ずっと言えなかった言葉

 出だしとしては好調と評してよいのだろうか。

 有理紗からは『最初は十五秒程度だったら歌えるから』と聞いていた。だが実際に蓋を開けてみると、既に一番のサビの手前までは歌い終わっている。その出来上がったばかりの音源を糸佳と厳しく確認していたつもりだったが、特にこれといった問題はなし。声優としてメインキャラクターを粉しているだけのことはあり、ここまで一発OKというのはさすがの一言に尽きた。

 とはいうものの……今は大規模なちょっと休憩を余儀なくされている。それというのも華音が『ひとりでブースで歌うのが怖い』と騒ぎ始めたからだ。華音が歌うブースと、俺と糸佳のいるコントロール・ルームは、一面ガラス張りの窓を隔てて隣接している。とはいえ、華音の方はブースに一人取り残された状態になることは紛れも無い事実だった。いや、華音がひとりでいることと歌えないことという二つの事実は、そもそも相関関係にあるのか?という新たな疑問も生じたわけだが、ひょっとするとこれは華音が歌えるようになるためのヒントになるかもしれない。ただし今はむしろ、今日のこの後の収録をどう乗り切るか。それを考えなくてはならないわけだが……。


 俺と華音は、寮に隣接された喫茶店で糸佳が淹れてくれたコーヒーを飲みつつ、対策会議を行おうとしていた。糸佳の方は何かを思いついたらしく、コーヒーを淹れるとさっさと寮の方へ戻ってしまっている。それ故、ここに残されたのは俺と華音のみ。初めて来る喫茶店で、ぽつんと二人だけ。店員さえもどこにもいない喫茶店は、どこか異様な空気が漂っている。

 ……てかこの喫茶店、客は来ないのだろうか??


「なぁ、華音……」


 俺が話しかけても何も返ってこない程度には華音はしょんぼりとしていた。

 何か悪いことをした後のように俯いたまま、たまにコーヒーカップを口につけるだけ。糸佳の淹れてくれた特製ブランドコーヒーは、喫茶店中に甘い香りを漂わせていて、それでいて少しだけ苦味があった。どうやらこの喫茶店の名物らしい。普通に美味しい。


「この後、歌えそうか……?」


 華音は言葉を返す代わりに、首を横に振った。まるで小さな罪を犯してしまった小動物のよう。かといえ許しを請いているわけではなく、あくまでその罪を自分ひとりで背負い込んでいるかのようだ。これ以上華音を責めても前には進めない、そんなことは華音だってわかっているはずなのに……。


「まだ昼前だ。ゆっくり、時間がかかってもいいから……」

「…………」


 時計の針は間もなく午前十一時になろうとしているところ。しばらく寮には誰も帰ってこないらしいし、仮に誰かが帰ってきても特に気にする必要はないって糸佳は言っていた。夕方までスタジオを使わせてもらうにしても、まだ六時間近く時間は残っている。


「……めんなさい」


 すると華音はその口を小さく動かしたように見えた。


「ん? どうかしたか」

「ごめんなさい」


 華音はもう一度強く言い直す。華音の口から漏れた言葉は謝罪の言葉だった。


「お前、そんなこと言うなよ……」

「だってわたしは、大河くんや糸佳さん、有理紗先生にも迷惑かけてばかりで……」

「だからそんなこと言うなって」


 正直、俺は華音にそんな言葉を口にしてほしくはなかった。なぜならそれはあまりにも矛盾だらけで、事実とは一ミリも合致していないからだ。


「先週ね、未来さんが歌詞を持ってきてくれた時、わたし本当に嬉しかったの。わたしが歌う曲を大河くんが書いてくれて、未来さんが歌詞を添えてくれた。だから後はわたしが歌うだけ。それなのに……それなのにね……」

「だからやめろって」


 それ以上自分を責めるのはもうやめてほしい。


「だってこの曲、本当にわたしみたいなんだもん」

「え……?」


 華音は歌詞が書かれた紙をぎゅっと握りしめた。未来の想い、そして華音の願いが込められたその歌詞を、そのまま飲み込もうとしているんじゃないかって。そして、俺の……。


「六海って、本当にわたしそっくりだよね」

「ああ。それは俺も思った。原作のラノベを読んでる時からそう感じてたと思う」

「いつも我儘で甘えん坊で、周りに迷惑かけてることをあまり気にしてないとこ」

「お前それを自分で言うなって……」


 華音は小さくくすりと笑う。


「だけど内心ではそんなの自分でもわかってて、それでも平気だって強がっちゃって」

「本当に華音そっくりだな。そういうとこまで」

「……そして本音は、みんなに迷惑かけてることを罪のように感じてるとこ」

「…………」


 華音の言う通り、六海というキャラクターは実際そんな節があった。本音と、その裏返し。両極端でどこかやるせなくて、周囲からすると少々面倒な節がある。

 だけどそれこそが六海の持つ魅力そのものであることに違いなかったんだ。


「だから、本当にごめんなさい」


 華音はそんな六海の魅力に、気づいていないということなのだろうか……?


「いつも……今日だって大河くんに迷惑かけちゃって……」

「そんなバカな話、あるか!」


 もしそうだとするなら、この小動物にはお説教が必要だろう。六海の魅力に気づかないままそのCVを演じるとか、なんて戯けたことをって。


「お前、これまで自分がやってきたこと、本当に気づいているのか?」

「大河くん……?」


 小動物は急に驚いた小さな瞳をぱちくりしている。


「いつも俺の前をぴたぴた歩いていると思ったら、突然後ろを振り返って声をかけてきてくれる。俺はずっと後ろばかり向いていたからそんな声にもなかなか気づけなかったのに、それでもお前は立ち止まって、俺の手を引いてくれていた」

「わたし、そんな……」

「それが『ごめんなさい』って、何様のつもりだよ! ふざけんなよ!! そんなこと華音に言われる筋合いなんて一ミリだって存在しない! それを言うのは俺の方なんだから!!」

「ご、ごめんなさい……?」


 ……この小動物、この期に及んで謝ってくるとか俺に喧嘩を売っているのか?


「俺は、華音が好きだ!」

「…………」

「華音の声が好きだ! いつも立ち止まっている俺の足を奮い立たせてくれるお前の声が、好きで好きで仕方ないんだ!!」

「大河くん……?」

「だからそんな声で、『ごめんなさい』とか聞きたくないんだよ」

「ご、ごめ……」

「ありがとう。これまでずっと、ありがとう。俺はお前がいなかったら、作曲なんてもう二度とできなかったかもしれない。俺にもう一度音楽を授けてくれて、本当にありがとう」


 もう二度と『ごめん』なんて言わせるもんか。俺は華音の言葉を遮るように、その言葉を口にしていた。本当に華音には感謝しきれないくらいなのに、素直になれなかったのはむしろ俺の方なんだ。

 だから華音は謝る必要なんて、最初から一ミリも存在しなかったんだ。


「お前のフォローは俺が絶対にしてみせる。だから華音は前を向いて歌っていればそれでいいんだ」

「大河くん……」

「お前を一人になんて、絶対にさせたりしないから!」

「…………」


 ひょっとすると、俺と華音には言葉が足りなかったのかもしれない。

 俺には音楽があるのに、華音には人を魅了する声があるのに、どちらからも素直な言葉が出てこなくて、前に進むことができなかっただけかもしれない。言葉が存在しない世界で二人の時間は止まったまま、ただ暗闇の細い道を彷徨い続けていただけなのかもしれない。

 だがもしそうだとするなら……俺の気持ちは華音に伝わっただろうか。華音の気持ちを俺は本当に理解できているのだろうか。一方通行の行くあてのない道から、俺と華音は飛び出すことができただろうか。


 だけど一言だけ、はっきりと言えることがある。

 俺はやっぱり、華音が好きだ。


「あの〜……大絶叫の告白中、大変申し訳ないのですけど〜……」


 俺と華音が我に返る程度には甲高い声が聞こえてくる。ぎょっとして二人で後ろを振り返ると、糸佳がゴシップ記事を楽しむような顔で、こっちをじ〜っと見ていた。まるで『若い男女が愛の告白ですか〜』って顔で、いやいや糸佳だって俺らと同じ年だろと思わないこともないのだが。


「いやあの〜……」

「大丈夫です! そういうのには慣れていますから!!」


 だから何をどう慣れているというのだろう?


「それよりようやく準備ができましたです!」

「準備……?」

「はいです。だからそろそろスタジオに戻って、収録の続きをしませんか?」

「収録って……華音が歌えるようになる方法がまだ……」

「きっと大丈夫ですよ! ようは華音ちゃんをブースで一人にさせないようにすればいいだけですよね?」

「ああ……そうかもしれないが……」

「だから大河くんが華音ちゃんの隣に寄り添って、シンセを弾けばいいんです!」

「は? シンセサイザーって……」

「華音ちゃんの生歌に大河くんの生演奏、そんなの聴けるなんてイトカ夢のようです!」

「…………おい」


 無茶苦茶なことを言う糸佳に、俺は一つの疑念を抱いた。

 糸佳って、俺がピアノを弾けないという事実をそもそも知ってるのだろうか?

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