スタジオの中の華音

 伴奏の音源については既に俺が用意していて、後はそこに華音の歌声を吹き込むだけになっていた。というのも俺の編曲作業の方は無事先週末に片付いていて、その音源を使って華音も有理紗と練習していたんだ。だからある意味ここは藤沢の防音室とほぼ同じ環境で、華音はいつも通りに歌うことができるはず。俺は華音の歌声さえ録ることができれば、後はミキシングソフトを使って伴奏の音源と合体させればいいだけなのだから。

 もっとも華音にとってのいつも通りというのは、いつも通り『歌えない』を意味する。頼むから今日だけはそうであってほしくないのだが、本音言うと華音の顔同様、俺も自信はない。


「うわ〜。これが大河くんの新曲ですね? 相変わらずエグい曲です!」


 糸佳はヘッドホンでその音源を確認しながら、そう声を漏らした。


「毎月どこかの雑誌にその顔が出てくるITOに言われても皮肉にしか聞こえないぞ?」

「そんなことないですよ。イトカだって大河くんの新曲をずっと待っていたんですから」


 と言ってもアニメのキャラソンだけどな。原作ラノベがあり、そこに出てくるキャラクターが既に完成されていて、その上で成り立っているのがキャラソンというもの。だから俺のオリジナリティー性は決して高いものではない。いや、だがむしろ俺の復帰作としてはそれで十分だったのかもしれない。そこに作詞家として付き合ってくれた未来にも感謝するしかないけれど。


「それで大河く〜ん、わたしはここでどうすればいいのかな?」

「華音はヘッドホンから流れてくる伴奏に従って、いつも通り歌えばいい」

「うん。わかった〜」


 女子寮の地下にあるこのスタジオは、通常のスタジオと負けないほどまともな作りになっていた。その造りが華音が歌うブースと、俺と糸佳がいるコントロール・ルームの二部屋に分かれているのは当然のこと、機材も糸佳厳選の音響機材がずらりと並んでいて……いやいや、女子高生がこんな高級機材ばかり並べてそれを自在に操るとかさすがは社長令嬢と思わないこともなかったが、それにしてもマニアックなものばかりが並んでいて俺もどこか楽しい気分になってくる。

 もっともブースの方にいる小動物にはそんな余裕など全くないのだろうが。


 俺はもう一度、手元の機材を確認する。……特に問題なし。俺の方は。

 今日の収録は華音の歌声がいつどこで途切れてもいいように、どこからでも伴奏が開始できるようになっている。俺は持ってきたノートパソコンのDAWソフトを使い、伴奏開始位置にカーソルを移動させて再生ボタンをクリックするだけ。華音の歌が途中で止まってしまったら、その場から録り直せばいい。それを何度か繰り返せば、曲の最後まで辿り着けるはず。

 華音にしてみたらこの手法はやや邪道かもしれない。ただあながち、これといって特殊な手法というわけでもない。どんなに歌が途切れてしまっても、それは後の編集作業でどうにでもカバーできる。華音の場合、やや気長な作業になってしまうかもしれないが、そんなの端から百も承知だ。


「じゃあ華音。まずは曲の始めから行くぞ」

「…………」

「まずは歌えるところまで歌ってみろ。俺が華音をフォローしてみせるから」

「……うん、わかった」


 コントロール・ルームから華音に檄を飛ばす。ガラス越しのブースから、ひとりぽつんと佇む華音の弱々しい声が返ってきた。

 ……あいつ、本当に大丈夫だろうか。


 俺は曲の始めから、再生ボタンをクリックする。コントロール・ルームのスピーカーと華音のヘッドホンへ、その音楽が同時に流れ始める。やがてイントロが終わり間もなくAメロに辿り着くと、華音はその伴奏に併せてゆっくりと歌い始めた。


 ついさっきまで弱気な顔をしていた華音はどこへ消えてしまったのだろう。スイッチが切り替わったように、聴こえてくる歌声は華音ではなくアニメの中の六海の声へと変わっていた。それには俺もただただ呆然とするしかなく、『七色なないろ神音かのん』の魔力、ここにありと思わざるを得ない。目の前に、俺が先日読んだばかりのラノベの世界の光景が広がっていく。

 六姉妹が一つのテーブルに集まって、楽しそうに会話しながら朝食を摂る。六海がいつもの我儘をかまして、他の姉妹たちから猛烈に突っ込まれる。だけど六海はそれすらも楽しそうで、ひとり笑いながら大きなスプーンでオムライスを口一杯に頬張るんだ。おいおい、他の姉妹たちがもうカンカンだぞって、それに気づいているのかいないのか、六海はただただ笑って誤魔化している。


「華音ちゃん、歌すごい上手いです……」


 俺の隣に座っている糸佳も、ごく小さな声でそう漏らしていた気がした。その声ははっきりと聴こえなかったけど、口の動き、顔の表情から、やはり華音の歌声に魅入っていることがわかる。

 気がつくとBメロにも突入していて、もうすぐ一回目のサビに入ろうとしている。ひょっとしたらBメロの前で一回切った方が良かったのかもしれないが、都度止まっていたらいつ華音が歌えなくなるかわからない。だから今は歌えるだけ歌わせてみようと……


 華音の歌声が止まったのはその時、一回目のサビに入る直前だった。俺は有理紗から最初は十五秒くらい歌えるはずだと聞いていた。それを遥かに上回る長さを歌っていたわけだから、最初の一発目としては十分だと思う。


「よし華音。俺と糸佳で音源を確認するから、その間ちょっと休憩だ」

「…………」


 華音が休んでいる間、俺と糸佳で録れたてほやほやの歌声をチェックしていく。声が擦れているところはないか、雑音が紛れ込んでしまっていないか、一つ一つを見落とすこともなく……。

 だがその前に何かを感じて、俺はもう一度華音の今の様子を確認した。


「……ん、どうした華音?」

「大河くん……」


 それは歌い始めの時より、明らかに様子がおかしかった。いつも華音が歌うのをやめてしまった時みたいに顔色が悪くなっているというよりも、もっと何かが違う……


「とりあえず、そこで休んでろ」

「違うの大河君。そうじゃなくて……」


 華音の顔色が悪くなっていたのではなく、どこか怯えているようだったんだ。


「わたし、もう歌えない」


 歌えない……とは? 休んででも最後まで歌いきるのではなく……?


「どうしたんだ、華音?」

「だってここ、なんだかひとりで怖いんだもん!!」

「……………………おい」


 よく見るとブースにぽつんとひとり……それは檻の中に一匹完全に閉じ込められてしまった小動物のようにも見えてきた。檻の中でわんわんと騒ぐ小動物、もとい、華音。どっちかというとこれは、体調が悪くなったというよりは、さらに精神的に不安定な状況だと表現した方が正しいかもしれない。


 てかそれ、どうしろと???

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