第10話 彼が再びノックした

「カナちゃんはまだだろ、宿題」

 だーめとばかり、頼井はテキストを広げて要の顔の前に持っていく。

「心配なら、俺が送っていくよ。だめ?」

「……仕方ないかあ」

 ふくれていた要だったが、あきらめたらしい。

「自分がやらなかったのが悪いんだもんね」

 要は皿を横に押しやると、やる気を起こした顔つきで、鉛筆を握った。

「宿題のノートはどうするの? そう、秋山君のノートのことだけど。借りっぱなしでいい?」

 悠香が確認を取る。

「あ、そうか。そうだね、頼井に渡しておいて。頼井?」

「分かった。明日にでも返しに行く」

「頼む。じゃあ、公子ちゃん」

「ええ。――そうだ。後片付け、お願いね」

 手提げかばんを持ったまま、公子は振り返った。

「ああ、もちろん、それぐらい。公子こそ、料理を作ってくれてありがとね。本当においしかったよ」

「ふふ、二度と出ない味かもしれないけどね。それと、ご両親によろしくね。じゃあ」

 秋山を先にして、公子は外に出た。

「天気は……大丈夫だ」

 空を見上げる秋山。つられて公子も見上げる。

「雲はないみたいだけど……今夜は星、あまり見えてないわ」

 ちょっとがっかり。

「前のときは特別だったんだね。奇跡的によく見えた。今夜は……ぱっと見ただけだと、恒星はさそり座のアンタレスが分かるぐらいだ」

「ほんと。……冬だったら、もっとよく見えてた気がするんだけど」

「冬の方が空気がきれいだそうだよ、確か」

「だからね。私、この前、星座の本を読んでみたんだけど、リゲルが好きになっちゃった。あと、シリウス」

「リゲルはオリオン座だったよね? 水色の星」

「そうだったわ。シリウスはおおいぬ座。空で一番輝いてる星」

「それは間違い」

 秋山の断定口調に、公子は足を止めた。

「え? だって書いてあったわ。まさか、月とか惑星とかは入れないでしょ」

「もちろん。恒星に限った話だよ」

 立ち止まっていた秋山だったが、また歩き始めた。公子もついて行く。

「……分からないわ。本が間違ってない限り」

「ふふ、はははっ。いいなあ、予想通りの反応って」

「反応って、ひっかけクイズみたい……」

「そうなんだ、ひっかけだよ。僕が言っているのはね、太陽だよ」

「太陽?」

「恒星だよ」

「……そっか。私、さっき、『空で一番輝いてる星』って言ったんだ」

「当たり、だよ。正確に『夜空』と言いましょう」

「意地悪だなあ」

「そんなつもり、ないんだけど」

 紙飛行機を飛ばすポーズをした秋山。

「飛行機が好きだからかな、宇宙とか星座とかにも、興味あるんだ」

「分かるわ、その気持ち」

「そういや昼間、子供っぽいとは言わなかったんだ、公子ちゃん。何か……うれしくなるよ」

「実際、そう感じたんだもの。わざわざ手作りするぐらい、その、大げさかもしれないけど、情熱があるんだって分かったし」

「ありがとう」

 満足げな秋山の笑顔が、タイミングよく外灯に照らし出される。

(何て……素敵な表情をするんだろう)

 公子は、秋山の瞳、虹彩に魅入られそうになる。

(きれいな目をしているね。夢の小さな結晶を語るあなたの目)

「部活を選ぶとき、星に関係するのって考えなかった?」

「天文部はなかったしねえ。理科部になるのかな? それにしたって、望遠鏡で星を覗くなんて無理だよ。望遠鏡自体、部にないはずだから」

「そうだっけ?」

「多分。それよりさ、公子ちゃんも星に興味が出てきたんだったら、今度、プラネタリウムを観に行ってみない?」

「え?」

 それってデート?なんて思った公子だが、頭の中ですぐに打ち消す。

「……うん。楽しそう。みんなで行こうね」

 公子の返事に、秋山はただ黙ってうなずいた。

 公子は会話を続けるべく努力する。

「いつにしよっか?」

「――今すぐには決められないだろ。みんなで行くのなら」

「そっか……」

 しまったと、舌先をちろりと出す公子。

(失敗、失敗。ごめんね、秋山君。悪気はないの。だけど、カナのことがあるから、私は……。今、こうして二人きりでいるだけでも、うれしい反面、悪いことしている気がしちゃって……)

「ああ、家、見えてきたよ。――もう」

 語尾に小さな声で付け加えられた、「もう」が気になった。

「さよならだね、今夜は」

「ええ……。ありがとう」

 どうしても引き留めたくなって、言葉を続ける公子。

「ありがとう。その、宿題教えてくれたし、料理を手伝ってくれたし、こうして送ってくれて……」

「たいしたことないよ」

 言って、向きを換え、行こうとする秋山。

 それを公子が見送っていると、ふと秋山の足が止まった。

「どうしたの?」

「一つだけ、大変だったなって思って」

 公子は、首を傾げて意思表示。分からない。

「たまねぎ、切るのはつらいぜ。練習しようかな!」

 おどけたその物腰に、一瞬、あっけに取られた公子だったが、すぐにおかしくなってきた。

「あはははっ。そうね、お願い!」


 公子が、そろそろ髪を切ったらと母親から言われたのは、八月三十一日、夏休み最後の日の夜だった。

 お風呂上がりの公子がパジャマ姿のまま髪を乾かしていると、最初に父親から声をかけられた。

「長くなってるなあ」

「えっ?」

 ドライヤーの音で聞こえにくい。スイッチを切って、もう一度言ってくれるよう、父の顔を覗く。

「たいしたことじゃない。髪、伸びたな。そう言ったんだよ」

「何だあ」

「そろそろ切ったら?」

 今度は母親。

「折角、新学期を迎えるんだし、気分一新に」

「いいけど……明日、新学期が始まるのに、今日はもう切れないわ」

「別に新学期のスタートに、ぴったり合わせろと言ってるんじゃありませんよ。お金渡すから、理髪店に行ってらっしゃいな」

「うん。その内にね」

 うなずいて、公子はドライヤー作業に戻った。

 それから一週間。ようやく、公子は決めた。

(今日はいつもより早めに終わるはず。学校からの帰り、理髪店に行こうっと)

 そう計画を立て、朝、公子は家を出た。

 学校までの途中、珍しく、秋山といっしょになった。

「おはよ」

「あ、え? 秋山君、部の朝練……」

 拳法部はよく早朝練習があるので、秋山と公子が並んで通学することは、これまでに数えるほどしかない。

「今日はさぼり。それより……話があるんだ」

「何?」

 公子が笑顔を向けると、秋山はいつもより心持ち緊張している様子で、何やら逡巡している。

「その……今日の放課後、少しだけ時間ほしいんだ」

「放課後」

 公子の頭の中に、理髪店のことが浮かぶ。

(いきなり予定が狂うかも。でも、秋山君ならいいわ。きっとプラネタリウムに行く話だ、すぐ終わるだろうし)

 短い間にそう判断し、公子は答える。

「うん、大丈夫。ただし、本当に少しだけね」

「それでいいよ。すぐすむはずだから」

 このとき、公子は秋山の話し方がいつもと微妙に違うことに、まったく気が付かなかった――。


 かきん。

 野球部の練習している音が、グランドから外れた校舎の裏手にいても、よく響いてきた。

 どきどきしている自分の胸に、公子は手を当てた。状況は二年前のあのときと、酷似している。

「答、聞かせてほしい」

 真正面、少しの距離を置いて、立っているのは秋山。傾きつつある太陽が彼を背中から照らすので、その表情はあまり判然としない。

 慣れつつあると言っても、男子と接するのがまだまだ苦手な公子。だが、秋山は特別だ。小学生の頃から知っているせいもあるだろうし、何と言っても公子自身、彼のことが好き。

 心ならずも一度断り、心の中だけでずっと憧れ続けてきた男の子から、こんな風に――告白されるなんて……。公子はうつむいたまま、混乱しながらも落ち着こうと必死にたたかっていた。

「二年前とは違う答、聞きたい」

「……」

 言葉が出てこない。想いの相手から告白されたら、すぐに受けるのが普通かもしれない。でも、今の公子には受けられない事情があった。

(カナ……)

 友達を裏切るような真似はできない。

「あ、あの」

 ようやく、それだけ言えた。秋山はいい返事を期待するかのように、小さくうなずく。

「あの……ご、ごめんなさいっ」

 背中が冷やーっとしてくる。周りの空気が重たくなる。そんな感じ。

 今度は、秋山の方が言葉をなくしてしまったよう。

「……そう……」

 残念がると言うよりも、寂しそうに言った秋山。これも二年前、小学六年生のときと同じ。

「今まで通り、と、友達でいましょっ。ね」

 せめて自分の気持ちをほんのわずかでも示したくて、公子は付け加えた。しかし、その効果は疑問。これまた二年前と同じなのだから。

「……うん。友達で……ね」

 声が低くなっている秋山。

「ごめんなさい、本当に」

 頭を下げる。自分の髪がはらりと下がり、顔を隠してくれる。そのまま泣いてしまいたい。けれど、すぐに顔を上げなきゃ。

 公子は笑顔を作った。

 秋山も、ため息混じりに笑みを浮かべているよう見えた。

「こっちこそ……ごめん。いきなり、こんな話をして。忘れてくれていいよ」

「秋山君」

「でも、一つだけ、教えてほしい。――他に好きな人、いるのかい?」

「――」

 心にくさびでも打ちつけられたような気分。

(そんなこと……今聞かないでよ)

「いるのなら……あきらめるよ」

 秋山の声は、わずかに震えていた。

(あなたよ。私が好きなのは、秋山君。でも、言えない……)

 公子は、涙が自分の頬を不意に伝ったのに気づいた。どうにかこらえていたのに、秋山の問いかけで、限界を超えてしまった。

「ごめん」

 秋山がハンカチを、公子がそうするよりも早く取り出す。

「泣かないで」

 頬にあてがわれる白いハンカチが、次々に涙を引き取る。

(泣きたくないけど……泣きたい。喉が勝手に。痛い)

 ハンカチを受け取り、強く目に押し当てる。

「大丈夫? 本当にごめん」

「ううん。悪くない、秋山君は」

 ひっくひっくと嗚咽しながら、公子は小さな声で言った。

「好きな人――答えられない。……ごめんなさい」

「……そうだよね」

 納得したらしい秋山へ、公子はハンカチを返した。

「じゃ。……その……また明日、教室でな!」

 秋山の言葉の語尾はトーンが高かった。自らを元気づけたい気持ちの表れかもしれない。

 きびすを返した彼は、そのままグランドの方に駆けていった。

「秋山君……ごめん……なさい」

 校舎の壁を背に公子は、ぐっと奥歯を噛みしめ、しばらくその場に立ちつくしていた。また、頬が濡れ始めた。

 どれぐらい時間が経っていただろう。公子は疲れも露に、顔を上げた。

(……髪、切れなくなっちゃった、な……。失恋を宣伝するような真似、できないものね)

 自分の髪をなでながら、公子は泣き笑いをした。

 野球部の練習する音が、まだ聞こえていた。


――つづく(第一章・終わり)

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