第十三話 空にかかる虹
「うわー、すごーい。虹みたい」
薫が目をキラキラさせて見上げている空で、雁行飛行をする炎龍がそれぞれの機体からスモークをたなびかせている。赤、青、黄色、緑、白の五色が織りなす軌跡は、大空をキャンバスに大きな虹を描いているようだ。薫の隣にいる静江も顔に笑みを浮かべている。
日に日にやつれていく山南を心配し、家族といっしょに炎龍の飛行訓練を見に来るよう勧めたのは美空だ。山南家の気分転換にもなるし、上官が見に来れば皆の練習の励みにもなる。山南一家貸し切りの飛行祭だ。
「こんどは、空に輪っかが」
雁行飛行を終え、それぞれの機体が四方に散らばる。そして、今度は五色の円を描き始めた。
「五輪のマークだな」
「オリンピックが開催されていたら、みんな喜んだでしょうね」
幻となったオリンピックを称えるように、五色の輪が空に描かれた。残念ながら、白い輪だけ形が少し崩れている。
「美空さんは飛ばないの?」
「鷲津二尉は、空の上で皆に指示を出している。大したものだ」
父親が美空を褒める言葉を聞き、薫は自分が褒められたことのように誇らしかった。山南もまた、娘の屈託のない笑顔を見て癒された。
――戦闘機を見て喜ぶ顔が見られるとは。
山南が普段見慣れている光景は、日の丸の旗を振って口々に万歳を叫び、特攻隊員を見送るものたちの姿だ。だが、言葉とは裏腹にその見送る目には喜びの色はない。二度とは帰ってこない息子や夫を思いながらも、表だって悲しみの言葉を口に出すことが許されず、目だけがそれを語っている。同じ戦闘機を見て、こんなにも目の色に違いがある。
――これが戦後に皆が見る景色なのか。
鷲津二尉の話では、航空自衛隊の航空祭には大勢の観客が見に来るという。それも日本人だけでなく、信じがたいことだが外国人までもがたくさん来るらしい。国力の粋を集めて人を殺傷するために作った機械が、この世の何よりも人々を楽しませる。
かつて、松本は戦闘機の操縦者の腕は、敵機を落とせば墜とすほど上がると言った。つまり、一人でも大勢の人を殺したものほど、優秀な操縦者ということだ。だが、鷲津二尉のいた時代では、航空自衛隊でも最も優秀な操縦者がブルーインパルスという曲技飛行隊に入れる。
では、人をより多く殺したものと、人をより多く楽しませたものと、どちらがより優れた操縦者なのか。
敵をより多く殺したものと、国民をより多く幸せにするものと、どちらがより優れた軍人なのか。
鷲津二尉は、このことを伝えるために天が自分の元へと送り届けたのかもしれないと山南は思う。
「あ、別の飛行機が来る」
空の彼方から、その鷲津二尉が乗ったF15が舞い降りてきた。
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『鷲津二尉、最後に、炎龍の初飛行の最後にやった奴をやろう。他の隊員たちにも刺激になる』
「ローリング・シザーズですね。了解しました」
松本の提案を美空は快諾した。せっかく、薫も見に来ているのだ。ついでにサービスをしてやろう。
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編成飛行をしていた炎龍部隊から赤い煙を出す機体がただ一機離れ、上空へと向かう。そして、下降してきたF15といっしょに2機の戦闘機が並行に並んで飛ぶと、2機の戦闘機は互いの中心を軸に回り始めた。
「すっごーいー」
炎龍部隊の編隊飛行もすごかったが、美空と松本の操縦する2機は、まるで二羽の鳥のようだ。空中を自在に飛ぶその姿は、松本一家だけでなく炎龍部隊員をも驚かせた。
『すげぇ、さすが隊長だ』
『鷲津二尉も負けていない。大鷲の本領発揮だ』
『どちらも凄いです』
『俺も、すぐにあんなふうに飛んで見せる』
ローリング・シザーズを終えた美空と松本は空高く一直線に上昇し、鏡写しのように左右に別れた。そして、互いに大きな縦長の半円を描いた。
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「お母さん! あれ!」
「まぁ!」
薫と静江の母娘が見上げた空には、巨大なハートマークが描かれていた。そして、二人は今日一番の笑顔を見せた。
これだ。この光景を守るために戦わねばならぬのだ。それが、本来の軍人の務めだ。にもかかわらず、自分は、大日本帝国軍は、いったい何をやっているのだと山南は自分に問う。守らねばならぬものを、逆に軍隊自らが苦しめている。それでは、いったい何のための軍隊なのか。
あと二週間足らずで戦争が終わる。ならば、これ以上無駄な命の犠牲は出してはならぬ。たとえ、どんな手段を使おうとも。それが、司令としての山南がやるべき、司令という地位についているものだけが可能な仕事なのだ。
山南の心は決まった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「いやー、隊長も鷲津教官も凄かったなぁ。でも、俺も負けないぞー」
「おい、マサ、いい加減にしろ!」
「次郎さんぐらいなら、すぐに追いつけそうだな。ハハハ」
「ちょっと、こいつに水浴びせてくる」
川田がぐでんぐでんに酔っぱらったマサを抱えて、引きずり出そうとした。
「隊長も無礼講だって言ってたじゃないですかぁ。次郎さん、固いっすよ」
「川田、マサは初めての酒のようだ。今日だけは、大目に見よう」
カッとなってマサを殴り飛ばそうとした川田を、松本が止めた。
「隊長、示しがつきません」
「まぁまぁ。ここは松本さんに従いましょう。しかし、松本さんも随分丸くなりましたね。特にマサには甘い気がする」
海神が大人の余裕を見せる。
「次郎さんも、昔は相当やんちゃだったって聞いてますが。上官を殴ったこともあるとか」
「俺の話はいい。わかりました、今日のところは隊長のお言葉に従います」
「山南指令から、お褒めの言葉を頂いた。曲技飛行にいたく感銘を受けたそうだ。この調子で訓練に励めとのお達しだ。わかっているとは思うが、今日の酒は山南指令から頂いたものだ。ありがたく頂くように」
「ありがたく頂いてまーす」
松本の生真面目な態度との落差の大きさに、皆が思わず苦笑した。
「教官も普段は怖いけど、笑うと、かわいいですねー」
「どうも、ありがとう」
ここまで酔っぱらうと、逆に見事としかいいようがない。美空のいた時代には若者のアルコール離れが進んでいたし、飛行機の操縦前夜に深酒など考えられない。
「マサじゃありませんが、素敵な笑顔だ」
海神が言うと、なぜかいやらしい。第一印象が悪かったせいか。
「ところで教官、ラークって何ですか?」
「私も、不思議に思っていました。無線で時々、ラークよりと仰っていますがどういう意味なんでしょうか」
戦闘機の無線を使うと、つい癖が出てしまう美空だった。
「私の所属していたジェット戦闘機の部隊では、作戦中はタックネームというあだ名を使って互いを呼んでいました。万が一、無線が傍受されても構成員の情報が外部に漏れないようにするためです。その時の癖が出てしまって」
「なるほど」
海神が、さすがドイツの部隊は合理的だと感心する。
「皆、自分で好きなあだ名を選んでいました。私を指導してくれた先輩は、マーベリックと名乗っていました。アメリカ映画の登場人物からとったんです」
「なんですか、それは! 敵の映画じゃないですか!」
酔っぱらったマサが絡んでくる。しまった、この時代で口にするべき話題ではなかったかと思った美空だったが、松本から助け船が入った。
「俺も戦争が始まる前は、アメリカの映画はよく見ていた。敵だからと言って、全てを否定するんじゃない。敵を知り己を知れば百戦危うからずとも言う。兵器だって、アメリカで発明されたものを使っている」
「だけど、あいつらに大勢殺されてますよ! 俺の学友も特攻で死んでます!」
マサが感情的に抗議した。戦争前の友好関係を知っている世代と若い世代では温度差がある。とくに反米教育が徹底された時代に育った若者は、アメリカへの憎しみが染みついている。
「マサ、俺たちも大勢殺している。戦争なんてのはそんなもんだ。日本人だって、ついこの間までは日本人同士で殺しあってたんだ。俺とお前の爺さんも、もしかしたら戦ってたかもしれない。だが、今は俺たちは同じ部隊にいる仲間だ。だから、そう感情的になるな。俺は戦争が終わったら、またアメリカの映画を見たい」
海神もまた、戦争前の時代を知っているものの一人だ。そして、1868年に起きた戊辰戦争。この時代の人にとっては、まだ身近に感じられる出来事なのだろう。
「俺は戦争が終わっても、絶対にアメリカの映画は見ません」
戦後、鬼畜米英を唱えていた大人たちが掌を返したようにアメリカを称え始めたことに、多くの子どもたちが不信感を覚えた。はたしてマサはその時代をどう見るのか。
「ところで、ラークとはどういう意味なんでしょうか?」
重苦しくなった雰囲気を変えようと思ったか、
「ヒバリを意味する英語です」
「なるほど。大鷲に乗るヒバリですか。鷲津二尉にふさわしいあだ名だ」
海神大尉がすぐさま、お世辞を言った。それとも、口説き文句が自然に出る性分なのか。自衛隊では駄洒落じゃないかと笑われたが、この時代の人はまだ美空ひばりの存在を知らない。
「じゃあ、俺たちもあだ名で呼びあいましょうよ。海神大尉はそのままカイジン、川田曹長はジロウ、
酔っぱらっているせいか、先ほどの不機嫌さはどこかに飛んで行ってしまい、マサに陽気さが戻った。
「お前、俺を呼び捨てにする気か!」
「全然、あだ名になってませんよ。そのままじゃないですか」
「俺は、カイジンでもいいぞ」
「急に変えると混乱する。少なくとも今は不要だ。将来、敵の無線機の性能が上がってから考えればいい」
あだ名をネタに盛り上がり始めた隊員達だったが、松本がいたって冷静に否定した。普段通りの松本の生真面目な態度に、マサを除く他のメンバーが苦笑する。
「今はって。それじゃ、やっぱり鷲津二尉は未来から来たって噂は、本当なんですか」
マサの発した未来という言葉に、美空がどきっとした。
「ドイツは合理的だからな。先のことを考えて備えているということだろう。だいたい、鷲津二尉は未来というよりも月から来たと言った方が、俺は信じるな」
海神がマサの発した未来という言葉を特に気にすることなく、色目を使って美空を見る。やはり、口説き文句が自然に出る性分のようだ。この人が美空の時代にいたら、セクハラでいろいろと問題を起こしそうだ。
「そんなんだから海神大尉はご結婚できないんですよ」
「ショウオン、お前だって独身だろうが」
海神が
「次郎さんも独身ですよねー。なんか、炎竜部隊って一人もんばっかですね。もしかして、隊長も独身ですか?」
酔っぱらったマサの言葉に皆の口が止まり、場が突然静かになった。その雰囲気に押されたのか、マサの酔いもどうやら醒めたようだ。マサの顔が、しまった余計なことを言ったと自覚していることを物語る。
「特に隠すこともないが、妻とは死別している。息子も一人いたが、去年、戦死した」
松本が特に感情をこめることなく淡々と言った。他の隊員は知っていたようだが、美空とマサは初めて松本の孤独な家族関係を知った。
「すみません」
「気にするな。戦争で身内を亡くしてるものは大勢いる。山南司令もご子息を亡くしている。今日は、このあたりにしておこう。明日からも、また訓練だ」
楽しかったひと時の宴は、夢から覚めるように終わった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌日、山南が松本を呼び出した。
「松本君、折り入って話がある」
そして、美空から聞いた日本の未来を話し始めた。
「日本はこの戦争に負ける。無条件降伏だ」
「やはり、そうですか。本土決戦などしても覆せない」
戦況を知る者にとっては明白なことだ。
「本土決戦はない。ポツダム宣言を受諾し、日本は今月8月15日に無条件降伏する」
「なんですと!?」
だが、僅か二週間あまり先の敗戦という突然の事態に松本が驚く。負けるといっても、松本が想像していたのは一年は先のことだ。
「8月6日広島に、8月9日に長崎に新型爆弾が落とされ、20万人以上が死亡する。そのためだ」
「なんということだ」
松本が天を仰いだ。だが、その数字に違和感を覚えた。
「甚大な被害なことは確かでしょう。しかし、東京大空襲や沖縄戦でもそれ以上の被害が出ています。地方都市への空爆で、今の本土決戦を唱える大本営が戦争継続を諦めて無条件降伏するというのは腑に落ちません。何故ですか?」
「天皇陛下がご聖断を下されるのだ」
「天皇陛下が? それでは天皇陛下に戦争責任が及ぶことになります。軍部としてもそのことはわかっているでしょう。さすがに重臣たちが承知しないのでは」
松本がことの経緯に納得できないようだった。もし、天皇が戦争終結を決断できるのであれば、戦争を継続している今の状況は天皇の意思ということになってしまう。そもそも、天皇が戦争継続に異を唱えた場合、退位を迫られるだろう。最悪、クーデターの可能性もある。
「新型爆弾の威力で大本営が思考停止となり、御前会議で天皇陛下に丸投げするということだ。ポツダム宣言受諾を知らせる天皇陛下自らのお声がラジオで放送される前日には、徹底抗戦を主張する軍の一部が暴走し、放送を阻止しようと天皇陛下のお声が録音されたレコードを奪おうと
「宮城? 皇居を襲う!」
山南の吐き捨てるような口調で述べた軍の粗暴な行動に松本が呆然とする。五・一五で犬養首相を暗殺し、二・二六でクーデターを企てた軍が、とうとう天皇陛下にまで銃を向けるとは、日本軍はいったいどうなっているのか。武器を持って敵と戦う集団である軍隊にとって、規律は何よりも重要だ。関東軍の暴走といい、すでに軍隊としての統率がとれていない。
「だから、もうすぐ終わるとわかっている戦争で、これ以上若者を死なせたくない。この基地からの特攻は止める。万が一、私が処分されることがあったら、その時には君の力を借りたい。頼む、協力してくれ。何十万、何百万と死んでいる時に、たかが数人助けたところで感傷でしかないのかもしれない。だがそれでも、たとえ今からでも、たとえ一人でも救える命は救いたい。だから、頼む」
山南が松本に頭を下げた。万が一、松本が事の次第を報告しようものなら戦犯ものだ。だが、山南は松本を信頼して自分の決意を伝えた。
「たとえ一人でも、ですか」
松本は山南の言葉を繰り返した。そして、山南が述べた感傷でしかない、の言葉も胸の中で繰り返した。
――やはり、山南も同じだった。
同じ、息子を戦争で亡くしたものどうし、そして、他人様の子どもを死地に送り出しているものどうし、考えることは同じだった。
松本も感傷に流されていた。亡くなった自分の息子に似た特攻隊員を死なせるのが忍びなく、炎龍の搭乗員に抜擢した。いや、自分でも自分の本心を知らず、抜擢してしまったのだろう。マサの実力を他のものと比べれば、言い訳はできない。
「君には私が鷲頭二尉から聞いた日本の未来をすべてを話しておく」
山南自身かつては信じていなかった話を、だが、今では信じている確かな未来を、松本に語った。
広島と長崎に原爆が落とされる未来。
ポツダム宣言を受け入れ無条件降伏する未来。
GHQに占領される未来。
無数の若者を戦場に送り、多大な犠牲を出したにも関わらず、戦争に負ける日本のことを。
軍部の専横が終わり、民主化される未来。
焼野原から奇跡の復興をする未来。
経済大国として今以上に力を付ける未来。
だが、その後一度として戦火に見舞われることなく、そして、他国を侵略することもない平和国家となる日本のことを。
その平和国家の象徴として、戦力の不保持をうたいながら、しかし、世界屈指の戦闘力を持つ軍隊、自衛隊。
鷲頭二尉はその自衛隊所属の自衛官であることを。
この途方もない話を、松本は黙って聞いた。その感情を表に出さない顔からは、はたして、どこまで松本が松本の語った話を信じているのか、松本には計り知れなかった。
そして、山南が語り終わり暫し思案していた山本が、一つの疑問を口にした。
「だが、本当に8月15日に終わりますか? 鷲津二尉のいた日本ではそうなのかもしれないが到底信じがたい。終わらなければ、いつまでもごまかし通せない」
その疑問は松本も同じだった。大和の撃沈は美空の言うとおりになった。だが、いくら強力な新型爆弾といえど、たかが二発の兵器で戦況が変わるのだろうか。
誰も、原爆がどれだけの被害を与えるか知らなかった。
戦争が終わり、広島を調査した米軍は、自らが落とした原爆の与えた被害に絶句した。軍人の中には心を病み、一生苦しんだものもいる。朝鮮戦争で原爆投下を主張したマッカーサーは失脚した。
戦争が終わり、原爆の開発に関わった科学者は、核兵器のない世界を訴えた。
全ては戦争が終わってからのことだ。
戦争が終わり、全世界が原爆の恐ろしさを知ってからのことだ。
だが、今は戦争中だ。
敵を倒さなければ、戦争には勝てない。
敵が降伏しなければ、戦争は終わらない。
そのためには、手段など選んではいられない。
8月6日、午前8時15分、原子爆弾「リトルボーイ」が広島に落とされた。
空には眩しい閃光が広がり、地には灼熱の地獄が広がった。
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