第十九話 号泣の空

 マサの操縦する炎龍が隠れていた雲の中から飛び出した。空の彼方に黒い点が見える。原爆を積んだB29だ。


――あれだ。あれが長崎に原爆を落とす。


『マサ、聞こえてる』

 無線機から教官の声がマサを呼んだ。この時代での人間ではなく、未来の日本から来た人間だ。やはり、噂は本当だった。


『松本少佐率いる炎龍特別作戦部隊はすべて撃墜しました』


――そんな馬鹿な! 少佐が墜ちるなんて。

――川田曹長も、承恩ショウオン先輩も、海神大尉も、みんなこの女に墜とされたのか。

――未来からきたこの女と、未来の戦闘機に負けたのか。

――くそ、くそ。


『マサ、退却しなさい』


――ふざけるな。

――なんで、長崎が犠牲にならなきゃならない。

――なんで、お前たちの時代のために犠牲にならなきゃならない。

――なんで、未来の奴らのために俺たちが犠牲にならなきゃならない。


――平和のいしずえ? なんだそれは。

――俺たちを犠牲にした平和になんの価値がある。


――アメリカの映画から名前を取った?

――鬼畜米英じゃなかったのかよ。


――戦争が終わって平和になる?

――戦後は日米が同盟国になる?


――そんな馬鹿な話があるか。

――だったら、なんで戦争なんか始めたんだ。


『マサ、基地に戻りたくないなら戻らないでいい。どこか誰もいないところに逃げたっていい。だから退却して。お願い』


――いまさら逃げる? そんなことができるか。

――少佐も、みんなも、俺のために死んだんだ。

――俺の故郷を守るために、国を裏切ってまで戦ったんだ。

――俺だけ逃げるなんて、できるはずがない。


『もう、戦争は終わる。だから、無駄死にはやめて』


――なんで、長崎に原爆を落とされたからって、降伏するんだ。

――一億総玉砕するんじゃないのか。

――本土決戦するんじゃないのか。


――降伏するならなんで、早く降伏しなかった。

――なんで、東京が空襲されたときに降伏しなかった。

――なんで、沖縄が落ちたときに降伏しなかった。


――負けるとわかってるなら、なんで、特攻で死ななきゃならなかった。


『あなたが止めないなら、私はあなたを墜とさなければならない。だから、撤退して』


――長崎への原爆を防いだら、日本全土が灰になる?

――だったら灰になれよ。

――全部燃えちまえよ。

――長崎だけ灰にするなよ。


――最後まで戦えよ。

――最後の一人まで戦えよ。

――最後の一人まで戦えって言ったのは誰だよ。


『マサ、……』

 マサは無線機のスイッチを切った。未来の女のたわ言を聞く必要はない。


 もうすぐ、B29は射程内だ。


 マサは操縦桿を握った。そして、B29を真正面に捕える。射程内に入ったら機銃を撃ちつつ特攻する。作戦とも言えない作戦、それがマサの狙いだ。


――絶対に外せない。

――絶対に失敗できない。

――失敗したら、長崎が、故郷が灰になる。

――そんなことは、俺が絶対にさせない。


――故郷を守れるなら、自分の命なんかどうだっていい。

――故郷を守るために、己の命はいくらでも捧げる。

――それが、特攻隊員だ。


――墜とす、絶対に墜とす!


――墜とす! 墜とす! 墜とす! 墜とす! 墜とす! 墜とす!

――墜トス! 墜トス! 墜トス! 墜トス! 墜トス! 墜トス!


 もし、精神が肉体を凌駕するのなら、

 もし、怒りで敵を倒せるのなら、

 もし、信念が不可能を可能にするのなら、


 マサの攻撃は成功していただろう。


 しかし、勝敗は機体の性能とパイロットの力量で決まる。


 最後に残った一機が松本だったら、美空の発射した誘導ミサイルに気付きフレアを射出し防いだに違いない。そうなれば、機銃を撃ち尽くしていた美空には、炎龍を落とすすべはなかった。


 だが、マサは未熟だった。

 マサは美空の発射したミサイルの接近に気付かなかった。


 マサの操縦する炎龍の射程にB29が入った。


 マサは自分の攻撃の成功を確信した。

 マサは自分の故郷が守られることを確信した。


 しかし、マサが機銃の引き金を引く寸前、美空の発射したサイドワインダーがマサの乗る炎龍を直撃した。


 マサは自分の攻撃の失敗に気付くことなく死んだ。

 マサは自分の故郷の惨劇を見ることなく死んだ。


 それが、唯一の救いだった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 大鷲は未来を守るために戦った。

 炎龍もまた、未来を守るために戦った。

 どちらも未来を守るために戦った。

 だが、選ぶことのできる未来は一つだけだった。


 8月9日、午前10時58分 B29が原爆「ファットマン」を投下した。

 8月9日、午前11時2分  長崎上空503mに、太陽のように眩しい光球が輝いた。


 その悪魔の輝きが、大勢の人間を生きたまま焼いた。

 大人も子どもも、男も女も、善人も悪人も、区別せずに殺した。


 そして、地獄が広がる。

 背中から皮を引きずり、死んだ赤子を背負い、わずかな飲み水を求めて、生き残った人々が地獄を彷徨う。


 その地獄の上で、大鷲は泣いた。

 誰もいない大空で、一人で泣いた。

 戦争のために、平和のために、故郷を守るために、死んでいったものたちのために泣いた。

 変えられぬ運命を、無情な世界を、大鷲は泣いた。


 その泣き声は、誰にも届かない。

 ただ、大空だけが聞いていた。


 そして、その地獄の上空で、大鷲は原爆が起こした衝撃に飲み込まれた。

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