百九十円のおつかい
俺は電話で事細かな待ち合わせ場所を伝えると、俺もその場所へと向かった。
とはいえ、本当にその相手と待ち合わせなんてできるのか。相手は青いハンドバッグを持っているからそれを目印にとは言っていたけど、それだけで本当に判別できるのか怪しいところだ。電話から聞こえてきた声は、四十代くらいの女性の声。どこか聞き覚えがある声のような気もしたけど、そもそも四十代女性の知人なんて俺は知らないし、きっと何かの勘違いだろう。
だが、それは勘違いでも何でもなかった。実際その待ち合わせ場所まで辿り着くと、俺は一目でその女性が何者なのかわかったんだ。ご指定の青いハンドバッグもちらっと確認した程度で、それ以上の確認さえ必要なかった。
なるほど。道理で聞き覚えのあるような感覚を抱くわけだ。もっとも実際には聞き覚えという表現はやや間違っていて、ただ単に瓜二つだったという話である。
「あの……」
「あなたね? 私の大事な娘を誘拐した犯人というのは!?」
開口一番、唐突にわけのわからないことを言ってくる。そんなところまで瓜二つじゃねえか。他の人の視線があるから、そういう誤解を招く発言を容易にするのは止めていただきたいのだが。
そう。声や性格、顔立ちまでそっくりなのは、まさしく華音の母親、その人だったんだ。
となれば……。俺は有理紗の頼みを淡々とこなすのみ。それ以上のことをするつもりはない。俺の任務は『迎えに行くこと』だ。ようはこの華音の母親を有理紗の元へ連れていけば良い。余計な会話は一切せず、めんどくさいことは極力有理紗に押し付ければいい。それでいいのだ。
俺はひとまず『こちらへ』と合図するとそれより先は無言のまま、丘の上まで連れて行ってくれるバス乗り場へ案内した。このおばさん(でいいよな?)を丘の登山に付き合わせて、後でがみがみ文句言われたら割に合わないもんな。せっかくなのでバスの運賃百九十円も後で有理紗に請求しておこう。……などなど考えながら待っていたバスに乗り込むと、バスは間もなく発車した。しばらくすると丘を登り始め、けたたましいエンジン音が鳴り響いてくる。
丘を登る途中、窓の向こうには公園が見えた。子どもたちが元気にはしゃいでいて、それを見守っているのは母親たちであろうか。終始笑いながら、井戸端会議を楽しんでいる。完全に窓の外の世界で、俺の知らない世界。バスはあっという間に公園の前を通り過ぎて、すぐにその光景は見えなくなってしまう。
そういえば、華音にもあんな小さな子供の時があったのだろうか?
丘の上を少し走った後、バスは最寄りのバス停に辿り着いた。
目の前には俺や有理紗が暮らすマンションが聳え立つ。ここまで来れば俺の任務はほぼ達成だ。妙に肩が凝ったように感じるのは、きっと気のせいではないだろう。
「有理紗姉さん、お客様を連れてきました」
部屋に辿り着くと、俺はおばさんをリビングへ案内する。もちろんその瞬間、俺は有理紗に蛇のような目で睨みつけられたが、有理紗の視界の前におばさんが現れると、その威嚇攻撃を解除してきた。にこやかな笑顔で対応する有理紗。さすがは俺の実の叔母と言ったところか。
「粗茶でございます」
「…………」
俺はおばさんにバレない程度に有理紗を睨みつけたが、有理紗は知らんぷりして粗茶とやらをおばさんの前へ差し出している。柄でもないような口調に本当は内心吹き出したかったが、それではせっかくのお客様に対して失礼だ。ここは冷静に。……いや、もはやどっちが失礼なのか判別できない気もしたが、少なくとも今のところ火山は噴火していない模様。
「それで、娘……華音は、どこにいるのかしら?」
疑いの眼差しを有理紗にぶつけるおばさん。もとい、お客様。俺は密かにリビングからの撤収を決意する。後は有理紗に任せておけばいいはずだから。
「今日はラジオ番組の収録じゃなかったかしら。大河、そうだったわよね?」
「あ、ああ。学校終わった直後にスタジオに向かったからそのはずだ」
だがそんな俺の思考も有理紗は完全に読んでいたようだ。先回りして俺を話の中に巻き込んでくる。その鷹のように鋭い視線からは、絶対に逃がすものかという意志がひしひしと伝わってきた。ただし、もう疲れたのか、口調だけはいつもの調子に戻っていたが。
「それで、今日ここに尋ねてきたのは……?」
有理紗は本題を切り出す。もっとも既にその回答の答えには気づいているようだが。
「娘を、返していただきたいと思います」
おばさんはそう言うと、ゆっくりと頭を下げた。
駅前で俺に対して見せた失礼な態度は一切なく、一人の母親として、丁寧な大人の対応だった。しかしなんというか、こういうところまで華音にそっくりに思えてくる。決して憎むことのできないその性格が故、俺には猛烈な違和感が溢れてきたんだ。結局のところ、華音は……。
華音はやはり、家出娘だったんだな。
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