あの曲が生まれた日 〜有理紗〜

 由比ヶ浜で書き留められた音の旋律は、間違えなく素晴らしいものだった。

 俺はピアノで一音一音再現しながら、そこへ和音を付け加えていく。もちろん和音だけでなく、アクセントやクレッシェンド、デクレッシェンドも。ピアノソナタとして必要な情報を、五線譜上へ全て書き記していった。だが、ここに書き記すのはただの記号でしかない。俺が今抱えている感覚全てを、ここに書き記すのは生易しいことでないこともわかっている。それでも今ここに存在するものが五線譜上に余すところなく詰められるように、一つ一つを描き出していくんだ。


 そもそもなぜこの曲は『月神』を表した曲だったのか。古代から月というのは太陽と対のものとされ、月と太陽は夫婦だったり兄弟だったりするらしい。でもそんな抽象的なものは俺はあまり意識していなかった。そんなものより俺が有理紗と共に暮らすこの部屋で、ありのままに見たものを描きたかったから。

 夜、月は黄色く輝いて見える。電気のなかった時代には、月の光を頼りにしていた人もいるらしい。それほど明るい光を、月は地球にいる生物へ授けてくれる。太陽が留守にしている夜の間だけ、代わりに月がその光を供給してくれるんだ。

 それならなぜ月は昼に光らないのか。そんなの考えるまでもない。月そのものが光っているわけではないからだ。あくまで月は太陽の代わりであって、太陽の光を反射させて、夜の間だけ地球に光を届けている。太陽がいなければ、月など輝くわけもない。なぜなら月は太陽によって無理やり輝かされているだけであって、月は何もしていないわけだから。


 俺はなぜそんな能無しの月に興味を持ったのだろう。

 そもそも、そんな曲を書いている俺とはなんだ? ただの天才高校生作曲家? 俺よりまともな曲を書けるやつなんて、ごまんといるじゃないか。俺が高校生というだけであって、天才と呼ばれるにはおこがましく、あの糞親父が書くような大曲なんて未だに書けた試しがない。所詮俺は、親の七光りだったというわけか。もっとも俺はあんな糞親父の子供だって、一度も名乗ったことはないけどな。

 俺はこれまでも自分で書いていた曲はおよそ自分で演奏して、インターネットの動画サイトで公開していた。自分ではただの趣味でしかないつもりだったが、どこからかその曲の数々を作曲しているのが高校生ということがバレてしまったらしく、その事実だけが一人歩きしてしまったように思える。『壮大なオーケストラが若々しいエンターテイメントを届けてくれる』などと持て囃されているようだ。どうしたらオーケストラがエンターテイメントになるのか、俺にも納得いかない部分もあった。

 元々親父も有名な作曲家で、いや有名な作曲家であるが故なのか、家庭を顧みるような人間ではなかった。親父と母親が離婚したのは小学四年の頃。俺は親父に引き取られることになったが相変わらず親父はそれまでと変わらない親父のまま。それ故、あんな糞親父、自分の父親だと思ったことは今でも一度もない。強いて言うなら、そんな糞親父のおかげで音楽活動を続けられたというくらいだろう。もっともそれが俺にとってどれだけ大きなことであったか、計り知れないのも事実であるが。


 やがて俺は、有理紗に引き取られた。

 都内の豪邸と言えなくもない屋敷に住んでいた俺は、有理紗のマンションへ引っ越してくると最初は狭苦しくも感じていた。それでもこの部屋がマンションとしては十分広い方なのだと知ると、俺はどれだけ世間知らずだったのだろうと改めて気づかされる。間違えなく前に住んでいた部屋よりも狭い。それでもマンションの最上階から見渡せる景色は格別で、俺に新しい生活を送り届けてくれるのに十分な可能性を秘めた場所だったんだ。


 そして俺は、作曲活動を始める。有理紗との生活を描こうと。

 有理紗とはずっと喧嘩ばかりだ。有理紗に恋人ができないことさえも俺のせいにされるし、反抗するとすぐに暴力を振ってくるし、そんなんだから有理紗に恋人なんてできっこないといつも思ってる。だけど何もなかった親父との生活に比べたら、何もかもが充実していて、俺の胸の内側は多くの思い出の時間で満たされていった。


 そんな環境の中で、俺の最後の曲も完成した。

 本来ならその曲は、今の俺の集大成とも呼べる作品になるはずだったんだ。

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