華音と大河
華音は予定通り、その日の午後に退院した。
昨日は母親に対してあれだけ大声を出して決して安静とは言えなかったと思うが、それでも今日の午前中はずっと病室で大人しくしていたらしい。有理紗が看護師から聞いた話によると、昨日とは別人のように静かにしていたとのこと。それだけ聞くと華音のやつ、どれだけ看護師に迷惑をかけていたのかと思えてきたが、ひとまず無事に退院できたことが何よりもほっとしていた。
俺が高校から帰宅するのとほぼ同時に、有理紗と華音も帰ってきた。どうやら退院後、お腹を空かせたという華音に対し、有理紗が食事に誘ったらしい。女性二人で焼肉食べ放題の店へ行ったらしく、何とも度胸があるなというのが率直な感想だ。だがそのおかげで華音の笑顔が戻ってきたようにも見え、有理紗の機転の良さに感謝さえもしていた。
そもそも華音をここまで追い込んでしまったのは、結局のところ……。
そんな話をリビングでした後、俺が自分の部屋で制服から着替えていると、ドアをノックする音が聞こえてきた。有理紗はおよそノックもせず堂々と俺の部屋に入ってくるので、恐らくドアの向こう側にいるのは華音の方だろう。俺は少しだけ慌てたが、やや小さめの溜息を吐いた後、ドアをゆっくりと開けた。
「ねぇ大河くん?」
真ん丸の瞳をきらきらと輝かせ、上目遣いで何かおねだりするような華音の顔が、俺の視界に飛び込んでくる。弾け飛んでしまいそうな、柔らかい声。まるで俺の身体が溶けてしまいそうな、そんな心地さえしたくらいだ。
「なんだよ……?」
それに引き換え、なんてぶっきらぼうな返事なのだろう。最高にかっこ悪い。
「大河君も、ピアノ弾けないんだっけ?」
「ん? ……ああ」
ピアノなんて、自分の部屋にあるのも嫌なくらいだ。
「そしたら、わたしと同じだなって」
「え?」
「わたしは歌が歌えない。大河君はピアノが弾けない」
「俺はピアノが弾けないどころか、作曲もできない、なんの取り柄もない人間だぞ」
「いいじゃんそれでも。まだ自分のこと『作曲家』だって、少しでも思えているのなら」
華音は壊れそうな笑みを溢しつつ、そんなことを言ってくる。そもそもなぜ俺は『作曲もできない』なんてことを言ったのだろう。まるで未練たらたらじゃないか。もう半年近くも作曲をしていないのだから、やはり俺は作曲家とは到底言えないだろう。……ふっ。そんなの今更じゃないか。俺が作曲なんてできなくても誰一人困るやつなんていないんだから、それならその方が世の中平和というものだ。
「でも……わたしは大河君がまだ作曲家って名乗ってもいいと思うけどな」
ただし華音は物語をゆっくり読み解くように、そう諭してくる。ひょっとして、俺を励まそうとしているのか……?
「華音のくせに、生意気だな」
「褒め言葉、ありがとう」
「別に褒めてねえって」
お互いに小さく笑い合う。大切なものを失ったもの同士、情けない限りではあるけれど。
「わたし、でもやっぱし悔しい」
「あ……ああ」
「歌手になりたくて声優を始めたのに、大好きな歌が歌えなくて、いつになってもずっと立ち止まったままで」
華音は下に俯いていた。俺の目には映ることのない大きな壁にぶつかって、ただただ立ち尽くしているかのようだ。
「でも華音は、ちゃんと声優として成功してるじゃねえか」
「ううん、きっと違う。こんなのきっと成功じゃないと思う」
「そんなバカな話があるかよ」
俺と違って、声優としての一歩を間違えなく踏み出そうとしている。華音自身が今できることを精一杯手を伸ばして掴み取っていて、それが成功じゃなかったらこの世に成功なんて存在しないんじゃないかって、そう思えるくらいだ。
「華音は焦らなくてもちゃんと前を突き進んでるし、それでいいんじゃないか?」
それに引き換え俺は、有理紗の言う通り何もできていない。ずっと時間は止まったまま。
「ねぇ大河君……」
「な、なんだよ」
だが華音はやはり納得がいかないのか、少し困ったような顔を浮かべ、俺にその円らな瞳をぶつけてくる。迷子になった子犬のような面持ちで、俺の調子はますます狂うばかりだ。
「わたし、本当に前に進めているのかな?」
「声優としてそこまで成功を収めてたら、それ以上文句のつけようがないだろ」
「違うよ。そうじゃなくて……パパはパパじゃなくなっちゃうし、ママとはあんな風に喧嘩しちゃうし……」
「ああ、そっちの話か。でもそれは華音のせいじゃないだろ?」
「違う、そうでもなくて……」
「だったら何が言いたいんだよ?」
どこか煮え切らない。だが華音は何かに躓いていた。漠然とした不安を、今にも何かが溢れ出しそうなその顔とともに、弱々しい声で吐露してきた。
「わたし、このままずっと一人ぼっちなのかなって」
「そんなこと……」
「大河君には有理紗先生がいる。だけどわたしには……」
「そんなことない。華音にだって……」
だがその瞬間、俺はほんの僅かに考えてはいけないことを頭に思い浮かべてしまった気がした。だけどそれは違う。俺はぐっと言葉を飲み込んで、慌てて言い直しをする。
「華音にだって、有理紗がいるじゃないか」
「…………」
「だから華音が一人ぼっちなんてことは……」
「……ねぇ。そこに、大河君はいないのかな?」
だけど華音は、俺が飲み込んだものをいつの間にか手の中にぎゅっとしていて、開けてはいけないその扉を開いてしまう。思わず言葉を封じられてしまった俺の胸は、粉々に飛び散ってしまった気がした。
「大河君は、わたしの側にいないの?」
「…………」
華音の声がさらに迫ってくる。椅子に座る俺のすぐ目の前に立ちはだかって、疑問と不安を俺にぶつけてきた。距離が近い。顔が近い。吐息が近い。……そんな華音に俺はやり場を封じ込められて、ただただ後ろにたじろぐしかなかった。
「俺は、お前の……華音の側にはいない」
冷たい言葉だってことはわかってる。こんなこと、俺だって言いたくはない。
だけど……。
「なんで。なんでよ!? 大河君はわたしの味方じゃないの?」
「違う。……違うんだ。俺はお前の思ってるようなやつじゃないってこと」
「なんで? わたしのことが嫌いなの? わたしが鬱陶しいから?」
「だから違うって言ってるだろ!」
だらしないことにまた俺は怒鳴り声を出してしまう。華音の身体はびくっとなり、お得意の小動物のようなポーズで、小さく小さく萎んでいった。
ただここまで来てしまったら、もう話さないわけにはいかない気がしたんだ。
「華音が歌えなくなった理由、確か、ある曲を聴いたせいだって、言ってたよな?」
「う、うん。『月神の讃歌』っていうネットで聴いた曲……」
「その曲を書いたのは、俺なんだ」
「…………」
華音の体重がすっと抜けていくように見えた。大きな瞳は灰色へと変わっていき、俺を含めた目の前の光景が、全てモノトーンへと変化しているかのようだった。
「だからお前から歌を……華音から全てを奪ったのは、俺だってことだよ!」
その瞬間は、本当に時間が止まっていくような気がしたんだ。
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