第7話
「ナツキ。今日のことだけどね」
キッチンで食器洗いをしている真樹が唐突に切り出した。
リビングのソファに俯せに寝そべっていたナツキは、緩慢な動作で母親に注目した。視聴していた音楽番組は本日の放送を終え、CMに入ったばかりだ。掛け時計の時針はもうすぐ八の数字を指そうとしている。
真樹がなにを言おうとしているのかは、見当もつかない。だからこそ、とても嫌な予感がする。
予感は見事に的中した。
「チグサちゃんをあんまり連れ回しちゃだめよ。あの子、そんなに体が強くないんでしょう」
「は? そんなことしてないし」
弾かれたようにソファから上体を起こし、尖った声を真樹にぶつけた。頬だけではなく、全身が熱い。
連れ回した? なにも知らないくせに、なんで決めつけるの?
「でもチグサちゃん、顔色悪かったじゃない。いっしょにいたんだから、気づかなかったわけじゃないでしょう?」
真樹は口振りも、スポンジで皿をこする手つきも、人を食ったように淡々としている。娘のほうを振り向きすらしない。
「もちろん知ってたよ。しんどそうだなって、ちゃんと気づいてた。だから、チグサの家のすぐ近くまで来てたけど、念のために飲み物を買うことにしたんでしょ」
「あなたが友だちのことを考えない、自分勝手な人間だなんて言うつもりはないけどね、結果的にそうなったのは事実でしょう。目の前のことに夢中になるあまり、チグサちゃんとの体力の差を忘れて――」
「そんなことないって! 意識してチグサの体調を気づかうようにしてたよ」
「本当に? 具体的にどう気づかってあげたの?」
チグサの荷物を持ってあげたこと。こまめな水分補給を心がけたこと。なるべく日陰を歩くようにしたこと。昨日今日と講じてきた対策の全てを、嘘偽りなく述べる。
真樹は洗い物を続けながらも、物音が立たないように配慮し、時折小さく頷きながら説明に聞き入っている。
「なるほど。あなたなりに考えて行動した、というわけね」
「当たり前でしょ。昨日もチグサと行ったんだから、その反省も踏まえて――」
「昨日も? 二日連続でチグサちゃんと歩き回ったということ?」
場の空気の変化を感じとり、ナツキは口を噤む。手を滑らせたらしく、食器同士が少し強くぶつかる音が響いた。割れたわけではなかったようで、何事もなかったようにスポンジで食器をこする音が聞こえてきた。真樹が再び喋り出すまでの時間は、耐えがたいくらい長く感じられた。
「ナツキ。あなたまさか、昨日もチグサちゃんをあんな目に遭わせたんじゃないでしょうね?」
「なにもなかったよ。最初だから、あんまり無理はしないようにしたし」
嘘だ。病院の世話にならなかったという意味では真実だが、体調面のトラブルが一切起きなかったという意味では、真っ赤な嘘。昨日チグサが、一時的にとはいえあのような状態に陥ったのは、ナツキが多少なりとも無理をさせたのも一因だと考えれば、二重に嘘をついたことになる。
罪悪感。嘘がばれるのではないかという恐怖心。少し速い心臓の鼓動を聞きながら、息が詰まるような時間が流れた。
「それなら別にいいんだけど」
そうつぶやいたのを最後に、真樹は一切話しかけてこなくなった。気味が悪かったが、追及してこない以上、隠している事実をこちらから明かすのは馬鹿げている。
いつの間にか八時を回り、新しい番組が本日の放送を開始している。毎週楽しみにしている、好きな男性タレントがレギュラーで出演しているバラエティ番組だったが、いつものように楽しめなかった。
入浴を終えたナツキはキッチンまで来た。ミネラルウォーターで喉を潤すためだ。
ページがめくれる音に振り向くと、真樹がリビングのソファに座って雑誌を読んでいる。
この時間帯、真樹は自室ではなくこの場所で過ごすことが多いので、珍しい光景ではない。ただ今日は、夕食後にチグサとの一件を追及された。なにか言ってくるかもしれない、という予感は、母親の姿を見た瞬間から生まれていた。
「ナツキ、あのね」
自分用のグラスを用意し、ミネラルウォーターのペットボトルを冷蔵庫から取り出したところで、声をかけられた。雑誌に目を落としながらの発言だ。キャップを回し開け、グラスに液体を注ぎながら「なに?」と応じる。
「ナツキがお風呂入っているあいだに、チグサちゃんのお家に電話して、チグサちゃんのお母さんと少し話をしたの。それで、明日から三日間、あなたたちがいっしょに遊ぶのは禁止ということになったから」
危うく水をこぼすところだった。
いっしょに遊ぶのは禁止?
「それ、どういうこと?」
「言葉どおりの意味よ」
真樹は平然と答えた。雑誌をテーブルの上に静かに伏せ、娘を正視する。
「そういうことじゃなくて! 禁止って、なんで?」
「悪気はなかったみたいですけど、うちの娘がチグサちゃんを少し無理させたみたいなので、しばらくいっしょに遊ぶのはやめさせるようにします。予報だと、明日から三日間は特に気温が上がるようなので、三日のあいだだけ。そう考えを伝えて、承諾を得たの」
「……なにそれ」
湯から上がったばかりでただでさえ熱い体が、さらに熱くなる。
なんで親同士で勝手に決めているの? わたしたちのことはなにも知らないくせに!
感情に任せて真樹を罵倒する自分の姿を、ナツキは頭の中に鮮明に描いた。すぐさま、そのイメージに現実の自分を合わせようとした。
しかし、叫ぶ寸前、もう一人の自分が発した声を聞いて、言葉を飲みこんだ。
なにも知らないと母親を非難したけど、あなたは真実を打ち明けなかったでしょう。
チグサを体調不良に陥らせたのは、あなたの責任でしょう。
「どうしたの、そんなところでぼーっと突っ立って。さっさと水飲んじゃいなさい」
「ねえ、お母さん」
気勢を削がれたのはたしかだ。それでも、意地のようなものに背中を押されて、決定に対して抗弁する。
「なんでわたしに無断で決めたわけ? チグサの許可はとったの?」
「無許可に決まってるじゃない」
真樹はさらりと言ってのけ、再び雑誌を手にする。
「チグサちゃんはああいう性格の子だから、心配していただかなくても結構です、体調に問題はありません、みたいなことしか言わないと思うの。かわいそうだけど、無理をさせるのはよくないから」
「そうかもしれないけど……。でもやっぱり、わたしやチグサの言い分を聞かないって、おかしくない? これはわたしとチグサの問題なんだよ?」
「どこがおかしいの? 子どもを守るのは大人の役目でしょう」
これ以上議論を続けても無駄だ、と思った。無意味な言い合いがだらだらと長引くくらいなら、さっさと終わらせたほうがいい。
グラスの中身を一気に飲み干し、キッチンをあとにする。リビングと廊下を仕切るドアを荒々しく開け閉めしたので、真樹から怒声が飛んできた。
怒らせたのはお母さんのくせに、その結果の行動をどうして怒るのだろう。
階段を駆け上がりながら、ナツキは悔しかった。そして、その感情に見舞われたときはたいていそうなるように、自分のことが情けなくなった。
『三日間いっしょに遊ぶの禁止って話、聞いた?
わたしたちの意見も聞かずに勝手に決めて、ひどくない??
チグサはこの件についてどう思ってるの???』
自室に入ってすぐ、アプリを通じて親友にメッセージを送った。
返信はすぐに送られてきた。自らの考えを発信することに慎重なのは、明らかにチグサのほうだが、要点を手早くまとめる能力があるので、レスポンスはナツキに負けず劣らず早い。
『うん、聞いた。ナツキのおばさんと話をして決めたって、お母さんに急に言われたからびっくりした。
ナツキのおばさんが、私のことをすごく心配してくれたって聞いたけど、ほんとうなの?
私のお母さんは、「あんなに心配してくれたんだし、言い分も理解できるから、決定に従おう」みたいな感じだったよ。拒む理由は特にないし、みたいな。
ちなみに、私は決定に従ってもいいと思ってる。理由は、私のお母さんとだいたい同じ』
親の横暴に立ち向かう同志になってくれるものと思いこんでいたナツキは、少なからずショックを受けた。しかし、チグサに黒い感情をぶつけたのでは本末転倒だ。
『わたしがお風呂に入っているあいだに電話したみたい。ずるいよね。卑怯だよね。鬼の居ぬ間に洗濯? ていうか、お母さんのほうが鬼だし。
電話の内容は詳しくは聞いてないけど、チグサは体が弱いんだからあまり連れ回すな、みたいな説教はされたよ。電話をかけたのはうちのお母さんからだし、チグサのことを心配しているのはたしかじゃないかな。
ていうか、チグサは要求を呑むんだ? 理不尽なのに? 徹底抗戦しようよ、徹底抗戦!
それとも、まさか、帰ったあとで気分悪くなった? わたしに付き合うの、嫌になっちゃった? 正直に答えて!!!』
『体調は大丈夫だよ。嫌になってもいない。
たとえば、夏休み中ずっと接触禁止とかだったらもちろん反対したけど、たった三日でしょう。外せない用事が急に入って、三日のあいだだけ遊べなくなったって考えれば、耐えられるかなと思って。だから、決定に従ってもいいと思ったの』
その後も文字によるやりとりを交わしたが、チグサの意思は固いようだ。
「たった」って言うけどさ、三日間「も」わたしと遊べなくなるんだよ? チグサはそれで平気なの? わたしたちの関係って、そんなものだったの?
そんな訴えをぶつけたいと思い、実際に文章を打ちこんだが、けっきょく送信しなかった。恋人から別れを切り出されて、今まで恋人のことをさほど大事にしてきたわけでもないのに、自らの行いを棚に上げて食い下がる自己中心的な人間のようで、みっともないと思ったのだ。
納得しがたい決定だったが、大人二人を敵に回したのでは分が悪いし、なによりチグサが受け入れると言っているのだ。
夏休み早々に喧嘩するのも嫌だし、仕方ない。チグサが言うように「たった」三日だと思おう。そう自分に言い聞かせながら、電気を消してベッドに潜りこむ。
本日も熱帯夜となる予報だ。クーラーの冷気の名残が部屋を満たしているが、それもほどなく消えてしまうだろう。眠りのしっぽを掴まえるのに手を焼く予感に、ナツキは早くも苦しげに寝返りを打った。
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