クラスメイトの女子のベッドで起きたこと

「ここは……どこだ?」

「わたしの部屋。有理紗先生に手伝ってもらって、なんとかここに運んできてもらったの」


 目を少しずつ開けると、そこには小さな華音の顔があった。

 その背後には、見慣れた部屋の天井がある。ここはつい数日前まで俺が使っていた部屋のようだ。今は華音の部屋のはず。俺はどうやらベッドの上に横たわっていて……って、おい。このベッドって、ひょっとして???


「ここってまさか……」

「ああ動いちゃダメ!! まだ安静にしててよ」


 小動物の甲高い声が耳に響く。正直なところ、その声の方が身体に響くのだが。

 俺は首だけを動かしながら、やはりここは華音の部屋であることを再認識する。そして間違えなく華音のベッドの上で、俺の身体は華音が普段使っていると思われる毛布と布団に包まれて固定されていた。というのも有理紗が用意したと思しき高級布団が、ずっしりとした重みで俺を動けなくさせているんだ。

 それにしても紛いなりにも芸能事務所に所属する女子高生声優が、こうもたやすく男子を部屋に連れ込んで自分のベッドの上に寝かすとか、やはりどうかと思うんだけどな。


 華音の部屋にぶら下がっていた鳩時計の針は、ちょうど十八時を指していた。いやいや女子高生の部屋に鳩時計ってどうなんだというツッコミはさておき、俺が帰ってきたのが十七時少し前だったことを鑑みると、どうやら一時間ほどここで眠っていたらしい。

 ということはその間、華音はずっと俺の側にいたということだろうか。


「なんか、すまない」

「そんなの全然いいよ。大河君が無事だったから、わたしはそれでいい」

「そんな、俺のことなんか……」


 どうして俺みたいなやつのことを。小さな吐息のように声が漏れる。

 俺はただいつものようにピアノを弾こうとして、失敗して、その場で倒れただけだ。こんなのいつものことだし、一々構っていたらキリがない。こんな情けないやつのことなんか、放っておけばいいんじゃないのか。


「ねぇ大河君。いったい、何があったの?」


 くるくるとした丸い瞳が俺の顔色を伺ってくる。眩しいくらいだ。


「なんでもねぇよ」

「あんなすごい音したんだもん。なんでもないってことなんて……」

「いつものことだろ? だからなんでもない」

「いつものこと? そういえばたまに……」


 その音にどうやら華音も覚えがあったようだ。そう、これはいつものこと。

 白い鍵盤の上にようやく両手をのせた後、俺は指の関節に力を加えて鍵盤を叩こうとする。だがその力は見事なまでに弾かれてしまい、ピアノの音は出ないまま。それどころか俺の頭の中は真っ白になり、そのまま後ろへ倒れてしまう。

 これをここ最近、毎日のように繰り返している。江ノ島に行ったあの日からずっと。

 今日たまたま華音と有理紗に見つかったのは、レッスンの時間とそれが重なってしまっただけのこと。それだけのことでしかなかった。


「だからそんな大袈裟な話でも何でもない」

「そんなことない! だってついさっきまで大河君ずっと倒れてたじゃん!!」

「どうでもいいだろそんなこと」

「いいわけないじゃん!!!」


 華音は泣き声のような声音を強く響かせていた。隣の部屋で有理紗と生徒がレッスン中なんだからその邪魔しちゃダメだろって、ただし俺にはその反論する力さえも残されていなかった。しかもそれは、またしても俺が華音を泣かせてしまったかのようで……いや、いつもどおり華音は泣いてまではいないのだが。


「ピアノを弾こうとして、失敗して、倒れたというだけの話。つまらなくて情けない話だろ?」

「そんなこと……」


 そう。情けない。ありえないくらいに情けないんだ。


「それに比べてお前は声優として頑張ってるし、俺なんかとは住む世界が違う」

「そんなことないよ」

「だからお前は俺みたいなやつに関わる必要なんて一切ないんだ」

「違う! そんなことない!!」

「俺みたいなやつに関わってたら、俺の不幸の呪いがお前にも移るぞ?」

「そんなことないって言ってるでしょ!!」


 ばこっ!!


 その瞬間、唐突に鈍い音が部屋に響いた。左頬にじんとした痛みが襲い掛かってくる。


「いって〜な!!」

「あ、ごめん……」


 華音はぐーのゲンコツで、俺の左頬を叩いてきたんだ。本人はとっさのことだったのか、ほとんど無意識だったのか、今度はしきりに謝ってくる。そこまで謝るんなら最初からぐーで殴るのだけはやめてほしかったのだが。


「でも、わたしだって……」

「は?」


 やはりやや泣き顔の華音。本当は泣きたいのは俺の方なのだけど、そんな俺の切実な気持ちまではどうやら届いていないようだ。


「わたしだって、歌を歌えない。だから大河君の気持ち、たぶんわかる!」


 だが返ってきた華音の反論は、少しばかり俺の中でも想定外だった。

 華音の悩み。確かに江ノ島で未来がそう言っていた。華音は歌を歌いたくても歌えないんだって。あんなに大好きな歌を、歌手になりたくて声優になったという華音は、なぜか歌うことができないんだ。


 左頬の痛みはまだ収まりそうもない。その痛みは冷たくて引き裂かれそうで……

 ただ華音の精一杯の気持ちが含まれた痛みなんだって、それだけは理解しようとしていた。

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