観覧車と華音の笑顔

 横浜の大観覧車はくるくるくると回り続け、俺と華音は間もなくそのてっぺんまで上ろうとしていた。巨大な夕焼けが三百六十度の窓から直接入り込んでくる。その光はやや眩しさを感じるほどで、俺と華音の身体を紅く染め上げている。

 華音は自慢の大きな瞳で、じっと俺の顔色を伺っていた。俺に曲を書いてほしい、って。なぜそんなことにそこまで拘るのか俺には未だに理解できないのだが、これまで何度も聞かされたその頼みを、今日もまたねだってくるのだ。


「ねぇ。なんで、なのかな?」

「ん……?」


 華音は首を少しだけ斜めにさせて、俺にそう尋ねてきた。


「なんで大河君は、作曲をできないんだろ?」

「…………」


 だがその質問には俺も多少の疑問が残った。そもそもそれは質問として正しいのか?


「そもそも俺は本当に、作曲ができないのだろうか?」

「……え?」


 ふと見ると、華音はきょとんとした顔をしている。それはそうだろう。疑問の根底にあるものから一瞬でひっくり返されたのだから。


「俺は確かにピアノを弾けない。それはもちろん、あの事件があったから。あの事件の真相を知りたくて……俺の曲が人を殺したわけじゃないって、何度も何度もあの曲を弾き直していたから。だが、気づくと俺はピアノを弾けなくなってた。今でもピアノに触るだけで目眩がするほどで……」


 この前だって俺が倒れたところを華音に見られてしまったばかりだ……。


「だけど作曲ができないのかどうかなんて、俺は知らない」


 それは、試したことがないから。試したくもないんだ。ただそれだけの理由。


「だったら大河君は、作曲はできるかもしれないってこと?」


 華音は真ん丸の瞳で、俺にそう問いかけてくる。その視線は赤い夕日の光と重なって、俺の胸を強く刺激してきた。


「いやだからわからない。でもピアノがなくったって作曲はできる。ポップスであれば、ハーモニカで曲を形どって、ギターでコード進行を作れば、それなりのものができるとは思う」

「だったら何の弊害も……」

「そうじゃなくて、俺が曲を書いていいのか、それがわからないんだ」


 それはただの考えすぎなのだろうか。……いや、そんなものではないはずだ。

 俺の頭の一番内側から、もう書くなって言われ続けている気がする。直接的にそう訴えられている。それが決壊を堰き止める防波堤のようでもあり、俺の脳内で新しい曲が生み出されるのを拒絶しているように思えるんだ。ただ何となく、漠然とした感覚でしかないのだけど。


「だったらさ、一小節ずつ、譜面を埋めていけばいいんじゃないかな」

「え……?」


 観覧車が間もなく一番てっぺんにたどり着こうとした時、華音の温かい声が、俺の耳に伝わってきた。


「大河君なら大丈夫だよ。今だってあんなに素敵なハーモニカの音色を響かせられるんだもん。その輝きは、あの頃と何も変わってないよ」

「あの頃……?」


 そのふとした言葉に一瞬躊躇したが、気がつくと華音の細い両腕が、俺の背中をすっと温めていた。柔らかい声音、柔らかい身体、柔らかい体温……。その全てが俺の身体全体を包み込んでくる。密接した互いの心臓の音が絡み合い、互いにとくんとくんとときめきあっている。まるで遠い記憶の彼方にある母親のような心地よい感触が、俺の胸をそっと襲ってきたんだ。


「あの曲だってさ、大河君は人を傷つけたくて書いたわけじゃない……」

「そんなの当然だよ。俺は人を救いたくて、あの曲を書いた」


 だけど結果的に見たら、人を傷つけてしまった……。


「でも……だったらそれでいいんじゃないかな。曲を書いた時の気持ちが大切であって、それでも曲を聴く人、弾く人はまた別の感情を抱く。伝わり方だってその時の感情一つで何もかもが変わってしまう。それって、当然のことじゃないかな?」

「そんなのただの言い訳じゃあ……」

「言い訳なんかじゃない。大河君はピアノを奪われてしまったし、わたしは歌を奪われてしまった。あの曲に命さえも奪う力があったかどうかなんて、わたしは知らないよ。だけど、その音楽に罪はないと思うんだ。聴く人、弾く人の感情がなければ、それはただの音楽でしかないんだもん」

「でも、そしたらお前は……」

「わたしは大河君の曲を恨んだことは一度もないもん。だってわたしは……」


 華音は声を少し震わせて、その次の言葉を失ってしまっていた。俺の曲を恨んだことはないと言いつつも、本当は別の感情がそこに積もっているのかもしれない。それが今ここで溢れ出しそうで仕方なく、華音は必死にそれを堪えているようにも感じられた。


「ねぇ大河君……」

「ん……?」


 それを必死に堪え、華音の声音はまた柔らかく優しいそれに戻っていく。


「大河君は自分で書いた曲、嫌いなのかな?」

「俺の……曲……?」


 俺は、自分の音楽が嫌いなのだろうか。

 そんなこと、考えたこともない。物心がついた頃には既に音楽がそこら中に溢れていて、俺は他にすることもなく、導かれるように作曲をしていただけかもしれない。だから作曲していて苦しいと思った時はあまりなかった気がする。いや、それは少しだけ嘘だろうか。自分の感情と向き合うのはさすがに労力がいるし、それを形にするのだって辛いと感じる時もある。だがそれは作曲という技術的な話ではなく、精神的な話だ。

 それを乗り越えてあの曲は完成したはずだった。そこに悔いなどない。なぜならあの曲は、その時の俺全てを注ぎ込んでやろうって、そのつもりで書いた曲だったから。もちろんたかだか高校生の人生なんて底が知れてる。大人が書いた曲と比べたら非常に安っぽくて陳腐なものかもしれない。それでも今書けるだけのことを書いてやろうって、その想いで書いたのは紛れもない事実だから……。


 だとすると俺にとって俺の音楽というのは、嫌いになれるはずなんて当然ない。


「……わかった。華音の曲、書いてみるよ」


 観覧車の一番てっぺんで答えたそれは、自然と導き出された答えだった。行き先は不明の答えではあるけど、俺の奥底に眠っていた本音だったかもしれない。それをなんとか取り出したのが華音であって、結果として華音が喜ぶのであれば、俺はそれでいいんだってそう思った。

 だって華音がまた泣き出しそうな顔で、俺を見つめてくるじゃないか。その顔をやめろって、俺は何度となく言ったはずなのに、今はそれを……


「だからそんな顔するなって」


 ……俺は笑顔で、そう受け止めていた。


「だって、ようやく大河君の新しい曲が聴けるんだもん」

「まだ書けたわけじゃないし、これからやってみないと……」

「大丈夫だもん。大河君だったら絶対書けるもん」


 こいつ、本当に、どこまでが演技で、どこからが素顔なのだろう。

 今この笑顔が素顔だとしたら、俺は素直にそれを受け取るしかない。

 いろんなものが弾けそうな華音の顔は、もうぐしゃぐしゃになってるんだから。


「だが俺が曲を書けたとしても、もう一つだけ問題があるな」

「え、問題……?」


 まるでそんな問題知らないよ〜なんて顔で、円らな瞳で訴えかけてくる。

 ……おいおい。まさかその最後の問題の件を本気で忘れてるんじゃないだろうな?


「それは華音、お前が歌を歌えるかどうかだ」

「ぅ……」


 あ、こいつの顔また小さな小動物に戻りやがった。

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