境川の上流にある某スタジオにて

 時間というものはどれほど無情なものなのか。


 土曜日。と言ってもそれは、未来が歌詞を持ってきたその翌日という話ではなく、それからさらに一週間後の土曜日のこと。俺と華音は電車を乗り継いで、神奈川県境近くにある住宅街へとやってきていた。駅から歩いて二十分ほど。もう少し行くと境川が流れているらしく、その橋を飛び越えると東京都となるらしい。まさかこんな場所で境川の名前を聞くとは思わなかったが、なるほどここまで上流に来ると東京都と神奈川県の境になっていたのか。藤沢市内を流れるそれはどこか名前に違和感もあったので、思わず合点してしまう。ただし今日の目的地はその少し手前にある女子寮だった。


「なんだよ。スタジオに辿り着く前から緊張してるのか?」

「だって……」


 俺の横をとぼとぼと歩く華音。いつも俺の前をぴたぴたと歩き回る元気さが今日は見られそうもない。小さく小さくしょんぼりとした小動物のようで、収録前から誰かに怒られているかのようなそんな具合だ。


「正直、もう歌うしかないだろ」

「だってわたしはまだ……」

「まだ歌えないかもしれないが、それを見越しての収録だから問題はない。多分」

「大河君それ、全然フォローになってないです!!」


 あ、やっと元気が出た。……と表現していいのだろうか?

 事実、昨日も有理紗と粘り続け、歌のレッスンに励んでいたようだが、結局のところ歌い続けていられるのは長くて十五秒程度と話していた。それからちょっと休憩を挟んで、もう一度歌い続けると次に歌えるのは十秒ほど。そして、五秒、二.五秒、一.二五秒……いやいやそんなに短くなってしまったらもはやフレーズでもなんでもないだろと有理紗の話を聞きながら思ったが、そんな具合であるが故、一向に前に進まなかったらしい。

 唯一の救いは、一旦歌い出すと恐ろしいほど綺麗な美声が出てくるのだと有理紗は評していた。その幼さのちらつく顔からは想像ができないほど、声の土台がしっかりしていて、力強くも繊細な表現力を持っているというのだ。さすがは『七色なないろ神音かのん』の持ち主というだけあって、とすると尚更その歌声をちゃんと聴いてみたいという期待感がある。……もっとも今日は最初からこの有様だ。期待するだけ無駄かもしれないが、とにかく根気よく粘るしかないかもしれない。


 とはいえ、先週の月曜日はもう少し長く、一分くらいは歌えていた気がする。

 俺のハーモニカと華音の歌声で、二人で藤沢駅前で奏でたその音色はなんだったのだろう。しかもあの時の華音は歌い終わった後も顔が青ざめることもなく、元気そのものだった気がしたのだが。

 あの時歌えて、今また歌えなくなってしまった理由というのは一体……。


「大河くん、でしたよね?」


 住宅街の片隅から唐突に聞こえてきた、やや甲高い声。その声の方に振り向くと、やや幼い顔がふと視界に飛び込んできた。


「ああ。今日はよろしく頼む」

「任せてください! えっと、そちらの方が華音ちゃんですね?」

「あ、はい……。えっと〜……?」


 あれ。華音は初対面だったのか。と言っても最近は音楽雑誌などにもよく出てくる顔だし、知っててもおかしくはないと思っていたが。ひょっとすると華音のやつ、アニメ雑誌ほど音楽雑誌はあまり読まないのかもしれない。


糸佳いとかです。普段はITOいとって呼ばれてますけど、今日はよろしくです!」

「あ、はい。よろしくお願いします……」


 華音のやつ、かなり緊張している。糸佳は俺らと同じ年だし、そんなに緊張する相手でもないのだが。

 大山糸佳。その筆名をITOとしていて、音楽業界では今や知らない人はいないくらいだ。俺と同じく高校生作曲家で、以前は何度か俺と有理紗の部屋にも遊びに来たことがある。最近は活動拠点を東京都内に移したらしく藤沢まで来ることも少なくなったが、それでも『BLUE WINGS』のメンバーとしてデビューして以降は、俺もテレビや雑誌などで何度かその顔を拝見している。

 もっとも、少々天然の性格がある故か、芸能事務所社長の一人娘であることは今でも他言無用となっているらしい。同じ事務所に所属しているはずの華音が知らないのも、ひょっとするとそのせいかもしれない。


「あれ? 今日は未来みくや、他のメンバーたちは?」

「未来ちゃんでしたら今日は朝からレッスンです。大河くんによろしくって言ってました。それと茜ちゃんはショッピングって言ってましたです」


 そうか。今日は未来はいないのか。あいつも何かと忙しそうだよな。……でも待てよ。未来って確か同じグループのメンバーとも一緒に暮らしてると言ってた気がしたのだが。


「この寮って確か、他にも誰か住んでなかったか?」

「まな……瑠海ちゃんは今日もデートです!!」


 そう、春日瑠海だ。元国民的女優で、そのオーラは半端ないことを覚えている。


「あれ? 糸佳さん、どこか怒ってませんか?」


 と次に声を出したのは華音だった。いや、俺が気になったのは『今日は』ではなく『今日も』という点だったのだが。今や春日瑠海って、仮にも事務所を代表するアイドルだった気もするのだが。


「瑠海ちゃんと優一くんがデートしたくらいで、そんな怒ってるわけないじゃないですか。イトカと優一くんはこれでも一応妹と兄ですよ? イトカや未来ちゃんが仕事って時に、瑠海ちゃんが誰とデートしようが、イトカには一ミリも関係ありませんです!!」


 ……うん。優一くんというのが誰かは知らんが、とりあえずこのネタを話すのは今日は止めておこう。俺の隣できょとんとその話を聞いていた小動物も、その点については俺と同意したようだ。


 住宅街にある小さな喫茶店。喫茶店の奥の方に小さな扉があり、その先が未来たちの暮らす女子寮となっている。扉を潜って目の前の階段を降りると、そこに今日お世話になるスタジオがあった。


 華音は小さく息をついた。いつもの声を出す仕事。ただしここで響かせるのは、アニメのキャラクターの日常会話の声ではなく、キャラクターの歌声の方だ。なんだ、そう考えると華音にとってはいつもやってることと同じじゃないか。

 だけど華音は一抹の、いや確かな不安を、その顔から隠せないでいるようだった。

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