第5話

「あの、一つ知りたいことがあるので、教えてください。S町って分かりますか」

「はい、分かりますよ。S町がどうかしたの?」

「S町に、林、あるじゃないですか。知っていますか」

「林……」

 放心したような顔をおもむろに斜め上に向け、双眸をしばたたかせる。ナツキは視線を追ったが、清潔な白い天井があるだけだ。

 女性は急に表情をぱっと明るくさせたかと思うと、ナツキと目を合わせた。

「あー、はいはい。知ってます、知ってます。ここからだと、徒歩で半時間くらいの場所にある」

「それです。その林だと思います。その林の中に、なにか変なものがあること、ご存知ないですか。最近できたというか、出現したというか、そんな感じだと思うんですけど」

「変なもの?」

「とにかく、変なものです。詳細は、わけあって言えないんですけど」

「変なもの、か。うーん……」

 女性は唇の下に人差し指を宛て、考えこんでいる。ナツキとチグサは緊張の面持ちで女性を見守る。沈思黙考していた時間は、そう長くはなかった。

「ごめんなさい。ちょっと分からないです」

 ポーズを解き、かすかに眉根を寄せての返答だ。ナツキとチグサは落胆の表情を見合わせた。女性の言葉には続きがあった。

「わたしはお手上げだけど、そういえば、常連さんの中にS町に住んでいる子がいたわね」

「えっ? じゃあ、その人に訊くことはできますか?」

「残念ながら、最近はすっかりご無沙汰なのよね。連絡先も知らないし。トラブルがあったとかじゃないから、また来てくれるようになる可能性はあると思うけど――」

 風鈴そっくりの音が鳴り、室内に滞っていた冷気が動いた。

 三人は一斉に振り向いた。入口のドアが開いている。戸口に立っていたのは、

「後藤くん!?」

 私服姿だが、全身からそこはかとなく漂う気怠そうな雰囲気は、間違いない。クラスメイトの後藤くんだ。

 ナツキはなんとなく、後藤くんはドアをそっと閉めて帰ってしまう気がした。呼び止める準備を心の中でしたが、予想を裏切って、屋内に全身を入れた。後ろ手でドアを閉め、落ち着き払った足取りで二人へと歩み寄る。

 ナツキは自ら後藤くんに駆け寄った。チグサは座ったままだ。ナツキが到着するのを待って、後藤くんは口を開いた。

「木島に相内。なんで店にいるの」

「食事してた。わけあって、このへんをうろうろしていたんだけど、暑すぎるから冷たいものが食べたくなって。後藤くんも食べに来たんだ? 一人でも飲食店に入れるタイプなんだね。なんかちょっと意外かも」

「食べに来たっていうか」

 後藤くんは指で頬をかいた。

「ここ、俺の家だけど」

「えっ! ほんとに?」

 ナツキは満面に驚きを露わにして後藤くんの顔を見返した。チグサと視線を交わし、再び後藤くんを見る。嘘をつくわけがないだろう、というふうに後藤くんは頷く。

「そうだったんだ。『かけはし』って店名、お店をやっている人の名前からとったのかと思っていたけど」

「かけはしというのは、私の旧姓よ」

 女性が二人に歩み寄って説明した。

「後藤家に嫁いで、梯眉子から後藤眉子になったけど、店名は逆に『ごとう』から『かけはし』に変えたの。その店名のほうが印象に残るでしょう?」

「そうだったんですか。ということは、後藤くんは『S町に住んでいる常連の子』ではないんですね」

「そう。ユウジは私の息子。私が言った元常連さんは女の子だから」

 次々に明らかになる予想外の事実に、ナツキはついていくのがやっとだ。会話の詳細が呑みこめないからだろう、後藤くんは渋面を作っている。チグサが遅まきながら席を立ち、三人が形成する輪に合流した。

 そのチグサと、ナツキを交互に見ながら、眉子は問う。

「お二人はユウジとどんな関係なの? すごく気になるんだけど」

「クラスメイトです。あまり話をしたことはなくて、家がお店をやっていることも全然知らなかったから、びっくりしました」

「ああ、そうだったの。ユウジは外ではあまり喋らない子だからね。学校ではどんな感じ?」

 後藤くんとはほとんど交流がないので、ナツキは返答に窮してしまう。席が近いチグサならどうだろうと思い、眼差しを投げかけたが、困り顔で小さく頭を振った。後藤くんはため息をつく。

「俺に用があるわけじゃないみたいだから、もう行くよ。それじゃあ」

「あ、ちょっと待って」

 去っていこうとする後藤くんを呼び止めたのは、眉子だ。

「お二人――えっと、お名前は……」

「木島と相内」

「そうそう。木島さんと相内さんね、S町に林、あるでしょ。そこにあるものについて知りたいらしいの。とにかく変なもの、らしいんだけど。なにか知っているんだったら、教えてあげて」

「S町の林……。変なもの……」

 難しい顔をして数秒間沈黙し、小さく首を傾げる。

「ごめん、分からない。そのあたりには行ったことないから」

 そっけなくでも、申しわけなさそうにでもなく答えて、店の奥へと消えた。

「残念ね、お二人さん。奇跡が起こる可能性にかけて、元常連の子が来店するのを待ってみる?」

「えっと、すみません。もう時間がないので」

 答えたのはチグサだ。壁の高い位置にかかった時計を見上げると、午後六時まで半時間を切っている。今度はナツキが眉子に向かって言う。

「今日はこのくらいにしておきます。ぜんざいもわらびもちも、とても美味しかったです。ありがとうございました」


 夕焼けの気配が滲み始めた空の下、衰えることのない日射しが降り注ぐ中を、気力と体力を取り戻した二人は進む。

 幸いにもすぐに回復したとはいえ、チグサが熱中症の症状に見舞われたこと。日没までにピラミッドに辿り着いて、なおかつ帰宅するのは、どう考えても不可能なこと。以上の二つを理由に、今日のところは大人しく引き下がると、『かけはし』を出た時点で二人は即決していた。

「それにしても、後藤くんの家が和スイーツのお店だったなんて、驚きだよね」

 店を出た直後の話題には、後藤ユウジが抜擢された。

「家がお店をやっているっていう話、全然聞いたことなかったよね。わたしたちの場合は、あまり喋ったことがないから仕方ないのかもしれないけど、クラスの友だちとかともその話はしてなかった気がする。なんでだろうね?」

「たぶん、恥ずかしいんじゃない。みんなが考える普通からは外れているから」

「なるほどー。でも、恥ずかしくなんてないのにね。むしろかっこよくない?」

 ナツキは語尾を上げて同意を求めた。チグサは頷いた。

「だよね、だよね! お菓子作りの練習とか、してるのかな。今はおじいちゃんが店主だって話だったけど、その跡を眉子さんと旦那さんが継いで、さらにその跡を後藤くんが継ぐんだよね。お店の命運がクラスメイトの肩にかかっているんだって考えると、すごいなって思う」

「最初から道が一つ用意されているって、恵まれているよね。本人にとってはプレッシャーなのかもしれないけど、なにも用意されていない人間からすれば、すごく羨ましく感じる」

 チグサの言葉に、ナツキは心からの共感をこめて首を縦に振る。

 ナツキは今まで、将来の夢や目標なんてろくに考えたことがなかった。ただその日その日を生きてきた。

 後藤くんがその道に進むことを望んでいるのかは分からない。もし進むつもりはないのだとしても、「家業を継ぐ」という未来を、可能性を、選択肢を、頭の片隅に置いて生きていくというのは、素晴らしいことだという気がした。刺激的なことなのだろう、とも思った。

 雑草だらけの空き地を抜け、建物と建物のあいだの狭い通路を通る。行きとは逆にナツキが先頭を務めた。中ほどに差しかかったところで、おもむろに足を止めて振り返り、

「チグサ。ピラミッド行きだけど、明日リベンジしようよ」

 チグサは立ち止まった。建物が陽光を遮っていて薄暗く、表情ははっきりとしない。顔を戻して歩き出すと、すぐに靴音がついてきた。

「思いのほか道が複雑だったから時間がかかっちゃったけど、難所もクリアできたことだし、きっと大丈夫だよ。暑さ対策を万全にすれば、今度こそ絶対に辿り着けるよ」

 今日あったことを考えれば、申し出をはねつけられても文句は言えない。チグサをあんな目に遭わせてしまった罪悪感だって、もちろんある。それでもナツキはそう提案した。

「ほんと元気だよね、ナツキは」

 隙間を抜けた瞬間、このタイミングで口を開くと決めていたように、チグサが言った。故意に感情を抑えたような声だ。緊張しながら振り返ったが、親友の顔つきは険しいわけではなかった。

「休憩をとったとはいえ、炎天下を一時間歩いたばかりだよ? 羨ましいっていうか、呆れるっていうか」

「夏休みが始まったばかりなんだから、元気なのは当たり前でしょ。元気が有り余っているからこそ、付き添ってセーブしてくれる存在が必要なの。その役割、担えるのはチグサしかいないの」

 チグサは黙っている。ナツキは懸命に食い下がる。

「ねえ、お願い。頼れるのはチグサだけなの!」

「お願いって言われても、また行くのはちょっと……」

「チグサが今日みたいなことにならないように、明日は気をつけるから」

「うーん、でも……」

「ほんとお願い! 明日もいっしょに来てくれたら、チグサの言うことなんでも聞くから!」

「なにそれ。子どもじゃないんだから」

「中一なんてまだ子どもでしょ」

 激しいというよりも、ただただ騒々しいだけのやりとりがしばし交わされた。

 折れたのは、こんな展開になった場合は九割方そうなるように、チグサだった。不承不承といった様子ながらも、譲歩したことで、これ以上要求を突っぱねるために労力を使わずに済むから安堵した、というようなほほ笑みを口元にかすかに浮かべて、はっきりと頷いたのだ。

「ほんとに? やった! さすがはチグサ!」

「まったく、強引なんだから」

 大きくため息をついたものの、表情は柔らかいままだ。親友の寛大さが、ナツキは言葉にならないくらい嬉しかった。

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