見えない姿

 病院に到着すると待合室で待ってくれていた未来と合流して、華音が眠る病室へと向かった。未来は華音の母親の姿の存在にやや躊躇していたようだが、有理紗が大丈夫と合図を送ると、ぺこりと華音の母親に挨拶をする。それでもまだ未来の顔には不安な面持ちが微かに溢れているように思えた。

 可能な限りの明かりが消された病室に、窓からの外灯の光だけが差し込んでくる。未来の話によると、医者からは絶対安静にしてほしいと言われてるらしく、少なくとも今日はこの病室で泊まることになったとのこと。どうやら華音も意識はあるようだが、まだわずかに朦朧としているらしい。ただ、それだけでも俺は十分にほっとしていた。もっとも華音が倒れた理由についてはまだ聞かされていないせいか、漠然とした不安がぽっかりと残っているわけだが。


「そこにいるのは……有理紗先生?」


 あまりに暗く、視界もはっきりしない病室に関わらず、華音はすぐ真横に立つ人物について見事に言い当ててみせた。小さな声ではあるが、自信たっぷりでもあった。


「ええそうよ。華音ちゃん、大丈夫?」

「ひょっとして、おばさんだけに香水がきついのか?」

「大河は黙ってなさい!」


 有理紗はぐーで俺の頭に拳骨を入れる。かなり痛い。

 華音の小さな笑い声が聞こえる。力の弱い笑みではあるけど、多少元気だけはあるようだ。これなら医者の言うとおり、明日には退院できるんじゃないだろうか。


「未来もまだいるの?」

「うん、いるよ。華音ちゃんの彼氏の大河君も」

「だからそんなんじゃないって」


 未来は余計な一言を付け足して、少しでも華音を元気づけようとしているのかもしれない。華音はさっきよりほんの少しだけ大きく笑っている。ごく僅かな差ではあるが。


「華音、聞こえる?」

「…………」


 だけど次の声が聞こえた瞬間、華音はまた口ごもってしまった。その声も恐らく聞こえているであろう。ただし華音は自分の母親の声に対し、ぴくりとも反応しようとしない。


「華音ちゃん……?」

「なに、有理紗先生……」


 なぜならこうして有理紗の声は聞こえてるんだ。母親の声が聞こえないはずはない。


「それでいいの?」

「…………」


 有理紗の優しい声が、病室全体を包み込むようだった。もちろんその声だって、華音にはちゃんと届いたはず。だけどやはり反応がない。そのままどこかへ迷い込んでしまったのか、次に華音の小さな溜め息が俺の耳にも届く。何かに観念して、何かを決意したかのような、そんな息遣いにも感じられた。


「ねぇママ。やっぱり今日は帰ってもらえないかな?」

「華音……?」


 ただし華音の出した結論は、あまりに冷たいものだった。


「ごめんなさいママ。今日はまだ気持ちの整理ができてない……」

「華音。少しだけでもいいから、ママの話も聞いてもらえないかしら?」

「いや。聞きたくない!」


 華音はきつめに抵抗する。絶対安静と言われているのに、これ以上は良くないだろう。


「華音、ママね……」

「いいから早く帰ってよ!! お願いだから!!」


 その瞬間、有理紗が横になっている華音の両肩をきゅっと握ったのがわかった。俺の横からは華音の母親の細かな息遣いが聞こえてくる。娘の動揺を受け止めることができず、やり場のない想いがその吐息から強く滲み出ていた。


「今日じゃなくて……今度、ちゃんとママの話も聞くから……」

「…………」


 有理紗の手の温もりが、華音の声を優しいそれへと変えているようだった。華音にとってはこれが精一杯なのだろう。本当は自分の母親に失礼なことを言ってるんじゃないかって、華音はそう考えているのかもしれない。その声は今にも張り裂けそうで、有理紗の温もりがなければ冷たく緊張したまま、今にも壊れてしまいそうだったから。

 すると間もなく、華音の母親は病室から出ていった。ただしその後足音が聞こえたわけでもない。ひょっとすると病室のすぐ外に置いてあるベンチに腰掛けているのかもしれない。


 そして俺はほんの僅かな間だけを取って、本題を確認することにした。


「なぁ未来。今日は一体……」


 今日は一体、何があったのだろう……?


「華音ちゃん、今日の収録で……」

「わたし今日の収録で、歌を歌おうとしたの」


 未来の声に重ねるように、華音の方が先に答えてきた。華音が質問に割り込んだのは、これ以上未来に迷惑かけたくなかったからなのか。ひどく慌てた様子で、飛び込むようにその声を出していたから。


「華音ちゃん……!?」


 だけどその答えに最も慌てたのは有理紗だった。


「先生ごめんなさい約束破っちゃって。でもわたし、どうしても歌いたかったの」


 約束……とは?


「だけどやっぱし失敗しちゃった。それでこの有様だもん。だから今日は全部わたしのせい」


 華音は笑いながらそう答えている。もちろん無理していることはすぐにわかった。その声には緊迫さと、悔しさと、冷たさが、全部一つに入り混ざって、ぎっしりと詰まっていたから。俺の全く知らなかった華音の素顔が今日初めて姿を現したかのような、ただただ無情な心持ちが、俺の胸を強く握り潰してきたから。


 真っ暗闇で何も見えない世界。その中に華音はすっかり取り残されてしまったかのようだった。

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