第十五話 出撃命令

「松本少佐が炎龍を強奪した。いや、炎龍特別作戦部隊が姿を消した。目的は長崎への原爆投下阻止だ。森二等飛行兵の出身地が長崎市内だったことが、彼らが決断した理由だろう。あまり人とは深く関わらない松本少佐が、森二等飛行兵のことは不思議と可愛がっていた。亡くなった息子のように想っていたに違いない。他の隊員達も松本少佐とは強い信頼関係で結ばれていた」

 山南の目にも、美空の目にも涙が浮かんでいる。炎龍を強奪した松本の気持ちは痛いほどよくわかる。国のために命がけで戦ってきた男たちが、軍に逆らったのだ。命を捨てる覚悟があっての行為だ。


「だが、もし長崎への原爆投下が阻止されたら歴史が変わる」

 山南の声が震える。決して認めたくはない、だが認めなければならない現実を直視しなければならない。


「大本営は、アメリカは原爆を一発しか作れていないと考えている。いや、そう願望している。そうでなければ困るからだ。ソ連が参戦しないと考えていたのと同じだ」

 ソ連参戦の情報は、ヤルタ会談直後に日本のストックホルム駐在陸軍武官小野寺信により打電されている。だが、大本営はその情報を抹殺した。そして、関東軍は満州国境での備えを怠り、満州に取り残された日本人は日ソ中立条約を破って攻め込んできたソ連軍に虐殺蹂躙強姦された。


「終戦時、アメリカは第三の原爆の投下目前だったと言われています。実際には製造されていませんが、第四、第五の原爆も材料さえあれば製造可能だったでしょう」

「それが現実だ。アメリカは甘くはない。もし、戦争が終わらなければ、アメリカは日本中に原爆を落とすだろう。この国が完全に滅びるまで」

 曲技飛行で一時は生気を取り戻した山南だったが、今はそれ以前と比べてもさらに憔悴している。すでに死人の顔と言ってよい。


「帝都を焼かれたのが五カ月前だ。沖縄が落ちてすでにひと月以上経つ。すでに負けることは決まっている。神風など決して吹かないことは誰にだってわかる。だが、それにいつまでもすがり付き、終いには一億総玉砕を唱える。それが今の軍部だ。いざとなったら天皇陛下を拉致してでも戦争を続けるつもりだ」

 天皇を拉致してまでの国体護持。いったい、軍部の唱える国体とは何か。


「君のような未来の日本人にはとても正気とは思えないだろう。私の目から見てもそう思う。だが、これだけはわかって欲しい。皆、怖いのだ、怖かったのだ」

 山南が涙の溜まった眼で美空を見た。歴史を後知恵で見るのは簡単だ。戦後日本が奇跡の復興をするなど、この時代の人間には知りようがない。


「いったい、このままではこの国がどうなるのか、それが怖いから戦争を始めた。植民地化され搾取されるのを恐れたからだ。欧米諸国によるアジア支配を我々は間近で見てきた。それどころか欧米諸国を真似して、我々も中国や朝鮮半島で同じことをした」

 欧米列強諸国での植民地の取り合い、そして、発足した国際連盟の脆弱さ。それが皆を疑心暗鬼にさせた。


「先の大戦では、敗戦国のドイツは莫大な賠償金を課された。オスマン帝国は崩壊し、領地の大部分は戦勝国に切り取られた。もし、日本が負けたらどうなる、負けを認めたら、降伏したら、いったいこの国はどうなるのか。その恐怖がこの国をがんじがらめにした。私には、降伏を受け入れる陛下のご聖断がいかに重いものかがよくわかる。この国の運命を決めるような決断を、軍部ごときができるわけがない。だから、軍部ごときが、この国の運命を左右する戦争など始めてはならなかったのだ。だが、我々は無責任にも始めてしまった。そして、必ず勝つと威勢よく始めておきながら、最後にはその責任を陛下に押し付けようとしている、いや、押し付けるのだ!」

 山南が拳を机に叩きつけた。山南の怒りの矛先は大本営か、それとも、軍の一員である不甲斐ない自分自身か。


「しかし、もし炎龍が原爆投下の阻止に成功したら、陛下のご聖断さえも失われてしまう」

 山南が号泣した。大の男が、帝国軍人が号泣した。


「これは罰だ。軍人の一人として、全てを陛下に負わせる軍人を代表して、天が私に下したのだ。始めた戦争の責任を取れと。負けるとわかっている戦いに、終わるとわかっている戦争に、若者を次々と送り出した責任を取れと。無垢の民を地獄に墜とすか、国民に終わりのない苦しみを与えるか、どちらか選べと」

 選ぶことのないできない選択の重圧が山南を押しつぶし、山南が両の手で顔を覆う。そして、殉教者のように泣き伏した。


 だが、しばし暫し泣き伏せていた山南が顔上げると、そこにはすでに涙は無く、決意に満ちた顔があった。


「鷲津二尉、君はこの地獄の唯一の救いだ。この地獄の先に光があることを、君が教えてくれた。この国は決して滅びない。いや、滅びるどころか不死鳥のように蘇る。この国には未来がある、それを君が教えてくれた」

「そんな、私がここに来なければ、こんな事態には!」

 山南が、自分を責める美空の言葉を制した。


「松本君も君に救われた。炎龍特別作戦部隊の隊員は、皆、特攻隊員だ。松本君も最後に責任を取って死ぬつもりだった。一人息子を失い、教え子を特攻で送り出す彼の心は、もうぼろぼろだった。だが君が来て、彼は初めて笑うことができた。亡くなった息子に似た若者にも出会い、彼は生きがいを手に入れた。彼だけじゃない、ただ国の命令で死んでいくことしかできないものたちが、ひと時とはいえ、平穏な時間を過ごすことができた。そして、最後に戦う理由を見つけた。彼らは国の命令でなく、自分たちの意思で仲間の故郷を守るために戦うことを決めた。命をかけるにふさわしい戦いの場を見つけた」

 松本の炎龍強奪が、山南をその身を切り裂くような境遇に置いた。だが、山南には松本への恨みは微塵もない。


「だが、その戦いは国を亡ぼす」

 敵も味方も誰もが、自分の国を、自分の故郷を、自分の家族を、自分の大切なものを守るために戦う。そして、その大切な何かを守るための戦いが、別の誰かを傷つける。


「鷲津二尉、戦争とは命を天秤にかけることだ。平等であるべき命を天秤にかけて、軽いほうを殺す。自国の兵の命と敵国の兵の命を天秤にかける。味方と敵を比べるだけとは限らない、同じ日本人でも本土を守るため沖縄を盾にする。それが戦争だ」

 山南が世界の真理を告げる。どの時代、どの国でも認めざるを得ない人間の業だ。


「だから、私は選ぶ。悪魔の所業と言われようと、非国民と罵られようと、私は選ぶ。私だけが選ぶことができる。この戦争が終わった後に平和がもたらされることを、日本がより豊かな国となることを知っている私だけが選ぶことができる。この手を汚して戦争が終わるなら、いくらでも汚す。だが、私には止められない。私には力がない、炎龍を止める力が。いや、今の日本にはどこにもない。我々のしでかした不始末を、我々の力で止めることができないのだ」

 これが、山南が最後に選んだ答えだ。帝国軍人として、そして、将として、山南だけが下すことができる、下さなければならない決断だ。しかし、山南一人の力では決して実現することができない選択肢だ。


「この世で炎龍を止められるのは、鷲津二尉、君だけだ。君と、君のF15だけが炎龍を止められる」

 たとえどんなことであろうと、覚悟さえあれば、自分の命であればかけられる、自分の命なら捨てられる、自分の命であれば差し出せる。だが、戦争は一人ではできない。自分一人の命では足りない。自分の命だけでなく、他者の命をも差し出さなければならない。他者に覚悟を強いなければならない。そして、この悪魔の所業を美空にも強いねばならない。


「軍で命令が絶対なのは責任を明確にするためだ。すべての責任は命令をしたものにある。兵士はただ命令に従うだけだ。敵が誰であろうとも戦わねばならない。命に背くことは許されない。同じ日本の軍隊と言えど、私に君に命令する資格がないのはわかっている。君に頼むが筋なのだろう。だが、無理を承知で私は君に命令する。君には何の責任もない。君は只、私の代わりに命令に従って引き金を引くだけだ。頼む、炎龍を作った責任者として、私に責任を取らさせてくれ。この戦争が終わったら私は腹を切る。私が腹を切ったとて、死んだ者が生き返るわけでない。無垢の国民を地獄の業火にさらす蛮行が私の命程度で許されるわけがない。だが、私にはそれしかできない」

 山南が深々と美空に頭を下げた。美空がこの時代に来なければ、こんな事態にはならなかった。だが、山南は美空をわずかばかりも責めることはせず、一人の人間には重すぎる責任を、たった一人で受け止めた。一人の人間が下すには重すぎる決断を、己の命をかけて決断した。それに美空は答えなければならない。山南が司令官としての責務を果たすのならば、美空は兵士としての責務を果たさねばならない。


 多くの犠牲の後に生まれた平和で豊かな社会、そこで美空は生まれた。先人たちが命と引き換えに作った社会、そこで美空は育った。その未来の日本を守るために作られたのが自衛隊だ。そして、この時代の招集された若者と違い、他人に強いられたのではなく、美空は自らの意思で自衛隊に入隊することを選んだのだ。美空は未来の日本を守らねばならない、戦えない他の者たちの代わりに。


「わかりました。ご命令を引き受けます。ただし、一つだけ条件があります」

「どんな条件でも言ってくれ。私が死んだ後は、家内に君を世話するように言っておく」

「生きてください。どんなに辛くとも、憎まれようとも、恨まれようとも、蔑まれようとも、生きてください。それが私のただ一つの条件です」

 山南にとって、これからの人生は地獄だ。美空は、山南に生き地獄を進めと言っている。だが、それでも美空は山南に生きて欲しかった。薫のために静江のために、どんなに辛くとも生きて欲しい、それが大切な友人を失った、そして大切な友人との戦いに赴く美空の願いだった。


「わかった。同じ日本の軍隊でも違うのだな。我々と君たちとでは」

 はたしてどんな償いができるかわからない。いや、決して償えることなどないだろう。それでも、命の続く限り、生きているもののためにできることをする、それが山南が唯一生きる理由だ。


「鷲津美空二尉に命ずる!」

 山南が美空の目をしっかりと見つめ、声を張り上げた。大日本帝国の軍人として、山南が最後に発する命令だ。ずっと自分を偽って命令を下してきた山南が、己の信念に従って発する命令だ。


「炎龍を強奪し、私的にその武力を使う松本少佐率いる炎龍特別作戦部隊討伐のため出撃せよ。そして、」


 山南は何よりも重要な命令を続けた。

「必ず生還せよ!」


「鷲津美空二尉、命令を復唱します。炎龍を強奪し、私的にその武力を使う松本少佐率いる炎龍特別作戦部隊討伐のため出撃します。そして、必ず生還します」


 美空は山南の命令を復唱し、炎龍特別作戦部隊討伐に出撃した。


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