第二章
大鷲は大空を彷徨う
第七話 昭和二十年
美空の乗ったF15が錐揉み状に落下する。だが、目の前で起きた悲劇に心が未だ麻痺し、美空の意識は何も認識していなかった。
航空機のパイロットの天敵が空間識失調と呼ばれるめまいだ。上下方向の感覚が無くなり、上昇しているのか下降しているのかわからなくなる。どんなベテランのパイロットでも起きる可能性のある症状だ。
だから、パイロットは計器飛行を訓練する。自分の直感に頼ることなく、計器の示す数値を読み取り、どんな状況でも機械的に操縦できるよう徹底的に反復訓練する。自動車を運転している時に、バックミラーやサイドミラーを無意識に確認しているのと同じだ。もし、異常に接近してくる車があったら避けようとするし、車線変更時に危ないとわかれば中止するだろう。
そして、美空も、意識とは無縁に鍛えられた体が無意識に機体を立て直した。何も考えずとも勝手に手が動き、操縦桿を操作する。足が勝手に動き、ラダーを調整する。
美空が正気を取り戻した時には、すでに機体は水平飛行に戻っていた。美空が周りを見回すが、そこには何もない。青空が広がっているだけだ。旅客機の爆発の跡も、国見機も敵機もいない。ただ、一機で大空をまっすぐに飛んでいる。
暫し呆然としていた美空だったが、無線に問いかけた。
「マーベリック、応答せよ」
だが、無線からは何の応答もなかった。
「マーベリック、こちらラーク」
再度、問いかけるが、やはり何の応答もない。
「
僚機との連絡を諦め、基地を呼び出す。だが、基地への連絡もできなかった。
「爆発に巻き込まれた衝撃で無線機が駄目になったか」
美空が独り呟き、航法装置を見る。GPSで自機の位置を確認しようとしたが、GPSの電波が取得できていなかった。
「GPSも壊れた?」
機体の電子機器をチェックするが、故障はしていない。しかし、動作もしていない。何か問題が起きているようだが、詳細なチェックは基地に戻ってからでないと不可能だ。最後に飛んでいたのは魚釣島と沖縄本島の中間地点だったはず、まずは沖縄本島を目指そう。美空は高度を下げ、目視による飛行を試みた。
しばらく飛ぶと、沖縄本島の見覚えのある形状が見えてきた。よし、位置は確認できた。だが、やはり無線機は機能せず、新田原基地とも沖縄基地とも連絡はつかない。美空は沖縄上空を素通りし、九州へと向かった。
海上を飛ぶ美空だったが、ずっと何か違和感を抱いていた。そして、ふと気づいた。沖縄上空を飛んだ時に、旅客機を一機も見かけなかったことに。政府専用機が撃墜されたことで、日本発着の全旅客機の飛行が禁止されているのだろうか。そのことに思い至り、美空の頭に目の前で旅客機が爆発した光景が蘇る。美空の心が悲しみに膨れ上がり、ヘルメットの下の瞳には涙がとめどなく溢れた。
桜島の噴煙が見えた。宮崎まではあと少しだ。美空は高度を下げ、着陸の準備をする。駄目もとで新田原基地への無線交信を何度か試みると、雑音交じりの声が聞こえた。しかし、かろうじて応答があったのはセキュリティが確保された機密通信ではなく、一般無線だ。
「ラークより新田原基地へ。着陸の許可を願います」
無線から何か人が話す声が聞こえてくるが、出力が弱く聞き取りにくい。
「ラークより新田原基地へ。着陸の許可を願います」
「どこの……ものだ。所…を、……かにせよ」
かろうじて聞き取れた無線からの回答に、美空は戸惑った。
――こちらの所属を尋ねている? なぜ?
疑問を感じた美空だったが、いつまでも上空で旋回を続けているわけにもいかない。無線で氏名を名乗ることは機密管理上問題があるが、基地から尋ねられているのだから答えざるを得ない。
「こちら新田原基地の第5航空団所属、鷲津美空二尉。着陸の許可を願います」
「第5航…団…と?」
「はい、団長は
「航空自……? な……それは。海軍か、それと…陸軍…?」
海軍か、それとも陸軍か、いったい何を言っているのか。嚙み合わない会話に美空は首をかしげる。
「海上自衛隊でも陸上自衛隊でもありません、航空自衛隊の第5航空団所属です」
「海…でも、陸軍……ないだと? ちょっ…待て」
そう言って、無線が切れた。
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「
「所属不明の戦闘機だと?」
通信士から緊急の連絡を受け、別室で休んでいた新田原陸軍飛行場の作戦司令を勤める
「どういうことだ?」
「どうやら陸軍でも海軍でもなく、空軍の所属だと言っているようです」
「空軍だと? 本大戦の趨勢を決めるのは航空戦力だとあれほど進言していたものを、さんざん無視しておいて今更か!?」
お互い縄張り意識に縛られ、それどころか相手の足を引っ張ることに汲々としていると言っても過言ではない陸軍と海軍。それぞれが独自に戦闘機の開発運用をしている現状に業を煮やした山南が、ずっと前から主張していたのが航空戦力を一元管理する空軍の創設だ。だが、昭和20年3月の今となっては遅い、遅すぎる。
「しかも、操縦士は女のようです」
「女だと! 参謀本部はいったい何を考えている。ソビエトの女性連隊の真似か!」
男女平等の社会主義国では、女性も大勢軍人にしている。男にも引けを取らない戦果を挙げているというが、ようするに正規兵が足りなくなって猫の手も借りたいと補充したということだろうと山南は思っている。いや、会津戦争では
「しかし、そんな話は一切聞いていないぞ。さて、どうしたものか」
だが、後で悶着を起こしても
「よろしい、着陸を許可すると伝えろ」
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「…津二等兵、着陸…許可し…す」
「二等兵? 鷲津二尉です」
なんのことだろうと、美空は思った。
「し、失礼…ま…た。鷲…二尉、着陸…許可し…す」
美空は着陸許可が出たことにほっとし、着陸態勢に入った。
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「二尉とは、なんでしょうか? 二等兵とは違うのでしょうか?」
「わからん、新部隊を作るついでに新しい階級を作ったのだろう。語感からすると、大尉、中尉、少尉と似た感じだから将校のようだ。二等兵呼ばわりしたのは、まずかったな」
山南が通信士ににやりと笑う。
「男に舐められないよう、きばっているだろうから、あとで不敬だと横っ面を張り倒される覚悟をしておけよ。さて、どんな奴が来るか見に行くとするか」
指令室を後にし、山南が滑走路へと向かった。
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「なんだ、あれは!」
上空から舞い降りてくるF15を見て、山南が叫んだ。山南だけでなく、基地に常駐していた兵隊たちが、みな口をあんぐりと開けて驚いている。
「ジェット機のようです」
ただ一人、呆けたようになっている他のものとは違い、驚きを表に出さず冷静さを保っている男が言った。
「ジェット機だと! あれが陸軍が開発している火龍か?」
「いや、火龍じゃない。陸軍にあんなものは作れないでしょう」
火龍ことキ201は、ドイツが開発して実戦投入した世界初のジェット戦闘機メーサーシュミットMe262を参考に陸軍が開発中のジェット戦闘機だ。しかし、開発は難航し完成には程遠い現状だ。
「では、ドイツの新型か」
さすがドイツだと感心する山南に、いや、ドイツでもあんなものは作れないのではないかと男は思った。
そのジェット機が、轟音を轟かせて滑走路に着陸した。
「ほぉう、いい腕だ」
男の目が光る。
「松本君、君が感心するなんて珍しいな」
山南が驚くのは、今日はこれで二度目だ。陸軍航空部隊の指導教官として、松本ほど厳しいものはいない。少なくとも松本が他人を褒めるところを、山南が見たことは今まで一度もない。もちろん、それは少しでも戦場に送り出すものの命を無駄に捨てさせないためだ。
「初めての場所に着陸するというのに、全く迷いがない。たいしたもんです」
「そういえば、無線でこの基地の所属だと言っていたな」
「そんな話は初耳ですが」
松本も知らないとは、どういうことだ。大本営はすでに内部の統制まで失っているのかと思うと、山南は呆れるのを通り越してやり場のない怒りを感じた。
滑走路上に止まったF15を皆が取り囲んで見守る前で、キャノピーが開いた。そして、操縦士がヘルメットを外すと精悍な女の顔が現れた。
「いったい、ここは!?」
ハンガーに留まる旧式の戦闘機を見て、夢でも見ているのかと美空は自問した。それとも、すでに自分は爆発に巻きまれて死んでおり、ここはあの世なのか。
素人目にはゼロ戦と見まがうその機体は、太平洋戦争末期、日本の防空に活躍した四式戦闘機、俗称『
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