第44話 無邪気な一言
底の浅いトレイになみなみと赤ワインを注ぎ、小さな立方体に刻んだ牛肉をそれにつけ込む。シチューの下ごしらえである。
「奮発させてもらったから」
「酔っぱらいそう」
赤ワインを張ったトレイを見下ろしながら、要がつぶやいた。手の方がお留守になっている。
「まさか。熱でアルコールは飛んじゃうよ。香り付けがワインの主な役目だからね」
快活に笑うと、伊達のおばさんは、今度はドレッシング作りに取りかかり始めた。まず、透明なガラス製のボールを取り出し、キッチンに置く。
「山梨じゃあ、サラダのドレッシングにもワインを使うんだから」
冗談混じりの笑みを浮かべながら、手を素早く動かす。もう一つ、ボールが並べられた。
「もちろん、ワインそのものじゃなくて、ワインビネガー――ワインからできるお酢を使うのよ。香りがよく合うの」
どんと並べられた酢の容器は二本。
「二本分も使うんですか?」
あわてて声を上げる公子。
伊達のおばさんは、含み笑いをした。
「そうじゃないわよ。開けて、中を覗いてご覧なさい」
公子と悠香が一本ずつ手に取って、開けてみた。その中を、要も加わって三人で代わる代わる覗く。
「あ、こっちのお酢、赤い……」
「初めて見るでしょ?」
「はい」
「ワインから作るから、お酢も赤と白の二種類があるのよ。二つとも試してもらおうと思って、二本、出したわけ」
「ふうん」
感心していた三人だが、はっと我に返り、手伝っていたことを思い出す。
「あの、ドレッシング、私達でもできますよね? やりますから、言ってください」
「あはは。そうね、それじゃ」
人生の先輩からの指示を受け、てきぱきと作業する。
やがて、料理が完成した。
ワイン風味のビーフシチュー、干しぶどうの入ったドライカレー、サラダにはワインビネガーを用いたドレッシング二種類。デザートはぶどうをゼリーで包んだ冷菓。昼間とは一八〇度違う、完全な洋食メニュー。
「こういう方が好みだと聞いたから」
「レストランみたいだ」
秋山が感想をもらした。
「叔母さん、こういう料理も作れたんですか。知らなかった」
「畳の上に座っているのが、おかしい感じ」
居住まいを正しながら言ったのは、悠香。さっきから、何となく落ち着かない様子だ。
「私らは家でも外でも、腰を下ろさないと、ゆっくりご飯を食べられない性分になってるからねえ」
そう言う妻の言葉に夫――伊達のおじさんもうなずく。すでに少々お酒が入っているらしく、上機嫌と見える。どうやら、一成の心配はひとまず去った。
食事が始まると、伊達のおばさんが会話を引っ張る。元来、好奇心旺盛なのか、話好きなのだろう。
「ワイン資料館と工場見学、どうだった?」
「知ってることばっかりで、つまんなかった」
一成が真っ先に答える。わざと憎まれ口を利いている風なとこがあった。
「かず君には聞いてないの」
「面白かったですよ。興味深くて、色々、覚えたし」
当たり障りのない返事をしてから、秋山は公子へ視線を送ってきた。
(あれも話すの? ま、しょうがないけれど……)
「面白かったと言えば、やっぱり、あれだろ」
話し始めたのは秋山でなく、頼井。
「ワイン――じゃなくてぶどうジュースの試飲コーナーで、コルク栓を抜くのもやってみたんですが、一人、失敗してこぼしまして」
「へえ、どの子だろうね?」
問いかけに言葉では答えず、頼井は公子の方を見やった。
「朝倉さんが? ふうん、落ち着いているように見えるのにねえ」
声が一段、高くなった。
相手から見つめられた公子だが、自分で自分の失敗を話すのはためらわれる。
それではとばかりに、悠香が口を開く。
「公子、ちょっとどじをしちゃって。抜いたコルク栓が床に落ちるのを拾おうとした弾みに、瓶を倒して」
「あらまあ、ガラスの瓶、当たらなかったのかい?」
「それを秋山が支えたと」
頼井が継ぎ足す。
「おかげで瓶は当たりも割れもしなかったけれど、二人ともかなり濡れてしまいました」
「自分は手が濡れただけだ」
「濡れたに違いあるまい」
秋山の抗弁を、軽くいなした頼井。
「公子ちゃんの方が大変だった。そう言えば、髪に着いた分、本当に取れていたのかな?」
「うん、取れたみたい。チョッキの方は匂いが残ったけど、香水でもしたと思えば」
「甘い香りで、男を誘うんでしょ」
いかにも「おばさん」めいた口調で、伊達のおばさんが公子を冷やかす。
「そんなんじゃありませんっ」
「そうかなあ」
今度は一成。公子の内で、嫌な予感がした。
「公子おねえちゃん、工場の化粧室で髪を洗ってから、秋山のにいちゃんに匂い、嗅がせていたよね」
「あのな」
腰を浮かしかけた秋山。無論、立ち上がりはしないが、結構、あせっているのが端から見ていてもよく分かる。
「そういう誤解されそうな言い方、やめろって」
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