第3話

 黒地に赤色の英文が綴られた半袖のTシャツ。迷彩柄の七分丈のチノパンツ。ニューヨークヤンキースのキャップ。ナツキは以上の服装に身を包んで、待ち合わせ場所であるS町の公園にやって来た。

 チグサはまだ来ていない。

 携帯電話で時刻をたしかめようとして、持ってきていないことを思い出す。ピラミッドのことを調べたりしないように、携帯電話は持ち歩かないようにしよう。今朝ふと思い立って、ナツキの方からそう提案し、合意を交わしたのだ。

 自動販売機でいちごオレを買い、日陰のベンチに腰を下ろす。公園は木々に取り巻かれているので、セミの鳴き声が暴力的にやかましい。

 炎天下で遊んでいるのは、シーソーに群がっている五歳くらいの子ども数人だけだ。彼らの保護者だろう、ナツキが座るベンチの隣のベンチで、三十歳くらいの女性数名が談笑に耽っている。基本的には静かな声で話しているが、時折聞こえてくる歓声にも似た声のボリュームは、子どもたちのはしゃぎ声やセミの声にも負けていない。

 手持無沙汰なナツキは、チグサが今日、どんな服を着てくるのかを想像してみる。動きやすい服装という、緩やかな制約があるとはいえ、レパートリーはチグサのほうが格段に上だから、予測するのは難しい。

 ナツキとしては、夏らしいノースリーブのワンピースを着てきてほしかった。下着が透けるような純白だと、なおいい。ただ、チグサは露出が多い服はあまり着たがらない。色白で、体つきがほっそりとしているから、肌を見せてもマイナスになるどころか、大幅なプラスなのに。

 帽子はどんなタイプだろう。ワンピースと麦わら帽子の取り合わせは悪くないけど、一番似合いそうなのは、貴婦人のような帽子。鍔が広くて、花を模した飾りなんかがついていて――。

「あっ、ジュース飲んでる」

 急に声をかけられたので、危うくいちごオレのパックを膝から落とすところだった。

 ナツキの目の前に、いつの間にかチグサが佇んでいた。頬を涙のように伝う汗を、彼女にしては珍しく、ハンカチではなく指先で拭う。

「なんかぼーっとしてたけど、大丈夫? まさか、早くも暑さにやられちゃったとかじゃないよね」

 桜色のバケットハット、純白のブラウス、スカイブルーのスカート。以上が本日のチグサの服装だ。

「なーんだ。そのタイプかぁ」

「そのタイプ? どういうこと?」

 待っているあいだ、本日のチグサの服装を予想していたこと、そしてその予想の中身を、包み隠さずに話した。

「貴婦人みたいな帽子、か。私が被っても似合わないと思うけど」

「そんなことないよ。わたしが言うんだから間違いないって」

「また適当なこと言って。ていうか、出発しないの? 時間も限られていることだし」

「おっ! その発言、ようやくやる気になってくれた?」

「そういうことじゃないから。いちごオレ、さっさと飲んじゃって。それとも、飲みながら歩くの?」

「もう、お母さんみたいなこと言うね、チグサは。あっ、もしかして飲みたいの?」

「いらないって」

 ストローの先端を突きつけると、チグサは眉をひそめて上体をのけ反らせた。

「そんなに嫌がらなくてもいいのに。回し飲みくらい、女の子同士なんだから普通でしょ」

「普通じゃないよ。同性が相手でも、友だちが相手でも、私は嫌」

「じゃあ、口移しとか?」

「……帰ろうか?」

「ごめん、ごめん。飲んじゃうから、ちょっと待って」

 不意に視線を感じた。振り向くと、隣のベンチから、保護者のお母さんたちがナツキを見ている。全員、砂場で遊んでいる我が子をほほ笑ましく見守る大人の顔だ。

 直射日光に照らされたように頬が火照る。それを冷ますべく、大急ぎでいちごオレを飲み干した。


 遥か遠くに鮮やかな緑の塊が見える。建物の陰になっていて全容は掴めないが、何本もの木々が密集してできているのだと分かる。方角から判断して、ピラミッドを包みこんでいる林なのは間違いない。

 林の上部から、四角錐の頂点は覗いていない。木々の隙間から、側壁の砂色が垣間見えることもない。ピラミッドは木々によって完全に隠蔽されている。

 誰にも発見されたくないから、林に隠れるぎりぎりの大きさに作ったのだろうか? だとしたら、駅ビルの屋上から丸見えなのは間抜けすぎる。そもそも、人に見られたくないなら、どうしてあんなに目立つ見た目と大きさにしたのだろう? あの見た目で、あの大きさでなくてはならない理由があるのだろうか?

 考えても、考えても、謎は深まるばかりだ。

 それでも、粘り強く謎について考えながら、ナツキとチグサは炎天下を歩く。

 道順は分からない。一度、駅ビルの屋上から林がある方面を見てはいるが、ピラミッドの異様な存在感に注意を奪われたせいで、そこに至るルートを頭にインプットする余裕はなかった。

 もう一度屋上へ行ってたしかめてこよう、という提案は、どちらの口からも出なかった。駅ビルは林とは反対方向にあるので、立ち寄れば時間を大幅にロスしてしまう。日没までに帰宅すると約束している今日は、そんなことをしている暇はない。

「道に迷いそうで、怖いよね。あんまり行ったことがない方面だし」

「迷ったとしてもなんとかなるでしょ。迷路を歩くわけじゃないんだから」

 しきりに不安を口にするチグサを、ナツキが彼女らしいポジティブさで笑い飛ばす。歩き出して間もなくは、そういうやりとりが多かった。

 二人が現在歩いている道の右手には、田んぼが広がっている。風が吹き抜けるたびに、まだ青い稲穂がさらさらと音を立て、緑の匂いを運んでくる。

 ナツキは小学校低学年のころに、自宅近くの田んぼでオタマジャクシやカブトエビを獲って遊んだことを思い出し、懐かしい気持ちになった。その話をしたいと思ったが、あいにくチグサは、虫などの小さな生き物が好きではない。機嫌を損ねたくなかったので、その欲求には蓋をすることにする。ピラミッド行きに付き合ってもらっているのだから、そのくらいの譲歩は当然するべきだ。

 田んぼを通りすぎると、左手にコンビニが見えた。

「チグサ、どうする? 飲み物、買っておいたほうがいいんじゃない」

「渇いてないから、今はいいよ」

 飲み物は持参するのではなく、道中で調達する予定になっていた。もう少し歩けば他の店があるだろうから、ここはスルーしても差し支えない。そう判断し、ナツキは親友の意見を支持した。

 時間が経てば経つほど、チグサが不安を表明する機会は減っていく。いつしか楽観ムードが二人を包んでいた。

 しかし、公園を発って二十分ほど歩いたころ、雲行きが怪しくなる。

「あっ、またお地蔵さまだ。……って、あれ?」

 ナツキは思わず歩みを止めた。隣を歩くチグサも立ち止まる。

 三叉路のすぐ手前の道路脇に、一体の地蔵が建っている。膝くらいの高さの、鮮やかな赤い涎かけをかけた地蔵だ。本体も、涎かけも、供物を置くための受け皿も、古びているが清潔感がある。

 汗で貼りついた前髪をどけるように手の甲で額を拭って、ナツキは地蔵に顔を近づける。間違いない。

「このお地蔵さま、さっき見たやつだね」

「とういうことは、元の道にいつの間にか戻ってきちゃったってこと?」

 チグサは硬い表情で頷き、胸ポケットから取り出したすみれ色のハンカチで首筋を拭った。

 二人は五分ほど前に三叉路に行き当たり、左の道を進んだ。林の方角に伸びていたから、というのが選択の理由だ。

 大きくカーブしている以外に、これという特徴はない道だったので、周囲にはあまり注意を払わなかった。他愛もない話をしながら道なりに進み、ふと気がつくと、赤い涎かけの地蔵が道端に佇んでいた、という経緯だった。

「だんだん道が入り組んできたし、これからはもう少し、周りに注意しながら進んだほうがいいかもしれない」

 チグサは真剣な顔つきでそうつぶやいて、右の道へと進んでいく。ナツキはすぐに横に並んだ。

 二人は基本的に、林の方角へと続いている道を優先的に歩いた。しかし、ピラミッドまで近づけば近づくほど、途中で大きく曲がって目標から遠ざかったり、行き止まりに阻まれたりと、思いどおりに進めなくなっていく。

 分岐点で足を止めるたびに、二人はどちらに進むかについて協議した。ナツキも一応、自分の考えを口にしたが、最終的には必ずチグサの意見に従った。直感を頼りにする自分よりも、論理的なチグサを信頼したほうが、正しい道を進める確率が高いと思ったからだ。

 百発百中ではないにせよ、チグサの判断は功を奏することが多かった。ただ、道が複雑になるにつれて、考えこむ時間が増えていき、選択を誤る頻度が高まっていく。

「あ……」

 今日これで何度目だろう。進路にそびえた、高さ二メートルあまりの苔むしたブロック塀に、二人は足止めを余儀なくされた。

 道の左右には、二人の背丈に迫る高さの雑草が、壁を作るように密生している。さらにその外側には、コンクリート製の古びた建物が建ち並んでいる。脇道はどこにも見当たらない。

「ごめん。こっちだと思ったんだけど、違ったみたい」

 チグサは申しわけなさそうに眉尻を下げる。その表情は冴えない。責任を強く感じているらしい。進むべき道か否かを判断する役目を、実質的にチグサに任せきりにしているナツキにも、責任は等しくあるのに。

「ナツキ、引き返そう」

 チグサをフォローする一言をかけたかったが、「そうだね」としか言えなかった。

 二人は選ばなかったほうの道を進んだが、すぐにまた歩みを止めざるを得なくなった。行く手に金網フェンスが立ち塞がり、それ以上は進めなくなっていたのだ。

 ナツキは軽い混乱に見舞われた。理解は遅れてやって来た。二手に分かれた道のどちらを進んでも行き止まり。それはつまり、

「わたしたち、ずっと間違った道を歩いてきたってこと? そんな……!」

 じゃあ、どこから? どこから間違っていたの?

 目の端でなにかが動いて、衣擦れの音がかすかに聞こえた。振り向いて、ナツキは叫ばずにはいられなかった。

「チグサ!」

 チグサが地面にしゃがみこんでいるのだ。すぐさまナツキも屈み、顔を覗きこむ。

「……すごい汗」

 顔色が明らかによくない。呼吸はほんの少し速いようだ。熱中症、だろうか。

 ほんの数分前の、チグサの冴えない表情が思い出される。間違った道を選んでしまうことが続いて、落胆しているのだと思っていたが、実際は体調が悪かったのだ。隣にいながら、異変に気づいてあげられなかったなんて。

 チグサの帽子を脱がせると、前髪が汗でべっとりと濡れていた。胸ポケットからハンカチを取り出し、前髪と額を拭く。

「大丈夫? しんどい?」

 問いかけに、チグサは力なく首を縦に振った。

 意思表示はできる。しかし、喋れないし、立っていられないし、発汗はおびただしい。楽観できる状態ではないのは、誰の目にも明らかだ。

「立てる? 頑張って陰まで行こう」

 チグサは先ほどよりもしっかりと頷いた。

 体を支えながら立たせ、民家のブロック塀の間際、庭木が作った日陰へと移動する。門口から敷地を覗くと、二台が停められる駐車スペースに車はなく、コンクリートの地面の白さが夏なのに寒々しい。勝手に休んでも咎められる心配がないと喜ぶべきなのか、すがりつける人がいないと落胆するべきなのか、ナツキは分からなかった。

 汚れていないことを目で確認してから、アスファルトの地べたに座らせる。短い移動のあいだにまた汗をかいていたので、再びハンカチで拭い、帽子をうちわ代わりにして送風する。ハンカチは絞れそうなくらい湿っていて、これ以上拭っても不快感を与えるだけだろう。

「ごめんね。チグサの体のことを考えないで、こっちのペースで歩いちゃって」

 瞳の奥を覗きこみながら言葉をかける。汗にまみれ、火照った顔を見られるのが嫌らしく、チグサは膝に顔を埋めた。

「あっ、水分補給したほうがいいね。ていうか、絶対にしなきゃ。買ってくるから、チグサはここで待ってて」

 立ち上がって、そして気がつく。

 もうずいぶん長いあいだ、飲料を売っている店も、自動販売機も見かけていない。

 最後に見たのは、田んぼの近くにあったコンビニだが、現在地からは徒歩で十五分はかかる。全力疾走をしたとしても、元の場所まで戻ってくる時間を含めれば、かなり長く待たせることになる。

 七月の日中にもかわらず、ナツキの体は寒風に吹きつけられたかのように震えた。ミンミンゼミが急にやかましく鳴き始めた。

 飲み物を持つと荷物になる。途中で見かけた店で買えばいいから、お金さえ持っていればそれでいい。そう言ったのは、他ならぬナツキだ。

 こみ上げてくる罪悪感に、シャツの左胸を強く握りしめる。

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