大鷲は大空へと舞い上がる

第十話 美空

「まさか、大和が沈むとは」

 昭和20年4月7日、片道分の燃料のみ搭載して沖縄へと向かった大和が撃沈した。その一報は、二つの意味で山南に衝撃を与えた。一つ目は絶対に沈むことはないと海軍が豪語していた世界最大の戦艦が、いとも簡単に沈んだことだ。


「だから、あれほど航空戦力が重要だと進言してきたのだ!」

 大和には護衛となる戦闘機もなく、連合国軍の爆撃機の絶好の標的だった。航空戦力による真珠湾奇襲攻撃を成功させた日本軍が、航空戦力の重要性を最後まで理解しなかったことは皮肉としか言いようがない。


 日本海軍が誇る大和も武蔵もない今、海軍戦力は壊滅したといって良い。沖縄を失うのも時間の問題だ。そうなれば、本土は丸裸だ。


 そして、もう一つは、美空が未来から来たと証明されたことだ。もちろん、現代の技術では製造不可能なF15に乗ってきたのだから、どこかこの時代、この世界とは違う場所から美空が来たことは疑う余地はない。


 だが、日本が負ける未来など認めたくない山南にとっては、本当に未来の日本から来たのか、仮に未来と言っても、この世界とは違う未来から来たのではないか、そんな一縷の望みがあった。だが、その望みは絶たれた。日本は負ける、来たる8月15日をもって。


 その事実が山南を打ち負かした。日本が辿る歴史については、山南だけが知っている。松本も、森田も、美空とF15が未来から来たことは承知しているが、日本が戦争に負けることは知らない。


 いったい、自分は今まで何をしてきたのか。負けると決まっている戦いに大勢の兵を送り込んで、死なせてしまった。それだけではすまない、日本が降伏するまであと四ヶ月以上ある。それまでに、あと何人の兵を死なせなければならないのか。


 だが、戦争を止めることなどできようか。日本が確実に負けるなど、言えるわけがない。言ったところで非国民扱いされて処分されるだけだ。着手したばかりの炎龍の開発はどうする。しかし、未来の技術を使った高性能機といえど、たかが数機の試作機を作ったところで戦局を覆すことなど絶対に不可能だ。


 昭和二十年の初夏、日一日と悪化する戦況を隠し、大本営発表の日本の戦果を報じる情報があふれる中、多くの日本人がこの戦争には勝てないと薄々感じていた。そして、たとえ未来からの情報が無くとも、軍の将官であれば勝てないことはわかりきっていた。いや、そもそも国力が違うことは戦う前からわかっていた。だが、誰もそれを認めなかった。山南は、その一人にすぎない。


 6月23日、連合国軍が沖縄本島を占領し、沖縄県民の四人に一人が亡くなるという住民に多大な犠牲を出した沖縄戦が終わった。


 日本軍は日本周辺の制海権、制空権を失い、日本近海に迫る連合国軍艦艇に対して、若く未熟な操縦士による特攻が相次いだ。ほとんど戦果をあげることのない、若い命を無駄にするだけの作戦と名付けるのもおこがましい無謀な特攻作戦だ。


 新田原陸軍飛行場からも、多くの特攻兵が飛び立った。


 松本の訓練が、若者を特攻兵にした。

 山南の命令で、若者が特攻兵として出撃した。


 日々失われていく命が、山南の心を苦しめ続ける。山南の心労は、傍からもわかるほど山南をやつれさせた。


 そして、7月14日、炎龍一号機が完成した。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 美空は走っていた。山南の私宅の裏から山道を抜けると、近くの河原に出ることができた。絶好のランニングコースだ。美空のいた時代には道が整備され、大勢のランナーやロードバイクが走るサイクリングロードができていたはずだ。


 もし、過去に飛ばされずに新田原基地に戻っていたら、今でも毎日飛行訓練を続けていたはずだ。だが、美空には無理だ。もう、二度と操縦桿は握れない。コックピットに座ることを考えるだけでも体が拒否する。過去に飛ばされ、戦闘機を飛ばす必要がない現状に、美空はほっとしていた。


 山南家に居候し、最初はギクシャクした薫との仲も今ではうまくいっている。一人っ子だった美空と兄を失った薫は、互いを欲しかった姉妹のように感じていた。戦時中の食糧不足は酷かったが、山南の地位故か山南家では平均的な家庭よりは物資に恵まれているようだった。


 日中は、山南と未来の日本やF15について美空が知っていることを説明したり、戦時中の日本軍の実体について、逆に山南から学んだりして過ごした。そして、この時代の人間の驚異的な仕事の速さに、美空は度肝を抜かれた。


 『火龍』の改修、俗称『炎龍』の開発に、森田はいったいいつ寝ているのかと驚くほど精力的に取り組み、わずか4カ月足らずで宣言通り、第一号機を完成させたのだ。明日の試験飛行のパイロットは松本が自ら志願した。


 森田曰く、たいした改修はできなかったとのことだ。だが、エンジン出力の抜本的な改良と、主翼、補助翼の形状変更による飛行性能の向上、操縦席の気密化及び空気圧式の耐Gスーツを備えたことによる操縦性能の向上、そして、機体同士、機体と基地間の高品質な通話を可能とする新型無線機の搭載と、この時代の戦闘機としては図抜けた性能となっている。いや、あと十年は時代を先取りした戦闘機だ。


 実現可能性と有効性を考慮し、レーダーや誘導ミサイルを迷うことなく切り捨てたことも森田の有能さを物語る。戦後に主流となる遠方からの一撃離脱戦術は捨て、有視界距離における格闘戦に特化した戦闘機だ。必要最低限の装備とすることで機体の軽量化にも貢献する。多数の戦闘機が至近距離で入り乱れて戦う、この時代の戦場を知り尽くしている人間ならではの仕事だ。


 戦後、日本の敗戦原因として、旧日本軍は個々の兵士は極めて優秀だが、参謀本部の決断力や作戦立案能力は無能だったとする分析もあるが、まさに森田はその典型だ。物資不足の日本で、どうすればこんなことができるのか、美空には全く想像もつかなかった。


 初夏の暑さの中をひとっ走りし、体中汗まみれにした美空が山南の私宅に戻ると、珍しく松本が美空の帰りを待っていた。


「松本少佐、何か?」

 松本と基地の外で会ったのは始めてだ。


「少し、話がある。ちょっと歩こう」

 松本は美空の返事も待たずに歩き出した。


「明日の試験飛行だが、君に先導を頼みたい。F15の整備も依頼してある。と言っても大したことはできないが、燃料は補充した。森田が言うには問題ないとのことだ。森田のことだから間違いはないだろう」

「えっ」

 思いもよらない言葉が、松本から出た。


「炎龍を飛ばすだけなら問題ないが、ジェット戦闘機特有の飛ばし方を知りたい。レシプロ機にはできない空戦がジェット戦闘機にはできるはずだ。それを知っているのは、君だけだ」

 たしかに、この時代、ジェット戦闘機を操縦した経験があるものは極わずかだ。日本軍には一人もいない。


「申し訳ありませんが」

 美空は頭を下げる。美空には松本に飛行技術を教える義務はない。しかし、それ以前に、今の美空は空を飛べない。


「飛ぶのが怖いか」

 突然、松本が振り向いて美空の目を見つめた。

「はい」

 思わず、美空が本音を答える。


「飛べないのか」

「はい、私はもう飛べません。戦闘機に乗るのも嫌です」

 美空がうつむいた。子どものころからの夢。イーグルドライバーになることだけを考えていた少女時代。そして、厳しい訓練の末、自分はイーグルドライバーになった。それがどういうことなのか、本当のところは何も知らずに。


「それは嘘だな。君は飛べるし、飛びたいと思っている」

 だが、松本は美空の答えを否定した。


「君は目の前で友人を失ったんだったな。飛べないというのはそのせいか」

 松本が忘れたい、だが、決して美空が忘れていないけない記憶を付きつけた。


「はい」

 美空の目に涙が浮かぶ。


「だったら、なぜ戻ってきた。なぜ、その時、一緒に墜ちなかった。君は友人を失ったあともF15を操縦して、ここに戻ってきた。その事実からも君が飛べることは明らかだ」

「それは、」

 松本の言葉を否定しようとした美空だったが、どう言ったらいいのかわからなかった。


「君が飛べないのは怖いからじゃない。たとえ友人を空で失っても、君自身は今でも空を飛びたいと思っている。だが、その気持ちを後ろめたくて認められない、それを認めてしまったら友人に申し訳ない、そう思っているだけだ」

「そんなことは!」

 泣きながら、そんなことはないと否定しようとした美空だったが、なぜか言葉を続けることができなかった。


「俺は戦場で何機も敵を落としている。当然、多くは死んでいるだろう。俺がこの手で殺しているんだ」

 松本の言葉は美空に向けて言っているのか、それとも自身に向けてか。


「仲間も大勢死んでいる。今は俺の訓練した若い奴らが死んでいる。死なせるために訓練しているようなもんだ。戦闘機になんか乗りたくないと思っている奴らも、戦闘機に乗せて飛ばしている。もし、君が俺の部下なら、力づくで無理やりにでも乗せているだろう、甘ったれたことを言うなとな。傍から見れば、俺の人生は決して恵まれたものではないだろう。いや、俺自身、いっそう自分の人生に切りを付けたいと考えたことも何度もある」

 これが戦場の現実だ。ただ格好良い戦闘機を飛ばせばいいわけではない。友人を一人失うだけでも、人生が狂うほどの苦しみを感じるのだ。松本は美空以上に辛い経験をしている。


「だがな、それでも俺は空を飛ぶのが好きなんだ。自分の思い通りに飛行機が飛ぶ、それが、たとえ命のやり取りであっても、俺は楽しいんだ。もし、戦争で死ぬのなら、俺は空で死にたい」

 そう、松本は微笑んで言い、美空にはそれが真実だとわかった。


「ライト兄弟を知っているか?」

「もちろんです」

「俺は、ライト兄弟が初飛行した年に生まれた」

 確かライト兄弟の初飛行は1903年だ。ずいぶん昔のように思っていたが、1945年からは、わずか42年前だ。


「リンドバーグが大西洋を横断したのが、俺が23の時だ。そのころ、俺は操縦士の卵だった。リンドバーグの偉業には、心の底から感動した」

 松本が若いころを思い出す、遠い目をした。


「だったら、次は俺が太平洋単独飛行をしてやろうと思ったよ。残念ながら、先を越されたがな。結局、俺の操縦の腕が活かせたのは戦争が始まってからだった」

 松本だったら、きっとチャンスさえあれば必ず成功させていただろう。


「ライト兄弟が初飛行を成功させるまでに、失敗して死んだ人間が大勢いる。リンドバーグが単独飛行に出発する直前にも死者が出た。だが、リンドバーグは出発を中止しなかった。他にも空を飛ぼうして死んだ人間や、飛行中に死んだ人間がたくさんいる。空で大勢が死んでいるんだ。なぜだと思う。皆が皆、戦争で死んでるんじゃない。無理やり、飛行機に乗せられてるわけじゃない。自分の意思で飛ぼうとして、死んでるんだ」

「それは、空を飛びたいから」

 松本の質問に、美空の口から自然に答えが出た。


「そうだ、空を飛びたいからだ。人間は、空を飛びたいと思ってるんだ。もちろん、全員じゃない。だが、空を飛びたいと思う気持ちを抑えられない、空を飛ぶのが好きで好きでたまらない人間がいるんだ。どうしてだかわからんがな」

 松本が美空の目を真剣に見つめた。


「名は体を表すという。俺の名前はひろし、太平洋の洋だ。親父が名付けた。生まれたばかりの俺が海を見て喜んでいたからだ。だがな、」

 松本がふと笑みを浮かべる。


「きっと、俺が見ていたのは海の上の空だったんだ。それを親父が勘違いしたんだな」

 松本が声を出して笑った。いつも、厳めしい顔をしている松本の笑った顔を美空が見るのは初めてだ。


「君の名前は美空だったな。きっと君の両親は、生まれたばかりの君が空を見上げていたから、そう名付けたんじゃないか」

 そう言えば、そんなことを美空の母親が言っていたことがある。赤ん坊だった時から、空を見上げてよく笑っていたのよと。


「自分を認めたらどうだ。君は空が好きなんだ」

 松本が真剣な顔をした。


「たとえ忘れられないほど辛いことがあっても、空が好きで、飛行機に乗って空を飛ぶことが好きなら、それでいいじゃないか。自分を苦しめなくていい。申し訳ないなんて思わないでいい。自分の気持ちを、自分の夢を、心の底に無理やり押し込めなくていいんだ。君の亡くなった友人だって、君が好きなことを諦めたら悲しむはずだ。君は空を飛んでいいんだ、君のF15で」


 子どものころ、悠然ようらんと一緒にF15を見に行った。無理やり連れて行ったが、F15が飛び立つ姿を見て美空も悠然ようらんも声を出して喜んだ。その後も、家でF15のプラモデルで遊ぶ美空といっしょに、悠然ようらんも楽しそうに笑っていた。


――悠然ようらん、守れなくてごめん。でも、私は空が好きだ。また、飛んでいいかな。

――いや、悠然ようらんのせいにしちゃ駄目だ。私は、空を飛びたいんだ。


 美空は自分の心に気付いた。もう、怖くない。いや、飛ぶことが怖いんじゃない、自分の未熟さが、大切なものを守れない自分の弱さが怖かったんだ。だったら、強くなればいい、強くなるしかない、自分の大切なものを守れるように。


「松本少佐、明日のテスト飛行、先導させていただきます。私もまた、松本少佐から学ばせて頂きます」

「鷲津二尉、よろしく頼む」

 軍人の顔をして、美空は松本に敬礼した。

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