着替える探偵
しばらく前に流行った、静かなバラード。店内に響き渡る音が、俺の緊張を緩めてくれていた。
「緊張を解くには、温かい飲み物が一番いいんですよ」
「あ」
マスターがホットミルクを俺たちに差し出す。俺と席一つ分間を空けて、先ほど犯罪一歩手前だった男が座っていた。出されたミルクに、戸惑っている。
「俺のおごりよ。『こちらの方からです』ってやつだ」
男を見て、俺は冗談めかしてカップを掲げた。正直男相手にやるのは、これっきりにしたい。男は小さくうなずいてカップに口をつけ……そのままグイッと飲み干し始めた。ゴクッ、ゴクンッと喉仏が上下し、数秒後にようやく口が離れた。
「ぷはっ」
男の吐息は、溜め込んでいたものを吐き出すかのようだった。余韻は長く、憑き物でも落ちたかのように虚空を眺めていた。
「はあ」
体感では数分ほどの間を経て、男が現実へと戻ってきた。俺はミルクに軽く口をつけ、男と相対した。が、開口一番、男は俺たちに頭を下げた。
「すみませんでした。少々、色々とあったもので、かなりヤケに」
「それはそれは。あれだけ飲み食いをしてても、さぞ針のむしろに座っている気分だったでしょう」
「恥ずかしながら」
頭を上げた男が、後頭部を掻き、照れくさそうな顔を見せる。こうして見ていると、ただの好青年だった。無精髭と頬のこけ方から年かさに見えるが、いい
「ジョンさん?」
推理に思いを巡らせ始めたところで、マスターから声がかかる。俺は顔を上げた。マスターの顔が、少々心配げだった。
「どうしたんです? 急に深刻な顔をして」
マスターが唸る。横を見れば、男ですら不安げだった。ガッデム。コイツは俺の悪癖だった。
「いや、すまん。ちょっと考え事をだな」
「そうですか」
「ああ。ちょいとトイレ借りるぞ」
ついでにそっと、マスターに目配せ。タイミングを図ってこっちに来いと。マスターは小さくうなずき、言葉を返した。
「どうぞ」
おう、と返して、俺はトイレへ行く。ゆっくりめに小水を済ませ、出てきたところでマスターとかち合った。いくつか言葉を交わす。
「あの人、旦那のところで預かれませんかね? ひとまず、やらかしもしてないようですし。働き口はなんなら私のところで」
マスターの口調が、少し変わった。だが俺は慣れていた。本当に二人だけの時、マスターは俺をこう呼ぶのだ。
「ふむ。だがまだ事情が聞けてねえ。悪党ならぶちのめす必要があるし、悪事に巻き込まれてるならソイツをどうにかせんといかん。あと、
「おっと。しかし旦那、相変わらずですね。家と職があれば、人はなんとかなるでしょうに」
マスターの言葉に、俺は一呼吸を置いた。マスターとの付き合いは長い。だから彼はわかっている。だがそれでも、時に問いかけたくなるのだろう。きっと性分なのだ。だから。
「なに。俺の性分で、悪癖だ。この町には、気苦労しかないからな。他人のそれは、減らしたい」
性分には、性分だ。昔にソイツでだいぶえらいことになったが、それでも魂は変えられなかった。つまり。
「くくっ。つまるところ、旦那はお人よしですね」
「だろうな。あと、マスターも同じだろう?」
「かもしれませんね。これは失礼」
マスターは小さく俺に頭を下げ、戻っていく。俺は少しだけ携帯を確認したあと、のっそりとカウンターに戻った。
「うー。すまん。ぶっといのが出ちまった」
「ちょっとジョンさん」
砕けた言葉と、マスターの返し。オーケー。すべて元に戻った。ならやることは一つだ。
「なあ、アンタ。どうしてあんな真似をしでかしたんだい?」
***
夕刻。カラスの鳴き声が事務所の外で響いていた。
「で、あの人を連れ帰って来たんですか」
「まあな」
「シャワーも、部屋も貸してあげるんですか」
「そうだ」
サーニャ嬢が、掃除機を片手に俺から目をそらした。おそらくだが、呆れ返っているのだろう。ため息まで吐いているから、ほぼ間違いない。
「とん、っっっだお人よしですね、ジョーンズさんは」
タメの入った言葉に、俺は自分が正解を引いたと確信した。そしてその語句は言われ慣れているのだ。
「嬢だってわかっているだろう? 普通なら」
「わかっていますよ? わかっていたつもりでしたよ? 私もジョーンズさんに助けられた一人ですから。でも普通、あっさりと連れて帰って来ますか? 本性がアウトだったらどうするんですか?」
遮られ、まくしたてられる。どうやら呆れを通り越しておかんむりらしい。さて、どうしたものか。彼から聞いた話が事実なら。俺としては見過ごし難い悪があるのだが。
プルルル……。
携帯の、安っぽいデフォルト呼び出し音が鳴ったのはその時だった。画面にはサワラビの顔。もしや。
「俺だ」
『ボクだ』
お決まりのやり取りのあと、彼女は言う。
『ようやく例のチップの解析が終了したよ。
「そんなにだったのか」
『そんなに、だ。詳しくは直で会ってから話すが、かなりの情報が込められていた』
心底驚いた風の声。今にもこちらへ向かって来そうな様子だ。いや、サワラビならすでに向かっていてもおかしくない。だが。
「オーケェイ。しかしサァラビィ。ちょいと頼まれてくれないか?」
俺はサーニャ嬢に背を向け、着替え始めた。電話はスピーカーにしてある。サーニャ嬢は黙りこくっていた。介入しても、益がないと考えているのか。
『なんだい? 今そっちに向かっているから、引き受けるのはやぶさかじゃないよ?』
「グッドだ」
俺はお気に入りの一張羅へと身を固めていく。灰色のシャツ、赤いネクタイ。黒のジャケットに、茶色のトレンチコート。ここから先は、探偵――あるいは装甲探偵――の時間だ。
「ちぃとやることができちまってな。サーニャ嬢のお相手をして欲しい。ああ、あと。新規の住人が入ったから、一度様子を見てやってくれ」
『なるほど。大家代行と留守番だね。給金は?』
「お互い様、と言うにはちと頼み過ぎか」
俺は一拍言葉を切った。金でもいいが、と思ったところで、はたと気づく。サワラビが饅頭屋に興味を持った。ならばちょうどいい。俺は言外の意味を込め、口を開いた。
「オーケイ。今度饅頭屋へ行こう。それで手打ちにしてくれ」
『饅頭。うん、いいじゃないか。よしとしよう。そういうことだろう?』
「そういうことだ」
了解、期待してるよ。そう言って、サワラビの声は途切れた。サーニャ嬢へと、目を運ぶ。彼女の目には、怒りというよりも不安の色が浮かんでいた。
「どうした?」
「ここで私が止めても、ジョーンズさんは出ていくんですよね」
「ああ」
すまない。そんな言葉が飛び出しかけた。だが抑え込む。そんな俺は、俺じゃない。俺が俺の信条に基づく行為をして、なぜ罪悪感を負わねばならないのか。
「もうすぐサワラビが来る。青年のとこの鍵は机に置いた」
サーニャ嬢の横を抜け、ドアノブに手をかける。外の気配に気づき、一つ声を置いた。
「頼んだ」
「頼まれた」
出ていく俺と入れ替わりに、くすんだ白衣に金髪の女が入っていく。右の拳を一つ握り締め、俺は暮れゆく町へと身を滑らせた。
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