大鷲は大空を征く

第十四話 地獄絵図

 8月7日、山南と松本は広島に入った。はたして美空の語ったとおり歴史が進むのか、新型爆弾の威力を確かめるためだ。


――熱い。

 それが広島に一歩足を踏み入れた時に、山南が最初に感じたことだった。夏の日照りの暑さだけでなく、なにか街そのものが異様な熱を持っている。その暑さだけでも異常だった。空気も重く、建物が焼けた匂いや異臭が漂ってくる。


「山南さん、川を見てください」

「川?」

 普段感情を表に出すことのない松本の顔が血の気を失い、真っ白に青ざめている。松本が指さす方を見ると、遠くに小さな川が流れていた。


「川がどうした?」

 遠目には、別段変わりのない普通の小川に見える。だが、松本はその川を歯を食いしばって凝視している。松本の鷹の目が、何か尋常ならざる光景を捕らえたに違いない。


「もう少し近づけば、わかります」

 松本が怒気を含んだ口調で言い、山南を先導するように歩き始めた。無言で歩く松本は、声をかけにくいピリピリした雰囲気を漂わせている。松本が感情をあらわにするなど、ただ事ではない。


「なんだこれは!」

 川に近づいた山南が見た川面を覆う無数の物体、それらは全て人間の死体だった。大人も子供も、男も女も、年よりも若者も、ありとあらゆる死体が所狭しと小川を埋め尽くしている。山南の後ろで、ゲェーという吐き声がした。随行員がたまらず戻している。凄惨な戦場を何度も見てきた山南だが、これほどの惨状は今まで見たことがない。


「地獄だ」

 山南は絶句した。だが、そこはまだ地獄の始まりにすぎない。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 山南は発狂しそうになった。


 道端には死体がごろごろと転がっていた。いや、中にはまだ生きているものもいるのかもしれない。裸で歩き、全身に火傷を負って背中から皮を垂らすものもいた。逆に、服が体にへばりつき、肌と一体化しているものもいた。真っ黒な物体をおぶり、抱えているものがいる。炭の塊のようなそれは、焼け死んだ赤ん坊だ。


 建物の壁には人間の形の輪郭をした黒ずみがある。いや、黒ずみの中に人間の形が反転して抜けている。爆発の瞬間、人間が影となってその部分だけ焼け焦げが防がれたのだ。そして、その影を落とした人間は灼熱の炎により蒸発した。


 井戸の中には水を飲もうとして死んだ死体があり、生き残ったものは、その死体で汚れた井戸の水を飲んでいる。


 いったい、何をどうすれば、このような惨状を作り出すことができるのか。たった一発の爆弾で本当にこんなことができるのか。まさに悪魔の所業だ。


「これが、わずか2発の新型爆弾で、頑なな徹底抗戦から無条件降伏容認へと戦況が変わった理由か。こんなものが日本中に落とされたら、文字通り国が灰燼に帰す。次は長崎か」

 もう一度同じ光景が繰り返されると想像するだけで、山南の体が絶望で震えた。人類が手にした強力すぎる兵器。もっと強い力を、もっとすごい兵器を、その繰り返しが、人間の欲望が、この悪魔の兵器を作った。そして、もっと多くの敵を殺そう、やられたらやり返す、その人間の業がこの悪魔の兵器を使った。


#####################


「兵隊さん、お水下さい」

 自分よりも小さな幼子の手を曳いた子どもが、山南に近づいてきた。もんぺを来た女の子も疲れ切っているが、のどが渇いた幼子は言葉を発することもできない様子だ。


「それ、飲め」

 山南が幼子に水筒を渡すと、少女は幼子に飲ませ始めた。そして、飲ませ終わると自分は一滴も飲まずに、山南に水筒を返した。


「お前も飲め」

 山南が少女につき返すと、少し戸惑いを見せた後、ごくごくと喉を鳴らせて水を飲む。


――自分も乾いていたのに。こんな地獄で、こんな子どもが、いたわりの心を未だに失わずにいる。愚かな大人たちの行いの罰を、幼い子どもたちが受ける。


「ありがとう」

「もっていけ」

 山南にできることは、それぐらいだ。幼子を連れた少女は、どこかへと歩いて行った。はたして、この荒廃した街で子どもたちが生き延びることができるのか、いや、この子どもたちだけでなく、いったいどれほどの人間が生き抜くことができるのか。


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「松本君」

 松本の方を振り返らず、子どもたちの歩いて行った方を見たまま、山南は話しかけた。


「炎龍は廃棄する」

 それが山南の出した結論だ。


 より強い力をと、自分もまたそれを欲した。この惨状を作り出したものたちと自分は同じことをした。そして、力を持てば必ずそれを使いたくなる。未来の力で作った、この時代には本来あるはずのない兵器。この存在を大本営が知ったら、必ずすがる。そして、終わるはずの戦争が終わらなくなる。永遠に、どちらかが滅びるまで。いや、国力の劣る日本が完全に滅びるまで。


「すまない。だが、そうするしかない。日本の未来を守るには、炎龍は存在してはならない」

 軍人としては失格なのだろう。少しでも強力な兵器を作り、少しでも多くの敵を殺す、それが山南に与えられた役割だ。だが、山南にはもうそれはできない。


「わかりました。私は先に帰って皆に伝えます」

「よろしく頼む。私はもう少し残る」

 それが、山南と松本が最後に交わした会話だった。


 もし、山南がこの惨状を見ても普段となんら変わりない平常心を保つことができていたら、松本の様子に何か不審なものを感じとれていたかもしれない。その後に発生する事態を防げていたかもしれない。だが、心を持つ生身の人間にそんなことができようか。


 いや、それどころか、

 もし、山南が松本と一緒に帰っていたら、

 もし、松本がこの惨状を見ていなかったら、

 もし、松本がマサと出会わなかったら、

 もし、森田が炎龍を作らなかったら、

 もし、美空がこの時代に現れなかったら。


 どれか一つでも歯車が合わなければ、事態は変わっていただろう。


 だが、美空はこの時代に現れた。

 森田は炎龍を作った。

 松本はマサと出会った。

 松本はこの惨状を目にした。

 山南はこの惨状を決して忘れることないよう目に焼き付けるために一人残った。


 そして、運命の歯車は廻った。廻ってしまった。


 この日、松本は炎龍を強奪した。松本だけでなく、炎龍特別作戦部隊全員が機体とともに姿を消した。


 マサこと森正直もりまさなお二等飛行兵の出身地が長崎市内であることを山南が知ったのは、炎龍が強奪された後だった。

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