着替える探偵

 しばらく前に流行った、静かなバラード。店内に響き渡る音が、俺の緊張を緩めてくれていた。


「緊張を解くには、温かい飲み物が一番いいんですよ」


「あ」


 マスターがホットミルクを俺たちに差し出す。俺と席一つ分間を空けて、先ほど犯罪一歩手前だった男が座っていた。出されたミルクに、戸惑っている。


「俺のおごりよ。『こちらの方からです』ってやつだ」


 男を見て、俺は冗談めかしてカップを掲げた。正直男相手にやるのは、これっきりにしたい。男は小さくうなずいてカップに口をつけ……そのままグイッと飲み干し始めた。ゴクッ、ゴクンッと喉仏が上下し、数秒後にようやく口が離れた。


「ぷはっ」


 男の吐息は、溜め込んでいたものを吐き出すかのようだった。余韻は長く、憑き物でも落ちたかのように虚空を眺めていた。


「はあ」


 体感では数分ほどの間を経て、男が現実へと戻ってきた。俺はミルクに軽く口をつけ、男と相対した。が、開口一番、男は俺たちに頭を下げた。


「すみませんでした。少々、色々とあったもので、かなりヤケに」


「それはそれは。あれだけ飲み食いをしてても、さぞ針のむしろに座っている気分だったでしょう」


「恥ずかしながら」


 頭を上げた男が、後頭部を掻き、照れくさそうな顔を見せる。こうして見ていると、ただの好青年だった。無精髭と頬のこけ方から年かさに見えるが、いい表情ツラをしているし、二十代の前半ぐらいだろう。と、すると……。


「ジョンさん?」


 推理に思いを巡らせ始めたところで、マスターから声がかかる。俺は顔を上げた。マスターの顔が、少々心配げだった。


「どうしたんです? 急に深刻な顔をして」


 マスターが唸る。横を見れば、男ですら不安げだった。ガッデム。コイツは俺の悪癖だった。


「いや、すまん。ちょっと考え事をだな」


「そうですか」


「ああ。ちょいとトイレ借りるぞ」


 ついでにそっと、マスターに目配せ。タイミングを図ってこっちに来いと。マスターは小さくうなずき、言葉を返した。


「どうぞ」


 おう、と返して、俺はトイレへ行く。ゆっくりめに小水を済ませ、出てきたところでマスターとかち合った。いくつか言葉を交わす。


「あの人、旦那のところで預かれませんかね? ひとまず、やらかしもしてないようですし。働き口はなんなら私のところで」


 マスターの口調が、少し変わった。だが俺は慣れていた。本当に二人だけの時、マスターは俺をこう呼ぶのだ。


「ふむ。だがまだ事情が聞けてねえ。悪党ならぶちのめす必要があるし、悪事に巻き込まれてるならソイツをどうにかせんといかん。あと、ヤサの有無もあるだろう?」


「おっと。しかし旦那、相変わらずですね。家と職があれば、人はなんとかなるでしょうに」


 マスターの言葉に、俺は一呼吸を置いた。マスターとの付き合いは長い。だから彼はわかっている。だがそれでも、時に問いかけたくなるのだろう。きっと性分なのだ。だから。


「なに。俺の性分で、悪癖だ。この町には、気苦労しかないからな。他人のそれは、減らしたい」


 性分には、性分だ。昔にソイツでだいぶえらいことになったが、それでも魂は変えられなかった。つまり。


「くくっ。つまるところ、旦那はお人よしですね」


「だろうな。あと、マスターも同じだろう?」


「かもしれませんね。これは失礼」


 マスターは小さく俺に頭を下げ、戻っていく。俺は少しだけ携帯を確認したあと、のっそりとカウンターに戻った。


「うー。すまん。ぶっといのが出ちまった」


「ちょっとジョンさん」


 砕けた言葉と、マスターの返し。オーケー。すべて元に戻った。ならやることは一つだ。


「なあ、アンタ。どうしてあんな真似をしでかしたんだい?」


 ***


 夕刻。カラスの鳴き声が事務所の外で響いていた。


「で、あの人を連れ帰って来たんですか」


「まあな」


「シャワーも、部屋も貸してあげるんですか」


「そうだ」


 サーニャ嬢が、掃除機を片手に俺から目をそらした。おそらくだが、呆れ返っているのだろう。ため息まで吐いているから、ほぼ間違いない。


「とん、っっっだお人よしですね、ジョーンズさんは」


 タメの入った言葉に、俺は自分が正解を引いたと確信した。そしてその語句は言われ慣れているのだ。


「嬢だってわかっているだろう? 普通なら」


「わかっていますよ? わかっていたつもりでしたよ? 私もジョーンズさんに助けられた一人ですから。でも普通、あっさりと連れて帰って来ますか? 本性がアウトだったらどうするんですか?」


 遮られ、まくしたてられる。どうやら呆れを通り越しておかんむりらしい。さて、どうしたものか。彼から聞いた話が事実なら。俺としては見過ごし難い悪があるのだが。


 プルルル……。


 携帯の、安っぽいデフォルト呼び出し音が鳴ったのはその時だった。画面にはサワラビの顔。もしや。


「俺だ」


『ボクだ』


 お決まりのやり取りのあと、彼女は言う。


『ようやく例のチップの解析が終了したよ。饅頭マントウ屋の元締めに、一度会ってみたくなった』


「そんなにだったのか」


『そんなに、だ。詳しくは直で会ってから話すが、かなりの情報が込められていた』


 心底驚いた風の声。今にもこちらへ向かって来そうな様子だ。いや、サワラビならすでに向かっていてもおかしくない。だが。


「オーケェイ。しかしサァラビィ。ちょいと頼まれてくれないか?」


 俺はサーニャ嬢に背を向け、着替え始めた。電話はスピーカーにしてある。サーニャ嬢は黙りこくっていた。介入しても、益がないと考えているのか。


『なんだい? 今そっちに向かっているから、引き受けるのはやぶさかじゃないよ?』


「グッドだ」


 俺はお気に入りの一張羅へと身を固めていく。灰色のシャツ、赤いネクタイ。黒のジャケットに、茶色のトレンチコート。ここから先は、探偵――あるいは装甲探偵――の時間だ。


「ちぃとやることができちまってな。サーニャ嬢のお相手をして欲しい。ああ、あと。新規の住人が入ったから、一度様子を見てやってくれ」


『なるほど。大家代行と留守番だね。給金は?』


「お互い様、と言うにはちと頼み過ぎか」


 俺は一拍言葉を切った。金でもいいが、と思ったところで、はたと気づく。サワラビが饅頭屋に興味を持った。ならばちょうどいい。俺は言外の意味を込め、口を開いた。


「オーケイ。今度饅頭屋へ行こう。それで手打ちにしてくれ」


『饅頭。うん、いいじゃないか。よしとしよう。そういうことだろう?』


「そういうことだ」


 了解、期待してるよ。そう言って、サワラビの声は途切れた。サーニャ嬢へと、目を運ぶ。彼女の目には、怒りというよりも不安の色が浮かんでいた。


「どうした?」


「ここで私が止めても、ジョーンズさんは出ていくんですよね」


「ああ」


 すまない。そんな言葉が飛び出しかけた。だが抑え込む。そんな俺は、俺じゃない。俺が俺の信条に基づく行為をして、なぜ罪悪感を負わねばならないのか。


「もうすぐサワラビが来る。青年のとこの鍵は机に置いた」


 サーニャ嬢の横を抜け、ドアノブに手をかける。外の気配に気づき、一つ声を置いた。


「頼んだ」


「頼まれた」


 出ていく俺と入れ替わりに、くすんだ白衣に金髪の女が入っていく。右の拳を一つ握り締め、俺は暮れゆく町へと身を滑らせた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る