第二話お人よしどもの狂想曲

避難した探偵

 温暖化が進み、五月にして冷房が必需品になる今の時代でも、カフェが天国なのは変わらなかった。


「あー、美味いっ!」


 半ば雄叫びにも近い声を上げ、俺は飲み干したグラスをコースターに置いた。七番街、キンキンに冷えた馴染みのカフェ。そしてカウンター。七番街はタウンナンバー四十九フォーティーナインの一部として認識されており、電気代は安いのだ。


「冷房がガンガンに掛かるってのはいいねえ、正義だ!」


「おやおや。ジョンさんにしちゃ珍しいね。普段はもっと渋い顔してるでしょう」


 カップを拭く姿さえ絵になるマスターが、俺に向かって軽口を叩く。他の人間が相手なら反論するところだったが、俺は黙ってうなずいた。


「マスターにしちゃ、いい推理だ。俺は今、事務所に居づらい」


「あらま」


 マスターの口が、小さく開く。それもそうかと、俺は思う。俺がプライベートでここに来るのは、年に数回程度だった。


「どうしたんだい」


「どうもこうもない。先日連れてきた娘がいただろ?」


「あー。いじめていた方ですか?」


「いじめてねえ。まあそれは置いておく。そいつがな」


 俺の語り口は、過去へとさかのぼっていく。


 ***


 ヤボ用のせいで寝不足の俺を、けたたましい音が横合いから殴りつけてきた。頭を振り、歯ぎしりしながら目を覚ますと、そこには一週間前と変わらず垢抜けない女子がいた。掃除機を操り、部屋を整えている。不愉快な光景だった。


「おまえの部屋は隣だろう」


「ジョーンズさんのお部屋が、あまりにもあんまりなので。ついでです」


 暑い、冷房は、と考えたところで思い出す。アパートの面々はともかく、自室の冷房は昨年来壊れっ放しだった。直さねばならないが、忙しさにかまけすぎたのだ。そこに追い打ちで掃除機の音とそばかす娘。腹立たしさが、語気を荒くさせる。


「今までこうしてきたんだ。ほっとけ」


「ほっとけませんよ」


「あ?」


「ジョーンズさんは家主で、恩人ですから。私がほっとけないんです」


「むう」


 俺は唸った。正直俺には、サーニャ嬢のこういうところが理解できなかった。いや、理解できるのかもしれないが、向き合いたくなかった。今までの暮らしが、打ち壊される恐怖。俺は怯えているのか。


 今は角に積み上げられている本や資料が、殺風景な本棚に消えていくことを。部屋のカオスが消え、きれいなもの、美しいものに埋め尽くされていくことを。そうした中で、死と気苦労に満たされてしまった自分が、変わってしまうことを。


「恐れているのか?」


「はい?」


 迷いは小さな自問へと変わり、サーニャ嬢の反応を招いた。俺は軽くそれを悔い、決断した。埒が明かない。避難しよう。適当に髪をまとめ、立ち上がる。しかし声が、押し留めた。


「出かけるのなら、その」


「ん?」


 先ほどまでとは若干異なる恥ずかしげな声。俺は半ば無意識でそばかす娘を見た。わずかに頬を赤らめている。なんだというのだ。


「シャワーを浴びたほうが、いいと思います。その、少し臭いますので」


「っ」


 不意打ちの言葉に、俺は軽く腕の匂いを嗅いだ。事実、彼女の言う通りだった。してやられた感覚に頭をかき、言葉を残す。


「目を覚まして来る」


「ごゆっくり」


 俺は配慮しながら服を脱ぎ、浴室へと向かった。そしてシャワーを浴び、逃げるようにしてカフェへと赴いたのだった。


 ***


「それで逃げて来た、と」


「逃げてない、避難だ。ったく、先週からこの方、どうにもツキがねえ」


 俺はお代わりしたアイスコーヒーを一息にあおり、テーブルに置いた。たしかに大蜘蛛野郎の詐欺グループの件は、九番街に借りを作りつつも無難に処理できた。しかし饅頭マントウからせしめたチップが、難関過ぎた。


『少し時間をくれ。十日もあれば、きっと』


 そんなことを言ってサワラビがチップを持ち帰ったが、未だに連絡がない。無論事務所にも顔を出さない。正直なところ、少々心配になり始めていた。


「そういう時もあるものだよ。言うだろう? 待てば海路の日和ありって」


「だからと言って、待ち続けてたらどこかでジリ貧だ」


 俺は三杯目のおかわりを宣言した。同時に、後ろの気配を探る。マスターとの会話で気がそれていたが、ここに来た時から嫌な気配がしていた。四人がけのボックス席に、客が一人。そこそこ飲み食いをしているが、未だに立ち上がる気配がない。


「マスター」


 俺が音量を落として声をかけると、彼は親指と人差指で輪っかを作った。『わかっている』という意思表示だ。


「あまり追い詰めなさんな」


 マスターも小声で言う。努めて聞こうとしないと、聞き逃しそうな声。


「刺激を与えすぎて、ヤケになられても困る」


 一理ある。彼は知らぬふりをしてグラスを磨いている。だが今ならわかる。数秒に一度、それもランダムなタイミングでそっちを見ている。かなりの付き合いをしていたはずだが、ここまでとは思ってもみなかった。


 五分……十分……十五分……。俺とマスターは談笑を装いながら気を巡らせる。男は動かない。いや。陰気というか、負のオーラのような空気が強まっていた。もしも他に客がいたら、おそらく逃げ出していたことだろう。


「どうする」


「そろそろ私は見てられませんね」


「だろうな」


 あくまで小さく言葉をかわし、俺は椅子から立った。探偵モードならいざ知らず、今の俺はかなりラフなスタイルだった。むやみに警戒されることもないだろう。ほんの数歩の距離を歩き、なるべく気さくに――


「寄るな」


「む」


「寄るんじゃねえ。俺は、俺は」


 男が俺に顔を向ける。本能が、俺の足を下がらせた。幾度も見てきた顔。この町の理不尽に押し潰され、打ち砕かれ、その中で見つけた悪あがきの甘い罠にすがりついた男の顔。


「一歩でも近付いてみろ。俺はコイツをヤッてやる」


 歯を食いしばり、目の端に涙を浮かべ、男は注射器と左腕を見せつけてきた。どうやら未遂のようで半分は安心したが、半分では脳が過活動を開始していた。近付かずして、いかに男をなだめるか。俺にとっては、逆に難しい話だった。


「ソイツはなんだ」

「なけなしの金で買ったんだ。【ビースト】だって言っていた。力さえあれば」


 ブルシット。やっぱりか。だがソイツは俺が許さない。『力さえあれば』? ふざけるな。そいつのせいで、俺は。必然、声に力が入る。入ってしまった。


「やめとけ。なけなしの金程度で買えるのは粗悪品だぞ。仮に力が得られても、いつかは堕ちる。獣になる。俺は何度も」


「うるさい! 俺は、力をっ!」


 経験からの説得は、反発を生んだ。刺激してしまった。注射器を握り締め、男は針を肌に通さんとした。半歩遅れながらも、俺は走り寄った。右腕めがけて、跳ぶ。


「だらっ!」


「んあっ!」


 転がるように長椅子へ倒れ込み、すんでのところで注射器を奪い取る。使われないように床に叩きつけ、粉砕した。そして、手の鳴る音。


 パンッ、パンッ。


 俺も男も、音の主を見る。マスターだった。笑みを浮かべたまま、彼は俺たちに告げた。


「ハイそれまでよ、です。まずは座って、お茶にしましょう」

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