午後の始まりはパスタから

「シンセで伴奏すると言ってもなぁ〜、それって俺が華音の横で、シンセの再生ボタンをぽちっと押せばいいってことか?」


 シンセサイザーにはそれ自身に記憶させた曲を再生する機能がある。それであるなら打ち込みで作り上げていたMIDIデータをシンセサイザーに移して、シンセサイザーから再生ボタンを押せばさっきと同じような収録が可能なはずだ。


「もちろんそんなこと言ってないです! ここの一つだけ空いたトラックに、大河くんが音を追加していくってことを言ってるんですよ!!」

「うっ……」


 が、糸佳には俺が予備として空けておいたトラック番号が存在することを、完全に見抜かれていた。要するに、華音の歌の収録中に何かが物足りないと感じた場合に、そのトラック番号を使って俺が後から音を追加できるようにしてあったのだ。


「そもそもこの曲、ブラス系の音ばかり目立ってしまってて、何かこうピアノの音みたいなのが足りないって感じてたんですよね〜」

「ううっ……」


 それはそうだ。MIDIキーボードが使えない俺は、代わりにウインドシンセサイザー、つまりブレスコントローラーを使用して打ち込みを行なっていた。ハーモニカを吹くのと同じ要領で、息を吹き込むことで音色を作っていき、それをパソコンに伝えることができる。ウインドシンセは今や俺の作曲作業に欠かせないアイテムとなっていたんだ。


「だから大河くんが華音ちゃんの隣でピアノアレンジを加えていくんですよ!」

「待て待て。そしたら収録そのものは誰が仕切るんだ?」

「そんなのイトカ一人いれば十分です! お任せくださいです!!」

「…………」


 こうして少し早めのお昼ご飯を食べながら、午後の収録についてあれこれ議論したのだった。もっとも、ほぼ一方的に糸佳に押し切られる形で、俺の反論などほぼ無視されたような気もしなくもない。なお、その間の華音の様子と言えば、俺の隣で糸佳特製のパスタを口に頬張りつつ、少し眠たそうにうとうとしていたのも知っている。こんなことならお昼はパスタじゃなくて、少し刺激が強目のカレーにでもすればよかったんじゃないかとも思ったが、献立を決める際に糸佳が『カレーだと喉を痛めしまう可能性もあるのでパスタにしましょう』と却下していたのを思い出した。……そもそも喉を痛める程のカレーって、どんなカレーだろう?


 昼食後、ほんの僅かばかりの休憩を挟んで、再び三人でスタジオに入ったのはお昼の十二時半過ぎくらい。華音は相変わらず少し眠そうな顔つきをしていたが、正直言うと今はそんな余裕などない。


「おい華音。大丈夫か」

「うん、多分今度は大丈夫。隣に大河君がいてくれるから」

「お、おう……」


 なんの躊躇いもなく、そんなことを言う華音。俺の方が調子が狂いそうだ。


「それより大河君の方は大丈夫なのかな?」

「え……?」

「だって、キーボード……」


 華音にそう指摘され、俺はもう一度目の前のシンセサイザーに触れてみる。プラスチックの硬さがまず伝わってきて、ピアノの白鍵のような冷たさは感じない。ピアノが弾けなくなってから俺はキーボードに触れることも諦めてきたが、全体が木で造られたピアノと違って、やはり機械的でピアノとは異なる冷たさが俺の中へと入ってくる。

 俺はキーボードを人差し指で叩いた。間もなくヘッドホンから聴こえてきた音は、いつも有理紗が弾いてるピアノのそれ。キーボードを叩いた強弱までもほぼ完璧なまでに表現されている。その音は瞬間的に俺の脳内へ衝撃音のような刺激を運んできたが、その余韻はすぐに消えていくのがわかった。


「多分、大丈夫……」


 ……と思う。


「二人とも〜、そろそろ始めていいですか〜?」


 ブースに備え付けられたスピーカーから、糸佳の声が伝わってくる。


「ああ。サビの手前からだな」

「ううん。曲の始めからでお願いします!」


 俺の声を打ち消すように、華音は曲の最初からを促してきた。


「華音……?」

「だって、大河君の音がまだ録れてないもん」


 そうなんだが……正直、俺の音はスタジオじゃなくても収録可能だ。だからここは華音の収録に専念した方がいいと思うのだが……。


「それに大河君の音があれば、わたしの歌声もまた変わってくると思う」

「え……?」

「わかりましたです〜。そしたら曲の始めから開始しますね〜」

「糸佳さん、お願いします!」


 その華音の合図で、糸佳はコントロール・ルームから曲を流し始めた。ヘッドホンからは、糸佳が流す収録済み伴奏データの音と、華音が歌う歌声、そして俺のキーボードの音、その三つがミックスされて伝わってくる。まさかスタジオでこんなことになるとは予想だにしていなかった。猛烈な違和感ばかりが襲いかかってきて……いやそんなことを考える余裕さえもなく、俺が収録したはずの伴奏の音が雪崩のように襲いかかってくる。

 何か弾かなくては……そう考えながら形さえ存在しない譜面を、俺は叩こうとする。ピアノアレンジの譜面など用意する時間もなかったから、即興で弾かなくてはならない。確かに予めこう弾いてみようというイメージは用意していた。だがその音を掴もうとした瞬間、ぱちんと割れて弾け飛んでしまう。


 あ…………。


「すまん。もう一度最初から、お願いできないか」


 俺が一番最初に叩いた鍵盤は、明らかに場違いな音となってしまっていた。そんなの気にせず、即興のアレンジなんだから上手くごまかせばいいって、そういう考え方もできたはずだ。だけど俺は糸佳に合図を送って、曲を止めてしまっていたんだ。


「大河くん、大丈夫ですか〜?」

「悪い……」


 さすがに糸佳も俺の異変に気付いたようだった。心配そうな目で俺を見てくるが、どこか納得のいかない面持ちを隠せないでいる。ひょっとすると糸佳は、本当に俺がピアノを弾けないという事実を知らなかったのかもしれない。


「ねぇ大河くん……」

「ん……?」


 今度はすぐ横にいた華音が、俺の顔をじっと確認してくる。だがその顔はなぜか笑っていた。何がそんなにおかしいんだよって思えるくらい、俺を挑発するような美しい笑みを溢してくる。


「わたしのことだけを考えて、弾いてくれないかな」

「華音の、こと?」

「うん。だって、わたしは六海。この曲は、六海の曲だもん。だからだよ」

「だから……って言われてもだな……」


 華音はまだ笑っている。まるで俺の怒りや混乱を掃除機で吸い取るように。


「だって大河くん、わたしのことが好きなんでしょ?」


 そしてその一言が、鋭い矢のように、俺の胸へと突き刺さっていった。


「…………」

「糸佳さんすみません。もう一度最初からお願いしま〜す!」


 俺の代わりに華音が糸佳に合図を送る。振り返ると糸佳は小さく笑みを溢して、そして改めて曲を流し始めた。その音がヘッドホンから伝わってきた瞬間、何かスイッチが押されたかのように、俺もどこか吹っ切れたような気分になってくる。


 そうだ。この曲は六海の曲。それを歌うのは華音だ。

 華音のために俺は曲を書いたし、さらにそこへ音を加えようとしている。

 今加えようとしている音も、華音のことだけを考えればいい。

 いつも前向きで、がむしゃらに笑ってて、俺を励ましてばかりの華音。

 小動物のくせにいつも生意気で、我儘で、どこかネジが取れてて……


 でも華音の言う通りだ。俺は華音のことが好きだ。

 だから俺は最後まで、この曲を弾き続けてみせる。


 ヘッドホンの音は俺が予め用意した伴奏と、間もなく華音の歌声もそこへ加わる。

 俺はさらにそこへピアノの音を加えていく。指で叩いているのはシンセサイザーではあるけど、確かにピアノの音がした。……いやでも待てよ。これってシンセサイザーだよな。だったら音色も自由自在に変えられるはず。であればこの音よりももう少しこんな音……ほら、変えられた。絶対こっちの音の方がいいに決まってる。同じピアノの音色ではあるけど、俺は隙間を見計らって左手でつまみを調整していた。さっきよりも少しだけ硬めの音。糸佳にはバレたかもしれないが、これくらいの調整なら許容範囲だろ。


 あっという間に曲は最後のサビの部分に突入していた。華音の熱唱も耳から伝わってきて、俺も華音の歌声に溶け込むようなピアノアレンジを作り出せている。無我夢中でがむしゃらに。だってそれが華音なのだから。華音の全てを曲として作り上げるんだって。

 俺のすぐ横で楽しそうに歌う、華音と一緒に。


 そして、曲は最後の小節まで走りきった。

 その瞬間さえも、俺は何が起きたのか自分でもよくわからないくらいだった。

 ただはっきりしているのは、間違えなく最後まで辿り着いたと言うこと。


「す、すごいです〜! 最後まで歌いきっちゃいましたよ〜!!」


 ひょっとすると一番驚いていたのは、コントロール・ルームにいた糸佳だったかもしれない。俺の横にいる華音もまだきょとんとするばかりで、俺と同様、何が起きたのかさっぱりわからなかったようだ。まるで異世界から帰ってきたばかりのような、そんな顔をしている。いやもちろんそんな場所に俺も華音も行ったことはないが、きっとそういう気分なんじゃないかって。それというのも俺がそうだったから。華音もきっと俺と同じなんじゃないかって。


「ね、ねぇ……大河くん……?」

「ん……んん??」

「わたしたちって、最後まで歌えていたんだよね?」

「あ、ああ。俺は歌ったわけではなく、弾いてただけだけどな」

「…………」

「…………」

「……ねぇ大河くん?」

「今度はなんだよ?」


 すると華音は首を傾げていた。


「わたしたち、なんで歌えたんだろ?」

「お前がそれを聞くのかよ!??」


 まさに本末転倒だ。とはいえどうしてこうなったのか、俺にもわかってない。


「あの二人とも。少々休んでいただいても構いませんが〜」


 スピーカーから響く糸佳の声。やや楽しそうだ。


「今度はなんだよ……?」

「少し休んだら、テイク2、いきますですよ〜!!」

「な、なんでだよ!??」

「それはもちろん、大河くんが曲の途中でピアノの音色を変えたからです!」

「…………」

「…………」

「…………っ」

「ちょっと〜、大河く〜ん!!!」


 糸佳の主張はまさしく正論だった。すぐ真横から華音の悲鳴が聞こえる。

 だけどその中にはやはり笑みも含まれていて、俺もただ笑ってごまかすしかなかった。


 なぜ歌えたのだろう……? そして俺は、なぜ弾けたのだろうか?

 ひょっとするとその疑問の答えは、案外俺も華音も気づいているのかもしれない。答えとしては間違っているかもしれないが、それ以外に理由が思いつかなかったんだ。だから多分、リテイクも大丈夫だろうって。なんとなくそんな気もしていたんだ。


 こうしてスタジオでの収録は、リテイクだの俺と糸佳の熱い議論などすったもんだはいろいろあったが、夕方までには無事全てを完了した。三人で地下スタジオから出てくると橙色の夕日が空にあって、手を伸ばすと、大きな太陽はまるで手が届きそうな気がしたんだ。


 そう。全部、終わったんだ。

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