第50話 心のほつれ

「い、いいよ、そんなことしなくたって」

 戸惑って手の動きを止めた公子に対し、要は彼女にしては珍しく、かすれ声で応じた。口の中が乾いて、張り付いていたところを急にしゃべろうとしたときみたいだった。

「でも」

「平気だよ。ちょっぴり、立ち眩みっぽくなっただけなんだから」

「だけど、顔色があんまりよくないように見える……」

 遠慮がちに指差す公子。要は自らの顔を手のひらでこすった。

「ほんと? 実は寝不足なんだよねえ。興奮して眠れなくて」

 そう言って舌先を覗かせた要だったが、公子の目には相手の笑顔が疲れを帯びているように映る。

「具合が悪いのなら、遠慮しないでよ。このまま観て歩ける?」

「多分、大丈夫」

 返事してから要は強めにうなずいた。そこへ、秋山が声を掛ける。

「無理はよくないよ、寺西さん。早めに切り上げて帰るっていう選択肢もあるから」

「そんなことしたら、秋山君のお目当てが観られなくなるんじゃない?」

 すっくと立ち上がる要。元気なところを示すため、無理をしたのかもしれない。

 公子も急いで立ち上がった。そうして秋山のさらなる返事を待つ。

「じゃあ、自動演奏のピアノだけさっと観て、帰るということにしたっていい。寺西さんが体調を崩したのをそのままにして、悪化させてしまったら、何にもならない」

「本当に何ともないから。くらくらしたけど、今は何とか」

「何とかって言うくらいなら、まだ心配だな。しばらく休憩するのはどう?」

 言いながら、周囲を見回す秋山。休める場所を探しているようだが、あいにくと順路の真っ只中とあって、ベンチ一つ見当たらない。

「少し前に、飲み物の自販機と長椅子があったぞ」

 頼井が言った。通ってきた方角を、肩越しに親指で示している。

「じゃあ、そこで少し休憩しよう。寺西さん、それでいいよね?」

 秋山が持ち掛けると、要は素直に受け入れた。心なしか顔色も回復しているように見えなくもない。

「だったら秋山君と頼井君とで、カナちゃんを連れて行ってあげて」

「えっ。公子ちゃんはどうするの」

 秋山が少なからずびっくりしたように、目を丸くしている。

「私は先に行ってる悠香達二人に、このことを伝えてくる。全然気付いていないのは確実でしょ。知らせなかったら、どんどん先に行ってこの建物を出ちゃう」

「そうか。あまり差が開くのはまずいな。公子ちゃん、頼む」

 彼の言葉にうなずくと、公子は場を離れ、小走り、いや早歩き程度のスピードで先を急いだ。他の入場者はさほど多くなく、ちらほらいるくらいだが、気を付けるに越したことはない。

 と、二区画を進んだところで、あっさり追い付いた。悠香と一成は、巨大オルゴールが音を奏でる部屋にいた。演奏が続いていたおかげで、要の挙げた悲鳴に気付かなかったのだろう。

 公子が声を掛けていいものかどうか迷っていると、タイミングよく演奏が終わった。背後から「ユカ」と名を呼ぶ。悠香はびくっとしたのか、ちょっとだけ肩をすくませ、振り返る。声を上げるのは一成の方が早かった。

「何してたのさ。曲、終わっちゃったよ!」

「うん、ゆっくり回っているから。少し聴けたからいいわ。それよりも二人に伝えることがあって来たんだけど」

「何? 頼井の面倒なら見切れないから、そっちに任せるわ」

 悠香が、冗談半分なのだろう、口元に微苦笑を浮かべて言った。

「あのね、カナちゃんが少し具合が悪いみたいで、立ち眩みを起こしてしまって」

「え?」

「それで今、自動販売機のあるところで休んでいるの。だから二人にはペースを落としてもらおうと思って」

「それはいいけど、カナの様子は?」

「本人はまだ観て回るつもりでいる。けれど、傍目にはそこまで元気がありそうに見えない、ていうよりも無理して気丈に振る舞っているように見えるのよね。だから、もしかしたら早めに引き返すことになるかもしれない」

「うーん、見てないけど、あなたがそこまで言うのであれば、無理させない方がよさそうね。かといって、私ら全員が揃って帰ると、カナに気を遣わせることになるかしら」

「……『私のせいでオルゴール博物館を充分に楽しめなかった』って考えるかもしれないってことね。それだったら、私かユカのどちらかが付き添って帰り、他の人達は残るとか」

「……」

 変なものを見るかのような視線を向けてきた悠香。公子はその意味がすぐには理解できず、思わず目を何度も瞬かせた。

「え、何?」

「あのね、そこは秋山君を第一候補にしなきゃいけないんじゃないのかな、カナの付き添い役。いくら友達的な彼氏と言ったってさ」

「あっ」

 しまった。

 気を抜いていたわけじゃあない。なんとなく、女子に付き添うのなら同性の女子がいいと決め付けていただけ。でも、このちょっとした綻びに、公子は大きく動揺してしまった。短い間だが目が泳ぎ、言葉を継げなくなった。

「そうね、失敗失敗」

 ようやく絞り出した台詞は、棒読みで乾いた物言いになっていた。

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