浮かび上がる華音の顔

「元々あの子に声優なんて、無理だったんですよ」


 つい先程まで明るかったはずの駅前の街並みは、すっかり夕闇に包まれている。藤沢十七時三十八分発、上野東京ライン宇都宮行き、上り電車。もう間もなく通勤ラッシュを迎える時間帯だが、電車はそれとは逆方向へ走っていく。さほど混雑は見られないが、車内は静かでどこか重い空気が漂っている。華音が運ばれたという都内の病院へは、このまま順調に行けば十九時前後に辿り着くだろう。


「華音ちゃんは声優として、立派にやっていますよ。春からも役が決まってますし」

「でも今日だってこうして病院に運ばれてるじゃないですか」


 華音の母親はやや穏やかでない悲痛の声を響かせていた。周囲には聞こえない程度の小さな声だったが、それでも華音を案ずる気持ちだけはひしひしと伝わってくる。

 もっともそんな母親が、声優を続けようとする娘を反対しているという事実は、少し意外にも思えた。華音はのかやみななとして、去年から一定の成功を収めていたはずだ。そのはずなのに母親の方は、これまで何も評価していなかったということだろうか。そんなことって……。


「そもそもあいつは、いつも頑張ってるじゃねえか」


 気づくと俺は、そんな声が漏れていた。まるで独り言のような呟き声だった。


 だってあいつは言ったんだ。俺に、自分が歌うための曲を書いてほしいんだって。

 俺が曲を書けないのを知りながら。あいつは自分が歌えないのを知りながら。

 それでも、そんな情けない自分たちを真っ向否定して、あいつは歌うんだって。

 だから俺も、そんな華音に力強く背中を押されて――

 俺は、そんな華音に応えなくちゃいけないんだ。


 それをなんで、否定されなくちゃいけないんだ……?


 気がつくと、有理紗と華音の母親の視線が、俺をじっと睨みつけていた。俺は何かおかしなことを言っただろうか。有理紗は笑うことも馬鹿にすることもせず、ただただじっと俺の顔色を観察している。華音の母親の方はその場で立ち尽くしたまま、不思議そうな顔で俺の瞳に視線をぶつけてくる。


「あの子、頑張っているのでしょうか……?」


 そう零したのは華音の母親だった。

 いかにも自信なさげな声。思わず本当に華音の母親なのかと疑いたくなってしまう。だってあんたは華音の母親じゃないか。そんな母親が信じてやらねばどうするんだって……。糞生意気な餓鬼が考えるそうなことを、俺は頭いっぱいに思い浮かべていた。思わず吹き出しそうになる。馬鹿馬鹿しくて、くだらなくて、なんでこんなアホらしいことを考えなくちゃいけないんだよって。

 あいつ、頑張ってるに決まってるじゃないか。せっかく掴んだチャンスで、今度の春も大役を任されることになったんだろ。それなのにいつも俺のことばっか心配してきやがって。お前は前だけ向いていればいいのに。


 それなのに、収録中に倒れたってなんだよ!?


「華音ちゃんは強い子ですよ。そこにいる、大河よりもずっと」


 有理紗は母親にそんな声を差し伸べていた。その顔二つが互いに少しだけ優しくなる。

 俺と比べたところで、実際のところ何の救いもない。俺なんかとは比較にならないほど、華音は強く自分の意志を持っている。頑固で、我儘で、俺を励ましてくるばかりだ。だから俺が華音と比較されること自体が、そもそもおこがましいというもの。


 俺は一体、どんな顔をしているのだろう。ほとほと情けなくなってくる。

 気のせいだろうか。徐々にその母親の顔の背後に、華音の顔がうっすらと浮かび上がっていた。まるで冴えない俺の顔にそっと微笑みかけているかのよう。俺の顔には何も描かれていないのだから、見るなって……思わずそう答えたくなってくる。


「少しは私も……華音のことを、信じてみようと思います」

「ええ。あたしも華音ちゃんのことは信じてます。だから今日も、大丈夫だって」


 有理紗ははっきりと答える。きっとここにいる、誰よりも……。


「私も……君から少しだけ、勇気をもらえたから」

「え……?」


 華音の母親は、俺の顔をじっと見ながら、有理紗にそう答えた。

 目を逸らしたくなったが、それすらできなくて――


「君、ひょっとして……」


 そして俺にこう言いかけて、だがそれに続く言葉を聞くことはできなかった。

 何か鈍器で殴られたような、強い衝撃が俺を襲う。

 華音の母親の顔は、まだほんの小さく笑ったままだったから。

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