第4話
突然、チグサが立ち上がった。俊敏にではないが、体調不良に見舞われてうずくまっていたことが信じられないくらいに、素早く。
面食らうナツキに向かって顎をしゃくり、躊躇なく日なたへと出て行く。
「あっ、ちょっと! 動いちゃダメだって!」
腕を掴んで引き留めようとすると、逆に手首を掴まれた。そのまま道を進んでいく。普通に歩くのと早足の中間くらいの速度だ。向かう先は、
「ちょっと、チグサ。そっち、さっきの行き止まりだよ。その道を行っても意味ないって」
いいから、黙ってついてきて。そんなメッセージを送るかのように、掴む力が少し強まった。チグサの手は汗ばんでいて、熱を帯びていて、想いの強さが伝わってくる。ナツキは親友の言いなりになることにした。
チグサの両足は、苔むしたブロック塀の数メートル手前で止まった。周囲を熱心に見回したかと思うと、数歩後退し、雑草をかき分ける。
「どうしたの? この場所になにか――」
雑草の壁に隠れていたものを見て、ナツキは思わず小さく叫んでしまった。
建物と建物のあいだに、肥満した大人であればつかえてしまうくらいの、狭い隙間がある。隙間は真っ直ぐに奥へと続いていて、行く手には光が射している。
抜け道だ。
「行こう」
チグサが先に足を踏み入れ、ナツキはそれに続く。
薄暗く、ところどころにガラクタが廃棄されているので、足元に注意を払いながらの歩行になる。進めば進むほど光は拡大していく。
通路の出口は木製フェンスによって塞がれていた。二人の背丈よりも高く、先の景色は垣間見ることさえできない。一瞬絶望的な気持ちになったが、よく見ると、扉のように開閉できるようになっている。チグサの手が押し開き、空間が繋がる。
障壁の先に広がっていたのは、雑草の楽園と化した空き地。
チグサは雑草をかき分けて進もうとする。ナツキは手でそれを制し、自ら先陣を切って進む。チグサは黙ってついてきた。
痛いともくすぐったいともつかない、肌にこすれる葉の感触に顔をしかめながらも、ひたすら前進する。
やがて道に出た。路面が舗装され、歩道が備わり、左右には民家が疎らに建ち並んでいる。
「ちゃんとした道だ! でもチグサ、どうして分かったの?」
「休んでいるときに、遠くから車の走行音が聞こえたの。だから、その方角に進めば迷路から抜け出せるんじゃないかと思って」
チグサは事もなげに答えて、頬に付着した葉っぱをつまんで捨てた。笑みこそ浮かんでいないが、いっときと比べると顔色は大分ましになっている。地べたから腰を上げてから現在地に至るまでの足どりも、歩くのがやっと、というふうではなかった。
「そうだったんだ。すごいね、チグサは。わたし、セミの声しか聞こえなかったよ」
「すごくないよ。近くに別の道があるな、とは思ったけど、抜け道を見つけたのは正真正銘偶然だから」
「とにかく、道に出られてよかった。次は飲み物を手に入れないとね。自販機がありそうな雰囲気だから、探してみよう。まだ歩けそう?」
「うん、大丈夫」
道なりに進むと、自動販売機よりも魅力的なものを見つけた。和風な外観の、こぢんまりとした建物。出入り口の真上に掲げられた木製の看板に、少し崩した字で『甘味処かけはし』と綴られている。
「チグサ、ここに入ろう。歩き回っておなか空いたし、ちょうどいいよ」
返事を聞くよりも早く親友の手をとり、もう一方の手で店のドアのノブを掴む。強引さに呆れているらしい気配が伝わってきたが、抵抗も反論もない。
ドアを開くと、風鈴を思わせる涼やかなベルの音が鳴った。人工的な冷気が押し寄せ、汗ばんだ体を包む。
「いらっしゃいませ」
聞こえてきたのは、おっとりとした女性の声。
店の奥から、藍色のエプロンを着用した女性が現れた。三十代半ばくらいだろうか。満面にたたえられた柔和なほほ笑みは、いかにも人がよさそうだ。
「初めてのお客さんね。どちらからいらしたんですか?」
ナツキは自宅がある町の名前を告げた。
「遠いところから来てくださったのね。同じ市内ではあるけど。……あら、汗をいっぱいかいてる」
「ずっと歩き回っていたんです。飲み物を買いたかったんですけど、コンビニも自販機も見当たらなくて、焦っていたらこのお店を見つけて」
「あら、そうだったの。冷たいお茶をすぐに持ってきますから、おかけになってお待ちください」
女性は笑顔のまま、踵を返して店の奥へと消えた。それを見届けてから、二人は奥まった四人がけのテーブル席に座る。チグサは壁に、ナツキは出入り口の方向に、それぞれ背を向ける形だ。
店内はそれほど広くない。ナツキたちが座っている席も含めて、テーブルが三セットあるだけだ。松の木が描かれた水墨画や、会計カウンターに飾られた折り鶴など、インテリアは総じて和風だ。
メニューをテーブルの中央に広げ、チグサと上下から覗きこむ。和スイーツと聞いて思い浮かぶ和スイーツがひととおり取り揃えられている、といったラインナップだ。全品ではないが写真も併載されていて、眺めているだけで楽しい気分になってくる。
「いっぱいあるね。和スイーツってそんなに頻繁には食べないから、迷うなー。チグサはなににするの?」
「うーん、どれにしよう。定番だと、あんみつとかかな」
「あっ、いいね。それにしようかな」
「決めるの早くない? たくさんあるんだから、もっとじっくり選べば」
チグサは表情も声も柔らかく、心のゆとりが窺える。エアコンの冷気にも助けられて、順調に回復しているようだ。
先ほどの女性がお茶を持って来てくれた。器は大きめのグラスで、四角い氷とともに冷たい緑茶が入っている。ナツキが代表して礼を述べ、注文を述べる。女性は料理名を復唱し、盆を胸に抱くように持って去った。
お茶で渇きを潤したのを境に、双方の口数は増えた。
「後半に行くほど判断ミスが増えていったよね。進めば進むほど道が複雑になっていったから、仕方ない部分もあるんだけど。反省点としては――」
チグサが自ら自分の失敗に触れるようになったのを聞いて、もう大丈夫だ、とナツキは確信した。
「おまちどうさま」
やがて注文の品がテーブルに運ばれてきた。ナツキはあんみつに決めかけたところを寸前で方針転換し、冷やし白玉ぜんざい。チグサはわらびもち。
さっそく口に運ぶ。咀嚼し、口の中を空にして、二人は双眸を瞠って顔を見合わせた。
「美味しい……!」
味、甘さの加減、風味、口当たり。ナツキが食べた冷やし白玉ぜんざいは、どれをとっても合格ラインを軽々と飛び越えている。一個目のわらびもちを食べた反応を見た限り、チグサも同じ感想を持ったらしい。
二人はしばし食べるのに専念した。やがてそのフェイズが終わり、会話を交えながらの食事になる。それぞれが注文した料理を、自らの手で相手に食べさせるという、親友同士らしい無邪気な戯れもあった。チグサは恥ずかしがったし、嫌がったし、ナツキの強引さに苦言を呈したが、そんなやりとりも含めて戯れだ。
「どうでした? お口に合いました?」
双方の器が空になったのを見計らったように、再び女性がテーブルまで来た。緑茶が入ったピッチャーを手にしている。
「はい。美味しかったです」
チグサがはきはきと答えて、ナツキも首の動きで同意を示す。
それはよかった、とばかりに女性はにこやかに頷き、グラスにおかわりを注ぐ。ナツキはふと疑問を抱いたので、訊いてみた。
「お茶……。茶葉にこだわって、急須から淹れて、みたいな感じではないんですか」
「あっ、気づきました?」
女性はピッチャーをテーブルに置き、ぜんざいに入っていた白玉よりも白い歯をこぼした。
「このお茶ね、スーパーとかで普通に売っている、なんパックかがワンセットになっている普通のティーバッグ。あまり安すぎるものは選ばないようにしているという意味では、こだわっているとも言えるけどね。高級なものをメーカーから取り寄せているとか、淹れかたに工夫しているとか、そういうことでは全然ないです。意外だった?」
「はい、少し」
「うちのお義父さん、和菓子作りに全振りだから。店の内装だって、わたしに一任してね。ネットオークションで買った絵なんかを飾っても、一言『まあ、いいんじゃないか』って言って、それでおしまい。頑固なのか柔軟なのか、分からないよね」
「お姉さんが店長さんじゃなかったんですね」
「うん。和菓子を作っているのは私の義父。私は給仕とか、車で食材の買い出しとか、その他諸々の担当なの。それでは、ごゆっくり」
ピッチャーを手に女性が去っていく。遠ざかっていく背中を目で追っているうちに、ナツキは閃いた。
「あの、すみません! ちょっと……」
女性は引き返してくる。ナツキはチグサに耳打ちをする。
「ピラミッドのこと、訊いてみようよ」
「え? どうして?」
「この店がある場所、わたしたちが住んでいる町よりはピラミッドに近いし、いろんな人がお客さんとして来るわけだよね。だから、なにか知っているかもしれない」
「でも……」
「でも、どうしたの?」
「ピラミッドのことをいきなり話しても、信じてもらえないよ」
「そうかもしれない。でも、少なくとも、笑われることはないんじゃないかな。あの女の人――かけはしさん? とても優しそうだもん。一生懸命な人を笑うようには見えない」
「そうかもしれないけど……」
「じゃあ、ピラミッドのことは伏せて訊いてみる。それならいいよね?」
チグサは不承不承といった感じで頷く。直後、女性がテーブルまで戻ってきた。ナツキは女性に向き直った。
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