黒い化物との対峙

 俺は学校から帰宅すると、自分の部屋にあった黒い化物と相対した。


 以前の俺であれば、こんなものなんとも思わない代物だった。餓鬼の頃は普通にいつも弾いていたし、俺が奏でた旋律を有理紗に褒められたこともある。その時は素直に嬉しかった。楽しいときに弾けばそれに応えて音が出るし、悲しいときに弾けば俺をそれなりに励ましてくれる。真っ黒い塗装が鏡のように映り、音だって俺の胸の内側をそのまま返してくれていた。


 それが化けてしまったのは、ちょうど去年の今頃。ある事件がきっかけだった。

 それ以来俺は作曲ができなくなり、この黒い箱を弾くことさえもできなくなった。ピアノソナタであったその曲は、俺から何もかもを奪い去ったんだ。俺の才能も、生きる気力さえも。


 今でもこの黒い化物は、見るのだって嫌悪感を覚える。黒と白の棘のような針を持ち、響く音色は冷たいハンマーの如く胸の内側を強く叩く。恐ろしいほど尖っていて、貫くほど圧力を持っている。俺の身体はずたずたに切り裂かれ、心臓の鼓動はとうに冷たくなっている。


「あ、大河。おかえり。今日レッスンでこの部屋また使わせてもらうから」

「……ああ」


 黒い化物との睨めっこを諦め、制服から着替えようとすると、背後から有理紗の声が聞こえてきた。有理紗はそれの先生だ。だから俺がいようがいまいが、俺の部屋でもある防音室で堂々と弾いている。別に有理紗の音に関しては、聴くのが辛いとかそういうのはなかった。あの頃と同じように、俺の身体の中へ、雨のように染み渡ってくる。さすがはプロの先生といったところか、音と空気が同調しているんだ。きらきら輝く旋律に、俺の一番奥深いところで小さな温もりを見つけることができる。


 でもだとすると、俺にだってまだ希望があるんじゃないだろうか。

 俺はこの黒い化物の音全てを拒否しているわけではない。本当に拒絶しているのであれば、耳に入ってくる音だって悪寒を覚えるはずだ。もしかしたらこの嫌悪感は、ただの幻なんじゃないだろうか?

 ……そう思ったことも何度だってあった。これまでも。


「大河。着替えまだ時間かかるの?」

「ああ。もう少し待ってくれ」

「あと少しで生徒来ちゃうから、なるべく早くね」


 有理紗の催促。有理紗の生徒が来ると、俺の部屋は有理紗とその生徒に占拠される。居候という身分である以上、今更俺の部屋の権利を主張するつもりはないが、それでもやや鬱陶しくも思えてくる。


 俺は黒い化物を目の前にして、そこへ右手をのせた。


 木の冷たさが、右手の指にひしひしと伝わってくる。氷のような冷たさ。

 でも大丈夫だ。ただしここまでなら昨日もできていた。だけど今日なら……。

 次に左手。やはり先ほどと同じように、指から木の冷たさが俺を襲い掛かってくる。

 両手の指から、痛々しい冬の寒さを感じ取る。いや、冬とか関係あるのだろうか。


 なんとか十本の指が、白い鍵盤の上に乗っかっている。

 やっとの想いで……何も感じないわけでない。やはり何かを感じる。

 もしこのまま、指の関節に力を入れ、この白い鍵盤を下にはじくことができたら……


 そうすれば俺は以前のように、このピアノを弾くことができるはずだ――



 ……それから何秒が経過しただろう。

 この黒い化物は一向に音が鳴る様子もない。その気配さえも感じない。無音のまま。

 静寂の防音室の空気が俺をすっぽり包み込んでいる。


 そんなの当然だ。俺はピアノをまだ弾いていないのだから。


 なぜ弾けないのかわからない。誰かに拒絶されているのだろうか。誰に!?

 その犯人さえもわからないまま、俺は黒い化物の前で立ち尽くしていた。

 その空気に俺は飲み込まれそうになる。まるで漆黒のブラックホールのように。

 目の前が真っ暗になっていき、頭がくらくらしてくる。


 どしんっ!!


 そして俺は力を失い、後ろへ倒れ込んでしまった。いつもと同じように。

 今日はなんとか頭を打つことはなかったが――


「大河くんっ!!!!」


 ……誰だろう? 俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。悲鳴のような叫び声。

 その特徴的な声の主を認識した直後、俺はその場で意識を失っていったんだ。

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