あの曲が生まれた日 〜由比ヶ浜〜

 その事件は、今からちょうど半年ほど前に起きた。


 去年の六月頃だっただろうか。まだ梅雨の季節の真っ最中という具合で、毎日のように冷たい雨が降り続いていた記憶がある。藤沢の街は紫陽花を見に行こうとする観光客でごった返していた頃のことだ。俺はそんな観光客に紛れ、江ノ電で鎌倉まで向かう。鎌倉だったら本来ならJR線で向かった方が早く着くのだが、江ノ電を使うと海沿いを走るため、その車窓からの光景には日頃の悩みを吹っ飛ばす効果が確かに存在していた。永遠と続く水平線に、さりげない程度の陽の光が電車の中へと入り込んでくる。もっともその光の強さは混雑した車内と梅雨の太陽というダブルパンチで、一年で最も弱くなってる季節かもしれない。だが、その程よさが俺にはどことなく丁度良かったような気がする。


 俺は長谷駅で下車する。多くの人々が同時に降り、降りた人々はこぞって北へ向かおうとする。北に向かえば紫陽花の名所として有名な長谷寺、さらにその先には鎌倉大仏などがあるはずだ。そんな人々の光景を一通り見届けた後、俺は駅から南へと向かって歩いた。小さな小径をくぐり抜け、しばらく進むと国道へと行き当たる。国道の先の向こう側には、雨で荒れ模様の海が広がっていた。俺は海岸線と並行して続く国道をさらに東へと歩き進めた。

 由比ヶ浜。江ノ島の西側に続く鵠沼海岸などと比べると、やや小振りな印象を受ける。それでも鎌倉市の代表的な海岸として、海辺で遊ぶ広さとしては十分な程度かもしれない。もっとも由比ヶ浜のその歴史を紐解くと、決して輝かしいものばかりではない。非情な哀愁漂うその浜の美しさは、何とも言えない儚さを現しているようにも感じられた。


 俺はノートを取り出して、クロマティックハーモニカを吹いてみる。

 湿った音が聞こえる。決して澄んだ響きではない。だがその淀んだ音の中から、微かに光る音を一つ一つつまみ出していく。その繰り返し。拾い上げた音を、繋げたり、離したり、やがて一つの旋律としてパズルピースをはめていくようにくっつけていく。静かで、荒々しく、激しくて、温かくて。

 そうして出来上がった音の連なりを、ノートに一音一音メモしていく。藤沢に帰ったらピアノでまた調整するのだからと、今はこの由比ヶ浜で聴いた海の音をそのまま記録することに集中するんだ。機械的なものよりも感覚的なもの。デジタルなものではなくアナログなもの。今ここで感じたもの全てをノートに書き写せればそれでいい。その音がまだ形にならなかったとしても、この瞬間を捉えていればそれでよいから。


 梅雨という季節のせいか、時折雨も降ってくる。当然のことだ。

 俺はハーモニカを一旦吹くのを諦め、傘を差し、ただただ荒れる海を眺める。雨はさらに強くなる。そんなの気にしてられるかと、頭の中でハーモニカの音を奏で始める。思い浮かんだイメージだけでその旋律を練り上げていく。違う、そこはそうじゃない。何度か消しゴムも使って、音のイメージを頭の中で書き換えていた。そうこうしているうちにまた雨は降り止む。そして俺はまた、ハーモニカでその音一つ一つを確かめながら吹き始めた。


 気がつくと由比ヶ浜は薄い橙色に染まっていた。もう間もなくすれば、分厚い雲の隙間から日が沈んでいくのが確認できるだろう。朝から昼ご飯も食べずにここにいたわけだから、何時間いたことになるのだろうか。

 俺は確かな手応えを感じていた。このスケッチがあれば今まで俺も感じたことのない、新しい俺の曲が完成できるかもしれない。そんな淡い期待が、夕焼けの向こう側に存在したんだ。


 こうして完成された曲が、俺の最後の曲となったんだ。

 だけどその時生まれた感覚は、確かに間違ったものではなかったのかもしれない。

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