華音の歌、聴いてもらえますか

 俺は未来をリビングまで案内すると、電動コーヒーミルでコーヒーを淹れる。未来が来た時はいつもこの酸味の少ないブラジルコーヒーだ。ただし、未来が特段とブラジルコーヒーを好んでいるわけではなく、『寮の喫茶店であたしがいつも飲んでるやつだから』という理由らしい。はて、寮の中に喫茶店があるとかどんな寮だろうと思わないこともないが、それでも未来は俺が淹れたコーヒーでも美味しいと言ってくれるので助かる。ま、電動ミルに任せてるだけだからそれ以上でもそれ以下でもないわけだが。


「ひょっとして華音ちゃん、まだ歌えないの??」

「ああ。見ての通りだ」


 ブラジルコーヒーの程よい香りが漂うリビングにも、微かながらピアノの音が響いてくる。隣接された防音室に小さなポメラニアンが目の鋭い狼に連行され、再び歌のレッスンを始めていた。あんな状態でそもそも歌えるはずもないと思うが、収録を一週間後に控えた状態ではさすがにそうも言ってられないか。華音もそれとわかってるから有理紗に対して文句一つ言わず、頑張っているのかもしれない。


「大丈夫かなぁ〜……」

「まぁ、どうにかするしかないだろ」


 正直今はそう願うしかない。それ以外にできることと言えば……。


「あ、来週の土曜日だけど、うちの寮内のスタジオを使えるようにしておいたから」

「それは助かる。あの状態では一曲収録が終わるのに何時間かかるかわからないしな」

「そうみたいだね……」


 未来の顔は半分引きつっている。普通の収録スタジオを使おうとなると、華音があの状態では収録に時間がかかりすぎてしまい、スタジオの前後のスケジュールなどにも影響出かねない。その点、『BLUE WINGS』御用達のスタジオを使わせてもらえるのであれば、その迷惑も最小限に抑えられるという算段だ。

 とはいったものの……。


「でも未来の寮って女子寮じゃなかったのか? そんな場所に俺が同伴しても……」

「そこは大丈夫だよ。女子寮って言っても管理人は大河君と同じ年の男の子だし、それに寮生もみんな忙しくてほとんど部屋にはいないから」

「そうか……?」

「それに収録にはうちの名作曲家のITOいとちゃんも同伴してくれるらしいから、大河君のサポートもばっちりじゃないかな」

「ああ。それは心強いな」


 ITOというのは未来と同じ『BLUE WINGS』のメンバーで、『BLUE WINGS』の曲のほとんどを手がけている作曲家だ。そんな彼女がいてくれるのなら、何かあった時の対応も心配ないだろう。

 とは言え、女子寮の中にスタジオや喫茶店があり、そこには今が旬のアイドルたちが暮らしているという。そもそも芸能事務所の女子寮とはどんな場所なのだろう。どこか俺にとっては異世界のような場所に感じられ、思わず深い溜息が漏れてしまう。


「ん? どうしたの??」

「いや、そんな寮に未来や『BLUE WINGS』の他のメンバーも住んでるんだろ? 本当に俺なんかが行ってもいいのかなって」

「他のメンバーと言っても今はあたしと春日瑠海だけだよ。後は蓼科たてしなあかねちゃん」

「いや、その二人の名前だけでも事務所のツートップという印象はあるのだが」

「ふ〜ん。それってあたしがあの二人より劣るって素直に認めてるよね。てか、大河君には華音ちゃんというものがありながら、そこを気にするって浮気ですか!?」

「なんでそこで浮気って話になるんだよ!!」


 そもそもなぜ皆俺と華音をくっつけたがるのだろう? 未来は俺をからかうようにくすっと笑みを溢していたが、どこか満更でもないような、明らかに何かを誤解しているような顔にも感じられた。


「でもさ。華音ちゃんが歌えるかどうかはやっぱし大河君次第な気がするんだよね」

「それはどういう……?」

「だって月曜日に華音ちゃんが歌えたのだって、大河君の伴奏があったからでしょ?」

「それは因果関係が全く合ってないと思うんだが」

「それに大河君が曲を書けたのも、華音ちゃんの後押しがあったからじゃない?」

「…………」


 その点については否定できなかった。華音が『わたしのことだけ考えて』と言ってくるので、俺はその通りにしてみると、それまでバラバラだった音は一本に繋がった。翌日、それと同じ手順で俺は華音の曲を書き上げることができたんだ。華音のことを考え、そこへ華音が演じる六海むつみを映し出していく。華音の歌手デビュー曲ともなりうるその曲は、そんな手順で完成されたんだ。


「だからさ。華音ちゃんはきっと、大河君を待ってるんじゃないかな」


 未来はそんなことを言う。


「……何を?」


 だが俺は、どこかその言葉を飲み込めずにいた。それはきっと俺が意固地になってるからとか、そういう話ではなくて、単純に華音が歌えるにはどうしたらいいかということ。俺の望みは、華音が無事に歌声を取り戻せることだ。


「だったら、試してみればいいんじゃない?」

「だから何を?」


 有理紗と華音が防音室から飛び出してきたのはその時だった。華音は逃げるかのように、俺の影へと隠れてしまう。……えっと、この小動物を有理紗の前に差し出せばいいってことか?


「こら待ちなさい。華音ちゃん!」

「やだ! 今日はもう歌いたくないんだもん!!」


 って有理紗も有理紗だ。華音の気力が失われるまで歌わせるとかどんな状況だ?


「もう時間ないんだから、課題曲を一曲歌いきらないと」

「嫌なんだもん。歌えないことが辛いから、もう歌いたくないんだもん!」

「華音ちゃん!!」


 俺の真横で、小動物は小さく小さく縮んでいった。もはや見る影もない。


「あの〜、有理紗先生?」

「ん、どうしたの未来さん?」


 小動物を追いかけ回す狼、もとい、有理紗に対して、未来が声をかけた。なお、小動物は……あ、とりあえずこいつはこの場で放置しておこう。


「ひょっとしたらですけど、先日大河君が書き終えたこの曲なら、華音ちゃんも歌うことができるんじゃないでしょうか?」


 あ、なるほど。未来の提案に俺も思わず合点してしまう。……いや、本当に合点していいものかどうかはよくわからないけど、未来の言いたいことはなんとなく理解できた。いやいや、理解していいものかどうかもよくわからないわけだが。


 未来は出来立てほやほやのその歌詞を、四部印刷してきてくれていた。有理紗、俺、華音、そしてもう一部は自分用のようだ。俺もその歌詞に目を通す。曲のタイトルは『六海の歌、聴いてもらえますか』という。これは火曜日に俺が曲を書き終えた際、パソコンから流れるその旋律を華音に聴いてもらって、その時に華音がふと思いついたタイトルだ。『だってこの曲をわたしが歌うんだもん』って、ここで縮こまっている小動物が嬉しそうにそう仰っていた気がする。

 未来が書いた歌詞には、六海の切ない想いが詰まっていた。甘えん坊で我儘で、それでいて頑固で、それは確かにアニメのキャラクター、六海の性格そのものなのだけど、CVを務める華音自身の気持ちを鏡で映し出したそれにも思えた。そしてその歌を待っている観客も見え隠れしている。誰を意識したのか知らないが、六海の周りに多くの人が集い、その歌声を愉しんでいるんだ。

 楽しくて、素敵な、未来の歌詞はそんな曲に仕上がっていた。


「わたしこの歌、今すぐ歌ってみたい!!」


 さっきまで俺の横で小さくなっていた華音は、何を根拠にかそう叫んだ。


「わかったわよ。とりあえず防音室でもう一度歌うわよ。大河、これのピアノの譜面ある?」

「んなもんあるわけねえだろ。未完成で中途半端なスコア譜ならあるけど」

「それでいいわよ。とっととそれを印刷しなさい」

「あたしも聴きたい! 今日金曜だし、遅くなってもいいですから」

「未来さんも聴いてってください! わたし、頑張りますから!!」


 これで全てのピースは揃った。

 もちろん俺の編曲はまだだけど、それだって今週末には完成するだろう。

 あとは華音の歌声がここに加われば――



 ……の、はずだったのだけど……。


「……おい。さっき何秒、歌えた?」

「えっと〜、五秒くらい?」

「う〜ん……来週の収録、本当に一日で終わるのかしら??」

「ご、ごめんなさい!!」


 結果は、華音の惨敗だった。

 俺がスコア譜を印刷して、それを有理紗に手渡す。有理紗はその譜面を一通り目を通すと、アレンジした伴奏を試しに何度か弾いてみる。さすがは名作曲家の妹だけあって、数分も経たないうちに見事な伴奏曲が出来上がった。

 後は華音が歌うだけ。防音室にイントロが流れ始め、まずはAメロから、華音が歌詞を見ながら歌い始める。それは実に美しい歌声に思えた。……ほんの僅か五秒くらいは。

 突然歌声がぴたりと止まり、何事かと思って確認すると、華音の顔色はやや青ざめて見えた。なるほど、これが病院送りの代わりに現れ始めた華音の新しい症状らしい。確かにこれ以上歌わせるのは危険と思わせる程度には、変わり果ててしまっていたわけで……。


 収録日まで、あと一週間。

 ……いやこれ、本当に大丈夫なのか??

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