナツキの言葉に、チグサはもちろんとばかりに首を縦に振った。

 夏が充実し始めたような、そんな実感があった。

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